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久川颯ちゃんの紡ぎ方
このトレーナーは厳しい、と思うのは何度目か。颯はダンスのレッスン中、講師役のトレーナーに指導を受けていた。
「久川さん、また動きになめらかさが足りなくなっている。常になめらかにすることを忘れないで」
「は、はい」
言葉でなめらかさが足りないと言われてもすぐにはピンとこない。なんとなく、身体の動きの流れをゆるやかにして腕や足を広げたり曲げたりする。
「それでは不十分。もっと美しくできるはず」
トレーナーは颯を観察して言った。
「ええ……どうしたらいいんですか」
「動きが硬い。曲線的なラインを意識して」
颯が取り組んでいるダンスはトレーナーが言うようになめらかに動くことで歌い手の気持ちを表現する振り付けだった。左右の腕を同時に、別々な形で動かす複雑さも盛り込まれていたし、さらに尺が長めで持久力が要求されるのも苦戦するところだった。
「指先の動きまで注意するように。猫背になっている箇所があるけど、そこも改善すべき点。ダンス後半で体力が減っているのが外から見てわかる。それを見えなくするようにしなさい」
などなど注意が飛んできた。このトレーナーはいままで颯のレッスンを担当していたトレーナーとは別な者で、容赦なく颯を鍛えるのだった。
その後も幾度か練習し、今日はここまでにしようと言われたので、颯はレッスンスタジオをあとにした。
予定は空いていたのでこのまま帰宅しようかと思いつつ、執務スペースの前を通りかかると、颯のプロデューサーがパソコンに向かっているのが見えた。颯はプロデューサーのそばに寄っていった。
「Pちゃんお疲れ様。なにやってんの?」
「ん、颯か。お疲れ様です」プロデューサーは視線をパソコンのモニターから颯に向けた。「仕事の関係者にメールを書いていたんだよ。覗かれたら困るから見ないで」
「なんか恥ずかしい内容なの?」
「関係者外秘の内容だ……ちょうどいい、少し休憩しよう」
そう言うとプロデューサーはメールを作成していたウインドウを最小化させ、ほとんどファイルのアイコンが見当たらないデスクトップ画面に戻し、椅子の背もたれに身体を預けた。颯がその顔を見ると、疲労の色が見えた。
「疲れてるんだね、Pちゃん」
「そうだね、疲れているよ。ずっとパソコンとにらめっこするのもしんどい。でも仕事が回って来るのは喜ばしいことだよ――颯だって疲れた顔つきをしてるじゃないか。ダンスレッスンに苦労してるんだってな」
「うん、振り付けは馴染まないし、トレーナーさんもちょっと厳しいんだ」
「あの方はベテランだ。だから要求する水準も高くなるんだろう」
「うう~、もっと簡単にダンスを覚えられる方法があったらいいのにね。脳にデータを入力してさ、一瞬で振り付けを習得できる、とか」
トレーナーの注意を浴びて、少しへこんでいた颯はそんなことを言ってしまった。プロデューサーは答える。
「IT技術が高まればそういう時代も来るのかもしれない。コンピュータで頭の中に技術を書き込んでノウハウをすべて取り込む、と。そうすればなにかを練習する、という行為自体がなくなる可能性もあるだろう。だが未だそうなってはいない。ならレッスンに励むしかないと思う」
プロデューサーはもっと努力しろと言いたいようだった。努力してるんだけど。颯は真面目な声を作って出した。
「はーい。はー、もうちょっとがんばります」
「でも努力したり練習したりすることって、颯に似合ってるけどな」
予想していなかった言葉だったので颯は目をぱちくりさせた。
「え? そうかな」
プロデューサーは言う。
「颯はいつも元気で、陽気な表情をしているときが多いだろ。だけどレッスン中の颯の顔つきは真剣で、勇気を持ってトライしているように見える。ああいうときの颯は魅力的だ」
