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鷺沢文香さんの祝福

 会議室で文香と向かい合ったプロデューサーはうれしそうだった。
「先日リリースしたCDの売上、どんどん伸びてます。鷺沢さんもビッグネームになりましたね」
 そう言ってプロデューサーは文香にノートパソコンを向ける。たくさんの数字と文香が歌った曲のタイトルが表示されていた。文香はそれを目でなぞる。
「ファンからの評価もいい感じですよ」
 と言ってプロデューサーが別のウィンドウを開くとSNSのタイムラインがあらわれた。文香に声援を送るファンのコメントが絶えることなく綴られている。それを見て、文香は不安を抑えながら言った。
「私を評価してくれる人がたくさんいるのはうれしいです。ただ、最近はこれでいいのかなと思うときも増えていて」
「高評価をもらえるならそれでオーケーではないですか? 金をもらうことと名声を得ることは鷺沢さんががんばった結果に付いてきたものです。自然にそうなったんですよ。むろんそれを濫用してはいけませんが」
 そのとおり、オーケーなのだが、足りないものがあると文香は考えていた。文香自身も己は人気アイドルであると思う。文香の歌を聴いて喜んでくれる人はたくさんいる。文香の性格やルックスに惹かれている人もいっぱいいる。それは誇りに思えることだし幸福なことだ。
 しかし、文香の心はそのほかのものを求めていた。なにかが欠落している感じ。それを文香はうまく言語化できなかったので、曖昧に返事をするしかなかった。
「そうですね、オーケーだと思います。よりいっそう努力します」
「がんばりましょう、鷺沢さん。売れっ子アイドルのプロデュースができるのは私もうれしいです!」
 この男性としては小柄なプロデューサーはだいたいハイテンションだ。自分ももっとテンションを上げて突き進めば心がスッキリするのかなと文香は思い、打ち合わせの続きをした。文香の人気が高いため、早くも新曲のリリースが決まったということで文香とプロデューサーはレコーディングのスケジュールを確認していった。

 新曲のレコーディングは順調に進んだ。切なくも激しい恋を描いた歌詞は美しく、心地よい四拍子のリズムもファンにウケそうだった。忙しかったが文香はベストを尽くして新曲を作り上げていった。
 新曲は無事に完成し、ヒットチャートにランクインした。
 文香はその結果を聞いて、自分がほかにできることはないのかと思った。売れる歌を作ることはできる。ほかに作れるものはないか? 新しく作り出せるものは? それが欠けているのがわかった。金と名声以外に自分が求めているものはそういうことだ。
 ある日、文香はどう言えばいいかわからなかったので、思ったままのことをプロデューサーに言ってみた。
「プロデューサーさん、私は新しいことを作るという経験を幅広く積み重ねたいです。なにか新しい形のものに取り組めるお仕事はないでしょうか」
 プロデューサーは少し思案して答えた。
「鷺沢さんが新しいことに挑戦して、失敗する可能性もありますよ。新しいというのは常にポジティブなことではない。ゲームでもよくあるでしょう、人気タイトルの続編に新しいシステムを導入して結果クソゲー化するというのは。鷺沢さんが好きな読書でも同じです。好きな作家が新作を書いたけれども楽しくない、前作のほうが優れていた、と思うこともあるのでは?」
 文香はしょんぼりした。プロデューサーが言うことも正しい。新たなるものが悪しきものになることは珍しくない。
「確かにそういうことも多いですね、やっぱり――」
「でも鷺沢さんが新しい仕事を望むのなら、いろいろ動いてみますよ」
「えっ、いいんですか?」
「担当アイドルが欲しいものを持ってくるのはプロデュースの基本です。やってみましょう」
 プロデューサーは相変わらず陽気な表情で言った。文香は不安と希望を感じながら「お願いします」とプロデューサーに頭を下げた。

 後日、プロデューサーは文香に企画書を渡した。一番上には【鷺沢文香 ピアノアレンジライブ】と大きなフォントで書いてあった。文香がいままで歌ってきた曲をピアノ演奏でアレンジするようだ。続きを読んでみると文香本人がピアノを弾きながら歌うライブをやる、と書いてある。
 文香はちょっと焦った。新しいステージを作る仕事だ。文香の欲求を満たしてくれる仕事だと思う。ただ文香はピアノを弾いた経験がない。新しくはあるがうまいこと完遂できる仕事だろうか。文香の表情を見ながらプロデューサーが言った。
「ちゃんと鷺沢さんがピアノの練習をする時間を作りますから、そう不安になることはありません。本番でも練習でも楽器メーカーが新しく発売した、三つのユニットに分解できる電子ピアノを使うのですが」
 文香が企画書をさらに読むといまプロデューサーの述べた電子ピアノの説明が書いてあった。鍵盤はハイブリッドで、数は88。三分割できるのに加えてとても軽く作られている。などなど。今回のライブで用いられるようになったのはメーカー側が宣伝に使いたいからという目的もあった。プロデューサーは続ける。
「ユニットを分解して持ち歩いて、弾ける場所で組み立ててピアノのを練習するという形をとります。持ち運べるぶん練習できる機会は多いと思います。自宅でも、事務所内の空いた部屋でも練習していいと許可が出ています」
「……わかりました。練習して、いいライブにします」
 と文香は不安だがやってみるしかないなと思いながら言った。
「では細かいところを話していきましょう」
 プロデューサーは頷いてから説明を始めた。

