多田李衣菜ちゃんの卵
先生が黒板に書く数式を無視して、李衣菜は教室の窓から外を眺めていた。いまこの瞬間にも、世界各地で人類と天使の戦いが繰り広げられている。李衣菜が生活している極東はまだずいぶん平和なほうで、欧州戦線は大変な戦況になっているらしい。戦場なんて行ったことがないから想像しようもないが。
放課後、李衣菜は帰宅する友達と別れて事務所へ向かう。李衣菜は17歳にしてそれなりに人気のあるアイドルとして活動していた。電車を乗り継いで事務所まで移動するあいだ、携帯端末をいじってネット上のニュースを適当に見た。対天使戦関連のものがほとんどだ。天使との戦いが始まってから李衣菜の仕事も変わった。大きな会場でライブをすることは減ったし、CDの売上も落ちた。仕方のないことだった。人がみな天使と戦うことに意識を向けているから、イベントを開催するコストは削られ、工場のラインはCDではなく兵器の部品を作ることに使われている。
あまり人の乗っていない電車に揺られながら、李衣菜は対天使戦について考えた。天使の主張では、人間が天使にとって不合格な出来栄えの生物になったから殲滅するということになっている。しかし本当にそうなのか、と李衣菜は思う。天使が戦いを挑んできたときには、確かに人間は地球環境を破壊したし、歴史の上で何度も過酷な戦争を繰り返してきたから天使の主張通り人間は愚かな存在だ、だから殺されても仕方ない、と言う人もたくさんいたが、天使に立ち向かっていこうとがんばる人も多かった。人間が天使に殺されると顧客が減ってビジネスがうまくいかないから困るという理由で天使を倒さねばと思う人もいたし、天使に家族が殺されたから仇をうちたいという人、とにかく死にたくないから殺される前に天使を殺したいという人、などなど、天使をやっつけたいという人は世界中にいる。
人間は健気にやっているな、と李衣菜は思う。天使の戦力に対抗するために、必死に作戦を考え兵器を製造し兵士に訓練を積ませるというプロセスを組んで、命をかけて戦っている。それでも天使たちにとって人間は出来損ないなのか。努力が認めてもらえないほど、人間は悪しきものなのか?
李衣菜は電車から降りて、事務所に向かう。街は寒かった。冷たい風に吹かれながら事務所が入っているビルに行き、エレベーターに乗って四階まで上がる。事務所のドアを開けると担当のプロデューサーが出迎えた。
「おう、お疲れ様」
「お疲れ様です、プロデューサー」
プロデューサーは分厚い資料の束を抱えていた。李衣菜が来るのを待っていた様子で、すぐに会議室で話をしたいからついてきてと言った。李衣菜はプロデューサーのあとを追ったが、なにやら怪しげな雰囲気を感じた。
「天使に歌を聴かせるという作戦が始まるそうだ」
会議室でプロデューサーは資料を広げて言った。真剣な話をするときの顔だった。しかし天使に向かって歌う作戦とは。
「天使に歌? 聴かせてどうするんですか?」
「極東のチームが言い出したらしいんだがな。天使とコミュニケーションを取りたいんだと。だからメッセージを込めて天使に歌を歌うというプロジェクトが進んでいるんだ」
「戦場にステージを作るんですか」
「そんなところを天使に攻撃されたら全滅だよ。歌を録音したポッドをばらまくそうだ。んで、李衣菜にその歌を歌って欲しいんだ」
李衣菜は少しわくわくした気分になった。
「私のソロで?」
「世界中から歌手を百人集めて合唱するそうだ。そのうちのひとりに李衣菜が内定した」
「なるほどー」
プロデューサーが資料を見せてくれたので目を通してみると、大物のシンガーの名前がいくつかあった。その中のひとりに選ばれたのは誇らしいなと思う。ただこの作戦が成功する可能性はどのくらいあるのだろう。天使と意思疎通することは何度も繰り返されてきたが失敗し続けている。そんな有様で歌をプレゼントしてなんになる。
「プロデューサーはこの作戦が成功すると思いますか?」
「現段階ではわからん。だが歌というのは芸術なんだ。人間は芸術を生み出せる生き物だよ。絵画や音楽や芝居だけでなく、漫画やアニメも広い意味では芸術だろう。それを通して人間の心は満たされていく。李衣菜の歌を聴いてくれるファンも、芸術を体験して喜ぶんだ。その芸術を天使に届けるのは、人間の芸術に触って喜んでほしいというメッセージなんだよ。天使の価値観はよくわからんが、人間はこうした形でおもしろいことを表現する、あなたたちもできれば一緒に歌って欲しい、というメッセージなんだ。それを発信するのは無駄ではないと思うよ」
李衣菜は天使についてよく知らないけれども、天使だって人間のことを知っているんだろうか。環境破壊やら戦争の繰り返しがあったとしても、一方で人間はいくつもの芸術を生み出してきた。人間にもいいところはいっぱいあるのだ。李衣菜は頷いて言った。
「わかりました。ベストを尽くして歌いますよ」
「おう、こちらも可能な限りサポートする」
どんなメッセージを届けようか、李衣菜はすでに考え始めていた。