大石泉ちゃんと渋谷凛ちゃんの5G
泉と凛はホームに立って、電車が来るのを待っていた。近くに人影はない。ホームの端っこで野球道具を持った小学生くらいの男の子たちが集まっているのが見えるくらいだ。
電車はまだ来ない。暇を持て余した泉が凛に目を向けると凛は本を読んでいた。
「凛ちゃん、なに読んでるの?」
読書好きでもない凛が黙々と本を読んでいるのはレアな光景と言えた。凛は「ん」と読んでいた本を泉に手渡した。受け取った泉はタイトルを見る。
「手話入門? 凛ちゃん、手話を覚えたいの?」
「ちょっと本を読んで勉強してみたら私ももっと成長できるかなって思ったんだ。けっこう難しいけどね、手話も」
もう凛は十分すぎるくらい成長しているはずだと泉は思った。歌唱力もダンスの出来栄えも一流のアイドルだろう。
泉は本を凛に返しながら言った。
「凛ちゃんは、どんな気持ちでアイドルの仕事を――」
そこにアナウンスの声が降ってきた。まもなく六番線に電車が到着します。泉は言葉を途中で飲みこんだ。すぐに電車がホームに入って来たので、ふたりはさっさと乗った。
車内の椅子はすべて埋まっていた。泉と凛は並んで立った。電車が動き始めて二駅くらい通過したころ、凛が言った。
「ねえ、泉」
「どうしたの」
「今度の私のライブ、5Gを活用してやるってプロデューサーが言ってた。5Gってよくわかんないんだけど、泉は詳しい?」
「まあ大雑把に言えば、新しい通信のシステムのことだよ。たくさんのデータの塊を高速で正確に送信できて、同時に大量の端末が接続できるってやつ」
「ふーん、それを私のライブで使うのか。なんか、ステージの周りにたくさんのカメラを置いて、私をいろんな位置から撮影しながら進行するらしい」
「それはきっと、凛ちゃんの歌とダンスを複数のカメラで撮って、高速かつ遅延なくお客さんの手元にあるスマホに配信するっていう仕掛けね。カメラがいっぱいあればいろんな視点から凛ちゃんの姿を観ることができるのよ。歌っている凛ちゃんの顔のアップとか、ダンスを俯瞰した様子とか。そういうデータをお客さんそれぞれが持っているスマホに送信すれば、お客さんはライブ会場の中にいながら凛ちゃんを多様な視点から観れる。そういうギミックでライブのおもしろさを高めたいんでしょう、凛ちゃんのプロデューサーは」
「なるほど。よく知ってるね、泉は。私もいろんな本を読まなきゃなあ」
「読書はいいものだと思うわ。あ、次の駅で降りるよ」
渋谷凛といえばいまや売れっ子アイドルであり、CDも多数リリースしている。ライブを行うとなればお客さんは少なくないお金を払って会場に集まる。
大石泉がデビューしたのはちょうど凛が人気を高めている時期だった。泉もまた多くのファンを得たが、先輩である凛は泉の一歩も二歩も先にいた。泉もがんばってアイドル活動を続けているけれども、凛もまたフルパワーでアイドル界隈を走っている。
泉から凛を見て、うらやましい気持ち、嫉妬する気持ちはぜんぜんない。泉にも泉を応援してくれる人がいる。泉と凛、どちらも推しているファンも数多い。なにより泉はアイドルの仕事を楽しんでこなしている。なんとしてでも凛をトップの座から引きずり下ろそうとか、商業的な成績で競り勝ってやろうという意志はなかった。
ひとつだけ気になるのは、凛がなにを考えながらアイドルをやっているのかということだった。人気者のアイドルというポジションから凛はなにを見てなにを思っているのか。凛の心の形はどんなものなのか。泉はそれを知りたかった。
5Gを活用する、と凛が言っていたライブのチケットが取れたのはまったくの幸運だった。凛本人に頼めばすぐに手に入ったかもしれないが、なんとなく申し訳ないので泉は苦労して自力でチケットをゲットして会場に向かった。
大きめのコンサートホールに多くのファンが集っていた。凛のライブが超楽しみ! という表情でファンは開演を心待ちにしている。泉も楽しみだった。
泉の席はホールの端の方で、ステージは少し見づらい。しかし今回は5Gを取り入れているライブだから、どんな座席配置でもスマホに配信される映像で凛を様々な視点から観られる。泉はもっとライブが楽しみになった。
やがてライブが始まる。ステージ上に凛が登場し、ライブスタートの宣言を高らかに告げるとイントロが流れ出す。早くも会場のテンションはマックスまで上昇。凛の美しい歌声と鋭いダンス。これぞトップアイドルという雰囲気で会場を染め、泉を含めたそこにいる人間すべてが凛に夢中になった。