 文香はがんばってピアノの練習を繰り返した。まず指番号を理解して、楽譜を読めるようになって、右手と左手を同時に動かしてピアノを弾きまくった。上達するスピードは遅かった。なので必死になって練習に明け暮れた。
 よく晴れた日曜日の朝、文香は自宅で繰り返し電子ピアノを弾いていた。楽器というものは慎重に扱うべきもので、ド、ミ、ソと鍵盤を叩くべきところをひとつでも誤ってド、レ、ソと叩くだけでメロディが美しさを失ってしまう。鍵盤の位置はひとつしかずれていないのに。いま弾いた部分でもそんな間違いをしてしまった。
 文香は手を止めて伸びをした。技術はそこそこついてきている。だが本番で完璧に演奏できるかといえば未だ難しい。
 そうして文香の中で苛立ちか渦巻き始めた。なぜ時間を割いて演奏の練習に取り組んでいるかといえば、文香自身が新しいものを拵える仕事をやりたいと望んだからだ。でも練習に苦労するよりかは普通のアイドル活動を続けていたほうが気分は楽だったかもしれない。かといって始まった企画を降りるわけにもいかない。
 そもそもピアノ演奏とは新しいものなのだろうか? きっと新しいんだと文香は思う。
 けれどもただ新しいだけではあまり意味はない。新しくて楽しいものでないと、ピアノを弾いている自分もそれを聴いている相手も満足できないだろう。プロデューサーが言っていたとおり、新しさは必ず良いと決まってはいない。
 文香はそう思って、再び鍵盤を叩き始めた。単純に飾りや部品を追加しただけでは新しいけれどおもしろくない。全体を見直して、いままでとは別の、それでいて正しい解答を編み出さなければならない。その解答こそ文香が望んでいるものだ。
 文香はリズムに乗って曲を弾き始めた。ライブで四番目に弾く曲だった。きれいな音が流れ出す。いい感じだ。こういうのを本番でもやりたい。こんな解答を自分の手で作り上げて、ファンのみんなに届けてみたい。
 正しい解答とは違う正しい解答を渡して、相手の心に響かせる。変わっているけれど正しい意志を作りたいのだ。新しいステージでそれをやろう。

 ライブ会場は文香のファンたちで賑わっていた。多くの人が文香のピアノ演奏を聴きたいと思っているのだろう。控え室でプロデューサーが言った。
「鷺沢さんの新たなる一歩になりますね、これは! 練習の成果を思いっきり披露してください!」
 どこまでも元気はつらつな男だ。文香は緊張と期待を抱えて答えた。
「新しくて、かつたくさんの人に喜んでもらえるものを作るのは大変です。でも、それを伝えるだけの強さが、少しは身についたと思います……ではプロデューサーさん、そろそろ行ってきます」
「鷺沢さん、ファイトです!」
 文香はプロデューサーに見送られてステージに立った。例の電子ピアノと椅子がステージ中央に置いてある。文香は一礼してから椅子に座った。
「みなさん、私のライブにようこそ。今日は私の過去の曲をピアノでアレンジしてお届けします。楽しんでいただけるならば、望外の幸せ」
 その言葉に客席から拍手が上がった。文香は力を抜いて、鍵盤を弾き始める。
 こうやって、アイドルというのは自分をアップデートしながら進んでいく職業なんだろうと文香は思う。お客さんも、鷺沢文香がピアノを弾くというこれまで見たことのない光景に良い印象を持ったようだ。一曲の演奏が終わると大きな歓声が湧く。文香の解答が伝わった証だ。文香は新たなるステージを組み立てられた。
 ライブは楽しく盛り上がりながら進んだ。そして終わりが近づいてくる。
「みなさん、ありがとうございました。次がラストの一曲です。私のデビュー曲のアレンジ版ですね。最後なのでものすごい気合いを入れて弾こうと思います。みなさんの心に少しでも残りますように」
 文香は奏で始めた。

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