「Pちゃん、はーがレッスンしてるとこ見てるの? スタジオの中にいないじゃん」
「たまに部屋の前を通るときに、ちらっと中を見るんだよ」
「ふーん。魅力的か」
そんなふうに見えると言われると、なんだか元気が出てくる颯だった。
それからもダンスレッスンは続いた。ガミガミと怒鳴る感じこそしないがトレーナーからの注意はいつでもたくさん降ってくる。それに負けじと颯も踏ん張った。
なめらかな動きを実践するにあたって必要なのは動作に溜めを作らず、常に動き続ける水のようになる振り付けだった。動作が次のステップに移るときも、力を抜いて、ごく自然に見えるテンポで踊っていく。颯はそこまで辿り着いた。
持久力を持つためには走り込みで体力をつけた。両腕でそれぞれ動きが異なる振り付けも反復練習で動作を暗記した。習熟していくと、トレーナーから褒め言葉をもらえるときがちょっとずつ増えていった。
ある日、ダンスの練習を終えるとトレーナーが言った。
「いい感じだ、久川さん。100点満点中98点の出来栄えだね」
颯は跳び上がって喜びの声を上げた。
「ホントですか!? 私もやればできる子なんですね」
トレーナーは何度も頷いた。改めてトレーナーに目を向けると、それなりに年齢を重ねた人のように見えた。颯は言った。
「あの、ちなみに残り2点はどこを減点されたのでしょうか」
「細かいディティールの部分だ。私の基準での判定だから、人によってはさっきのダンスで100点としたかもしれない」
「ならば、次回は100点を取れるようがんばります!」
テンションが急上昇した颯とは裏腹に、トレーナーは元気のない声で返事をした。
「ああ。もっとあなたのがんばりを見たいが、私が久川さんを指導できるのはあと二回くらいだ」
「どうしてですか? 別のアイドルのトレーナー役をやるから、とか?」
トレーナーは首を振った。
「いいえ。トレーナーという仕事を辞めるの。子供達と接する時間を増やしたいし、もうそろそろこの仕事から解放されたいと思うようになってきたから」
颯はなにを言うべきか迷ったが、結局なにも言えなかった。この人からダンスを教わって、実践できるようになった。いい点数ももらえた。しかし、もっと多くのことをこのレッスンから得られるような気がする。
「今日はこのあたりにして切り上げましょう。久川さんも疲れているでしょう」
「はい……」
そしてふたりは別れて帰途についた。
その日の夜、颯は双子の姉の部屋を訪ねた。ドアをノックする。
「なー、入ってもいい?」
ドアの向こう側から声が聞こえた。
「はーちゃんですか? どうぞお入りくださいませ」
「うん」
颯は凪の部屋に入った。凪はパソコンが置いてあるテーブルのそばに座っていた。身体越しにパソコンの画面が見える。なにか数値が並んでいた。
「なにしてるの、なー」
「表計算ソフトでお小遣い帳をつけていたのです。はーちゃんもやってみてはどうですか。それほど難しいことではありません。面倒くさい操作はコンピュータ側が勝手にやってくれます。連続データとかオートフィルとか」
「おっけ。今度やってみるから教えてね。で、ちょっと相談があるんだけど……」
「ほう。話してごらんなさい、我が妹よ」
そう言って凪はパソコンをシャットダウンさせた。颯は言う。
「いまダンスレッスンをがんばっててさ。いい感じに踊れるようになってきたんだよ」
「ふむふむ」こくこくと小刻みに頷く凪。
「だけど、それでいいのかなって思うんだ」
戸惑いが混じって、上手く形にならなかった颯の言葉に凪は落ち着いた調子で返す。
「ダンスレッスンを経てスキルが身についた。そこまではーちゃんは到達したわけですね。しかし、スキルを取得するだけが練習の目的ではない、と感じている、ということですか?」
凪がこちらの考えを察してくれたのはうれしかった。颯の言いたいことを凪はちゃんと理解している。
