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はじめましての人ははじめまして

そうじゃない人もはじめまして。
昨日のどうでもいい話。


会社帰り。遠くの空を見ると綺麗な夕暮れが広がっているのに、頭上では雲が厚くなって辺りは妙に薄暗い。まるで世界の終わりみたいで、子供のころはこんな天気ワクワクしたな、なんて考えながら自転車に跨る。

同じく仕事帰りであろうオッサンが、疲れた様子でトボトボと歩いていく。保育園のお迎えに来たお母さんは、手を繋いでこれからスーパーに行くのかな。習い事帰りの小学生たちが乗る猛スピードの自転車は、LEDライトで世界の終わりを少しだけ照らしている。

そういえば子供のころ「夜、自転車のライトを点けるのはダサい。」と思ってたな。堂々たるオッサンになった今、まったく共感できない。というか今やると無灯火運転で捕まる。なんでダサいと思ってたんだろう、と考えてみる。

小学校5年生のころ、『竜馬がゆく』にハマっていた。きっかけは漫画『お~い!竜馬』だったと思う。小山ゆう大好き。『白夜行』の武田鉄矢大好き。とにかく歴史小説にハマって、父親の本棚にあった司馬遼太郎とか吉川英治とか藤沢周平とか読み漁ってた。

小説に出てくる武士の生き様が好きだった。
自分もこうありたいと思った。

『竜馬がゆく』の1巻(だったと思う)に、こんな文章がある。

竜馬が15歳のころ、当時若侍のあいだではやっていた座禅を軽蔑し、 すわるより歩けばよいではないか。 とひそかに考えた。 禅寺に行って、半刻、一刻の座禅をするよりも、むしろそのつもりになって歩けばよい。いつ、頭上から岩石がふってきても、平然と死ねる工夫をしながら、ひたすらにそのつもりで歩く。

竜馬がゆく/司馬遼太郎

自分も武士になるため、この修行をすることにした。

登下校の通学路。頭上に大きな岩がある。いつ落ちてくるのかわからない。ここまでは竜馬と一緒だ。 でも、すぐに「落ちる落ちないとか自分のさじ加減やん!」って気づいて、修行は意味をなさず、ただ格好良く岩を避けるゲームになった。

結果、横スライドステップしながら登下校する小学生が完成した。
後のバーチャのアキラである。

半年も続けると、小学生なりにこの修行(ゲーム)について考え始めた。「死」について考え、夜な夜な震えて眠れなくなる、修行っぽい一面もあった。(「死にたくない」という結論で終わったため、効果なし。)
そして、横ステを奇異な目でみる周囲に対しては「周りが悪い。」という方向へ進んだ。

普通に考えて、「む、この小僧は自分の頭上に空想の岩を置き、いついかなる場合でも死を受け入れる鍛錬をしているのか!」とか察するやつがいたらやべえのだが、当時は「この深謀遠慮を理解できない周囲はアホばっかりだ!」と思っていた。

で、思想も横ステのしすぎで別ステージまで行ってしまったらしく最終的に「備えることは格好悪い。」という境地にたどり着いた。なんでや。つまり、小学生のころの自分には、夜、自転車のライトを点けるという行為が

「あぁ…夜だ…!
え、夜だ!!??
暗い!!      え、    く、暗い?
怖い!!!!!!
 く、車に轢かれちゃうかも!!!!?????
…そうだ!!!!
この…ライトを…             カチッ
…点けたら…………
…………見える!!!!!」

みたいな思考回路からくるアホ丸出しの行為に見えてたのだ。当然、アホに見られたくはないのでライトは点けない。

結果、大人になった今も午後から雨だから〜とか言ってる人を見ると「ファ〜〜よく寝たぁ。どれどれ、天気予報見ようかな。え、、、ああ〜!午後から!!雨!!!!大変だ!!!濡れちゃう!!!そうだ!!傘だ!!!!」って毎朝やってんのかなって最初に思ってしまう。修行が人生を複雑にしてしまった。

こうして絶対に無灯火で自転車に跨る小学生が完成した経緯を思い出したところで、自転車のライトは家族が待つ家を照らした。

とりあえず娘の将来のために「思想強そうな本、捨てよう。」と思った。


よかった。ちゃんとどうでもいい話書けた。

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