逃走
シェイクスピアは1564年に生まれ、1616年にその生涯を閉じました。
私は「十二夜」、「ヴェニスの商人」、「オセロー」なんかを通ってきましたが、挙げたらキリがないほどの名作を産み出した、超天才作家です。
現代の文学、演劇、音楽なんかにもシェイクスピア作品の血は脈々と流れているようです。
だけども案外、良い扱いを受けていない。
多分どこの大学でもそうなんだろうと推測しますが、英文学を齧る講義にシェイクスピアが登場するたび、壇上の教授は彼の生涯に無慈悲な語呂合わせを当てはめます。
1564(ひとごろし)ー1616(いろいろ)
学生諸君は一斉にペンを走らせますが、まずもってそんな問題はテストに出ませんよ。
そんなことよりシェイクスピアに敬意を払いなさい。敬意を。
天国のウィリアム君はびっくり仰天していますよ。
「ぼく、偉人やねん、大作家やねん。」って肩肘ついて寝転んでたのに、ひっくり返って地上を覗き込んでいるに違いありません。
一方で、私が教科書に載るのなら、正真正銘「怠惰な人間」として記載されるでしょう。
私が参拝すると清水寺の滝が止まる。金閣寺の金が剥がれる。伏見稲荷の鳥居がドミノ倒しになる。それくらいに私は怠惰の道を突き進んでいました。
バチェラーが真実の愛でなく、真実の怠惰を探しているのであれば、すぐに私を見つけ出すはずです。私が真実の怠惰なのです。
思えば、京都に来てからというもの、私はいつも何かから逃げていました。
それは勉学であり、色恋であり、サークルであり、カラオケであり、カウンターの寿司屋であり、ラーメン屋のバイトであり、詰まるところ、自分からでした。
そうして遂に、京都から逃げ出すことになりました。
わたしが京都へ来てひどく偏屈になったのは、おそらく、どこにおいても下層に位置していたからに他なりません。
合格最低点で滑り込んだ大学には帰国子女や留学経験者が多くいて、入学した時から英語を意のままに操る人間で溢れていました。
一方で、私は田舎の公立を駆け上がり(小中高すべてで県名+方角の校名)、当然にネイティブとの交流など皆無でした。
英語のおじいちゃん先生は、"think"の発音が「シンク」ではなく「θíŋk」であるという一本槍で教鞭を取っていました。
そんなわけで、大学でのSpeakingやListeningのクラスの成績は悲惨なものでした。当時アナ雪で流行った"Let it go"を英語で歌わせたオーストラリア人の先生、私は今でもあなたを許していません。ただ、深い傷を負ったのは、英語の発音もさることながら、前述の通りカラオケから逃走していた歌唱力のせいかもしれませんが。
それからReadingのクラスはさておくとして、Writingのクラスでも成績が振るわなかったことは非常にショックでした。
これはペーパーの書き方、すなわち文章力について、ネイティブだとかが関係のない部分においても能力が劣っていた、という証明に違いないからです。
文学特論、教育学、言語学等々、おおよそTOEFLのスコアとは関係のない講義でも、私の劣位は顕著でした。
田舎で積み上げた自信は、木っ端微塵になりました。
また、他方で、友人を作ることもままなりませんでした。学科は1学年300人の大所帯で、講義ごとにつるむ友人が変わりましたし、かつ、週に1度しか顔を合わせないという環境下でした。私はそれに順応することができず、いつまでたっても素を出せずにいて、そして、友人と腹を割って付き合うことができませんでした。
あるいは単に、私の性格に難があっただけのことなのかもしれませんが、何にせよたいした友達はできませんでした。
社会人になったとて、曇った日常から抜け出せたわけではありません。
本社に異動してからというもの、自分には到底処理できないタスクに埋もれ、心身共にずたぼろになりました。残業でカバーできなくなった頃、ゆっくりと緩んでいた頭のネジが、ポロッと落ちてしまい、数ヶ月の間、休職しました。確か、地下鉄の臭くて汚いトイレにへたり込んで嘔吐し、取引先からの電話で声が出なくなった時のことでした。
当時、本社の労務担当には営業所時代に仲良くしていた後輩がいたのですが、藁にもすがる思いで提出した異動申告書、それがそいつの同期の中で回ったと知った時、あまりに情けなくて、それから惨めで、心と体が固まりましたね。あの感覚は初めてでした。
思えば、京都に来て10年。ゆっくりと自尊心が削られて、ゆっくりと生気を失ってしまったと思います。
地元にいた頃は楽しかったですよ。
私は部活に精を出していましたので、インターハイ路線では中国地方のブロック大会まで進みましたし、それから県代表に選出され、他県へ遠征にも行きました。
高校内にはそこそこ多くの友人がいて、ほどほどにうまくやっていました。1番モテた年は高校2年生で、女子生徒4人と男子生徒1人に告白されたと記憶しています。
それから、勉強も、やればすぐに成績が上がりましたね。割ととんとん拍子でした。
あの頃は、目一杯に自分の素を出すことができていて、かつ、それが周囲に認められていた
、良い時代でした。
ただ、地元を出て10年が経過した今、気軽に連絡できる友人はほとんどいなくなりました。
数年ぶりに連絡を寄こしたとして、きっと拒まれることはないのでしょうが、性根がひん曲がってしまった私には、いまさら合わす顔がないのです。
京都と地元、どちらが私に合っているのでしょうか。或いは、どちらにも居場所はないのかもしれません。
成り行きで地元に戻って県庁で働き、休日はテレビを見て過ごす。文化的刺激も娯楽もなく、海と山に囲まれて気怠く年老いていくだけです。
まあひとつだけ、孫の成長を喜んでくれる親に恩返ししやすくなったことは良かったのかもしれませんが。
何にせよ、子供の成長以外に活力を見いだせないであろう地元での新生活ですが、変に子供に傾倒することなく、のほほんと笑って暮らせたらいいですね。
最後に念のためですが、都会に疲れて田舎に帰るという平々凡々話が、noteに書くことで特別なストーリーに昇華するとは思っていません。
それから、赤裸々に書くことで誰かの琴線に触れとるとも毛頭思っていません。
ただの記録です。