「そうなんだよ。練習して、ダンスができるようになって、それはそれでいいんだけど、そのまま終わっちゃうのは嫌なんだ。練習ってそんなものなのかな」
「なるほどね」
凪は大きく頷いてから唐突に言った。
「日本人はウォークマンを発明しましたが、スマートフォンは発明できませんでしたね。なぜでしょう」
なにを言っているのかわからねーと颯は思ったが凪の思考はいつもフリーダムなので颯はとりあえず答えてみた。
「うーん、発想とか、想像力が足りなかったのかなあ。タップで操作できたり家の外でもネットに接続できたりするデバイスを作りたいんだ的な発想を日本人は持てなかったというか」
「そうですね。凪もだいたいそう思います。ここで話を戻しましょう。はーちゃんはスキルを得ました。それをベースにしてなにが発明できるでしょうか? はーちゃんの発想力次第で、いろいろなものが発明できるのでは?」
スキル単体を習得して終わり、ではなく自身の発想でそれを組み替えていけばいい、と凪は言いたいのだろう。颯はそう考えながら言った。
「つまり……ダンスができるようになった、ってことを活かして、ほかのスキルを作っていくってこと?」
「はい。いまのはーちゃんは練習して得たことを解釈して新しいことに繋げたいように見えます。はーちゃんの脳の中にも工場があるのです。そこにダンスの技術という材料を渡してみたら、なにが発明されるでしょうか」
「変わった考え方――でもないか。意外としっくりくるね。そうか、スキルを得たらそれを元にしてなにかを作ればいいんだ」
「スキルとスキルを結びつける紐を持つことを、はーちゃんは望んでいるのではないかと凪は推測しています」
「ありがとう、なー。参考になったよ」
「妹を助けるのは姉の義務です。むしろどんどん凪に頼ってください。凪は世界で最も勤勉で力強く4トントラックにはねられてもびくともしない世紀末救世主です。妄想の世界での話ですが」
「よくわかんないけどワンダフルなんだな」
凪の壮大な語りを絶って、颯は自分の部屋に戻った。
「久川さん、格段によくなったね」
トレーナーが颯のダンスを見て言った。踊りながら颯は答える。
「そう言われるとうれしいです。まだ完璧なレベルではないでしょうけど」
「ええ、まだ完璧ではない」
ダンスを進めながら、颯は思考する。このレッスンから得たものでなにか生み出せるものはないか。なめらかな動きを通してなめらかな物の見方とか考え方とか作れないかな? クイズ番組に出たときとかに使えないかなあ。長時間のダンスは長い間集中力をキープするのに役立つんじゃないのかな。こうして厳しい人間に指導されてそれに応えることってのを通じて人間関係を構築したり、不満を処理したりできるかも?
踊りながらいろいろなアイデアが湧いてくる。もしかしたら全部使えないアイデアかもしれないが。ダンスに集中しつつ、颯は材料を拾っていった。
一区切りついて休憩となったとき、トレーナーが言った。
「久川さん、前回よりあなたの点数がアップしている」
「おお、何点ですか?」
「98.2点ね」
「えええええー、0.2点しか上がってないんですか!?」
「それでも加点できる内容だった、ということよ」
トレーナーはうれしそうにケラケラと笑って言った。颯は思わずシャウトした。
「私で遊んでませんか、トレーナーさん!」
「遊んでるわけではないわ。休憩が終わったら残り0.8点上げられるようがんばりなさい」
「はーい。がんばります」
練習してみて、そこから得られた物をいろいろな物と結びつけよう。自分にとって練習するというのはそういうことなんだろう。颯はそう思った。
そして休憩時間が終わる前に颯は立ち上がった。
「もう少し休んでいてもいいけど、もう始めるの?」
「はい。残り0.8点、取ってみせます」
「頼もしいね。私の仕事の締めくくりにふさわしい、タフなアイドルだわ」
颯とトレーナーはダンスレッスンを再開した。