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水本ゆかりちゃんの改稿

 今日のゆかりのヴォーカルレッスンもまた大して捗らなかった。ゆかりをなぐさめるようにトレーナーが言う。
「この歌が複雑な構造になっているのはすでによくわかっていると思う。諦めずに努力を重ねるほかあるまいよ」
「はい」
 ゆかりは元気のない声で返事をした。いまゆかりが練習している曲はソロで歌うもので、テンポが早くなったり遅くなったり絶えず変化し、基本的には四拍子だが急に二拍子になったりする曲だった。拍の強弱の付け方も難しく、強くしたり弱くしたり中くらいにしたりとゆかりは忙しく強弱を付けて歌い続けなければならなかった。
 トレーナーがまた言った。
「だがこの歌は美しいと思う。完璧に歌えればヒット曲になるだろうね」
 そこはゆかりも感じているところだった。この曲は歌いこなせれば強烈な魅力を放つ歌になるだろう。ゆかりは過去にいくつか曲をリリースしているけれども、いま練習している歌はこれまでになくすばらしいものだという感触がある。ヒットチャートで上位に食い込むことも十二分に可能だろう。ゆかりは言った。
「私も同じ意見です。良い歌ですよね。だからこそ、難しいところが多くてもがんばり続けたいです」
「継続は力なりだな」
 大変な仕事だが、ヒット曲を生み出せると考えるとやる気が出てくる――なんとしてもこの曲を完璧に仕上げたいゆかりだった。

 ゆかりがレッスンスタジオから出て腕時計を見ると思ったよりずっと時間が経っていた。早く帰ってなにか食べたいなと思って廊下を歩いていると、事務所の一室からパソコンのキーボードをビシバシ打つ音が聞こえてきた。こんなに高速タイピングをしているのは誰だろうと、ゆかりはその部屋を覗いてみた。
 部屋の中では晶葉がパソコンの前に座ってキーボードを叩いていた。ほかには誰もおらず、室内に大きな打鍵音が響き渡っている。ゆかりは近寄って声をかけてみた。
「晶葉さん、なにかデータ入力のお仕事でもやっているのですか」
「ん、ゆかりか」前屈みでパソコンのディスプレイを見つめていた晶葉が振り向いて言った。
「プロデューサーのパソコンが不調でな。とあるソフトをインストールしたら一部のファイルが開けなくなったので原因を突き止めようとしているのだ」
 すると晶葉は眼鏡の位置を直し、再びパソコンに向き合った。「これもだめか」とか「うーむ、わからん」とぶつぶつ言いながら速いテンポでキーボードを叩きまくる。晶葉はディスプレイの様子を見ながら複雑な操作を流れるようにこなしていった。
 しばらくゆかりがぼーっと晶葉のタイピングを眺めていると、パソコンの画面に小さなダイアログボックスが表示された。そこで晶葉はマウスを強くクリックしOKボタンを押す。
「やったぞ、これで直った。私の才能をもってすればたやすいことだったな!」
 そう言って晶葉は椅子の背もたれに身体を預ける。
「晶葉さんはパソコンを完璧にコントロールできるんですね」とゆかり。
「天才だからな、私は」晶葉はニヤリと笑う。
「私も晶葉さんがいまやったように曲をコントロールしたいですね……」
「曲のコントロール? そういえばゆかりは新曲の練習に苦戦しているんだっけか」
「はい。難しくて、曲に振り回されている感じなんです」
「振り回されるならもっと曲について研究しないといかんな。曲の特性を掴めば乗りこなせるだろう。ピーキーな戦闘機みたいなもんだ」
「そうですね……歌うのは私なんですから、私自身が曲を操っていかないと」
「ゆかりの実力なら、きっとできるさ」