凛は生ける5Gだな、と泉は凛を見ながら思う。5Gの三つの特徴は高速大容量通信、超信頼・低遅延通信、多数同時接続。凛の発する声と踊りは大きく確実に素早く全員にもれなく伝わる。
泉の鼓動が早くなっていく。もっと凛の歌を聴いていたい、姿を見ていたい。
ライブの中盤、凛が泉の好きな曲を歌い始めたので、泉はスマホに目を向けて凛の顔に近いカメラからの配信映像を観た。泉はこの曲の歌詞が特に好みで、一字一句覚えている。
しかし泉が歌を堪能していたそのさなか、凛は歌詞を間違えた。会場の雰囲気が一瞬だけ凍る。泉もショックを浴びて震えた。だが凛は表情を動かさずに歌い続けた。お客さんもすぐに態度を切り替えて、歓声を上げる。
その曲を歌い終わったあと、ステージに立つ凛は言った。
「ゴメンナサイ。ちょっと間違えちゃった」
「いいよいいよ!」「大丈夫だよ!」「無問題!」とファンが叫ぶ。
「歌に集中できてなかったよ。情けないな私も」
そう言いながら、凛は両手をわずかに動かしていた。泉はスマホの映像を凛の身体全体が映るものに切り替える。指をほんの少し立たせたり、腕をゆっくり振っている凛が映っていた。
「もう一回、歌い直したいな。できれば」
凛が目立たないように手を動かすのを観て、泉は思い至った。これは手話の一種じゃないか? 正確な手話として手を動かしているわけではなさそうだが、言いたいことは伝わるレベルのサインなのでは、と泉が思うと同時に、イントロが聞こえてきた。いまさっき凛が歌詞を間違えた歌のイントロだった。
「もう一度歌います。今度は完璧にやるから、聴いてね」
ライブの尺は決まっているはずだ。歌の順番も。でも凛はそれらをとっさに変更した。あの手話のようなサインがライブを管理するスタッフに通じたのだ。ミスに克った凛を観て泉はドキドキした。自分もこの先、あんな勇敢なアイドルになれるのか、いや、絶対になってやろう。そう思った。
「アルバム発売、おめでとう」
と凛は泉に言って、暖かいココアを飲んだ。
「ありがとう。大変だったよ、収録」
泉は答えると、ドーナツを口に運んだ。ふたりは喫茶店でおしゃべりしている最中だった。ついにファーストアルバムをリリースするところまで自分は来たんだなと泉はドーナツを咀嚼しながらしみじみ思った。
「私ももっとがんばらないとな。怖いから」
凛はぽつりと言った。
「怖い?」
泉が疑問の目を向けると、凛は頷いた。
「いまのところ私は人気があるアイドルだけど、五年後、十年後もまだ人気を保てるのかなって思うと怖くなるんだ。世代交代っていうのかな? 私が大人になれば、勢いのある若い子が新しく出てきて、私は取って代わられるのかもしれない。それが怖い。ライブ中にそういうことを考えてて、歌詞を間違えちゃったときもあるんだ」
意外な言葉だった。凛だって苦しい気持ちと恐怖を抱えている。向かうところ敵なし、怖いものなしだと外からは見えていたのに。それがまさに一流アイドルの道を走っている凛が考えていたことなのか。
ふたりとも少し黙った。沈黙の中、泉はライブで見た凛の勇ましさを思い出した。凛は自分の中にある勇敢さに気づいていない。そう思って泉は言う。
「凛ちゃんには勇気があると思う。それをもっと伸ばしていけば、怖さもなくなるんじゃないかな」
「勇気を、伸ばす? どうやって?」
「なんていうか……他人に、凛ちゃんの望むことをしっかり伝えようと思い続ければ、怖さに立ち向かう勇気がもっと湧いてくるんじゃないのかな。凛ちゃんを観てるとそう思うよ」
「私の望みを伝えることか……それもおもしろそうだね。うん、ありがとう」
微笑んだあと、凛は再びココアを飲んだ。カップをテーブルに置くと、泉に言う。
「ところでさ、泉は今度のアルバムで、一番気に入ってる曲ってなに?」
「メロディが好きなのもあるし、歌詞が好きなのもあるわね。だから一番は決められないかな。アルバムの曲全部が、私が送信している最高のものよ」
「全部かー。そりゃアルバム聴いてみるのが楽しみだね」
凛も恐れを感じながらアイドルをやっている。泉はそんな凛から勇ましさを感じる。己の発しているデータが世界に広がって、他人の心の栄養になっていく。それがアイドルとして最も大切な営みなのかもしれない。泉はドーナツを食べながら、自分が次に立つステージのことを考え始めた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?