 それから数週間、ゆかりは曲のことを考え、練習し、課題を潰すことに没頭した。どうやって歌えばいいかを工夫して、曲を自分のものにしようと努力を尽くした。
 ある日、ゆかりはトレーナーとともにヴォーカルレッスンに臨み、力の限り歌った。歌い終えると、これは完璧な出来栄えじゃないかと思うほどに良い感触を得られた。
「トレーナーさん、いまのはいい感じに歌えたと思いますが」とゆかりはドキドキしながら言った。
「そうだな。いい感じだ。完璧」
 トレーナーはそれしか言わなかった。なにか考えごとをしているようだった。ゆかりは問いかけた。
「あの、私、なにかまずいことをしてしまったでしょうか……」
「いや、なにもまずいことはしていないよ。ただ、パーフェクトな形になりすぎているような気がする。水本さんがこの曲を正しく操縦しているのは伝わってくるが、長い間リスナーの心に残る活力のようなものが足りない」
 ゆかりは黙ってしまった。曲を操ることに熱中していたが、欠けているものもあった。一転して落ちこんだ様子になったゆかりにトレーナーは言った。
「まだこの歌の練習を続けるかどうかは水本さんが決めるべきね。納得がいくならここで完成、と締めくくってもいい。技術的には満点だし」
 ゆかりは元気を出して答えた。
「それなら、もう少しがんばってみたいです。まだ足りないところがあるのなら埋めたい」
「わかった。練習を続ける、ということね」
「はい」

 といってもなにをどうがんばればいいのかをゆかりは考えねばならなかった。歌を自分の手で操るだけでは足りない。トレーナーは活力という言葉を使ったが、リスナーに訴えかけるエネルギーが欠けているのだろう。聴いていて楽しいと思わせるようなエネルギーが。ヒットしそうな曲が出来つつあるのに完成まで持っていけないという苛立ちの中、ゆかりはどうしたらいいか考え続けた。
 ある日のこと、少し遠い街に用事があって、ゆかりは電車に乗った。乗客に目を向けるとほとんどの人がスマホをいじっていた。中にはヘッドフォンを付けて音楽を聴いている人もいる。
 音楽を聴くのは楽しいことだとゆかりは思う。音楽を創るのも楽しいことだと思う。
 では音楽はどう思っているのだろう。自分を聴いてもらうこと、自分を創ってもらうことを、音楽は楽しいと思っているだろうか。どうしたら音楽は喜んでくれるだろうか。
 ゆかりはヘッドフォンを身に付けた人を見ながら考える。自分はヒットをまき起こすツールとして曲を見ていたのかもしれない。曲を支配して使いこなすことばかり考えていた。それで音楽はゆかりと仲良しになれるのか?
 音楽の魅力を引き出すには音楽の言葉も聴かなければならない。
 曲のテンポが速いといっても、音楽自体はどのような速さを望んでいるのか。全力でダッシュするのか、恋人との待ち合わせに駆けていくような速さなのか。曲の構成ひとつひとつを見て、ゆかりはそれに当てはまるように具体的なアイデアを音楽側に渡す必要がある。
 強弱の付け方にしても単純に強さと弱さを定めるのでなくいろいろな強弱があるはずだ。強固な決心なのか、包容力のある優しさなのか、切ないはかなさなのか。音楽にとって喜ばしい強弱はなにかを考えるべきだ。
 音楽の欲求に合わせてゆかりは答えを返していく。そうすれば音楽はゆかりに寄り添ってくれる。歌うことはゆかりにとって楽しいことだし、音楽にとっても歌われることが楽しくあってほしい。ゆかりと歌が混じり合えば楽しいエネルギーに満ちた歌を生める。ゆかりは無性に歌を歌いたくなった。

 一ヶ月後のライブの前、控え室でプロデューサーが言った。
「ゆかり、新曲のお披露目だ。がんばってこい」
「ええ、とても素敵な曲に仕上がりました。プロデューサーさんもびっくりするかもしれません」
「俺は忙しくてなかなかゆかりの練習を見る機会がなかったが、トレーナーさんは褒めていたな。複雑な構造だが、ゆかりはそれをどう表現すればいいかマスターしている、と」
「たくさん練習しましたから。この曲はファンのみなさんにも気に入ってもらえると思います。私にとってもお気に入りになりました」
「自信、あるんだな。ならステージの上で、ゆかりの努力をぶちかましてくれ」
「はい、ベストを尽くします!」
 そう言ってゆかりは控え室を出て、ステージへと向かう。

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