鷺沢文香さんの舞踏
「稀代のアイドル」だとか、「グレートアイドル」だとか、近頃の雑誌の記事やSNSでは文香をそう表す文言が飛び交っている。そうした評判を目にするたび、そんなに自分はすごい人間なんだろうかと文香は疑いつつも、褒められているということ自体は快感だった。
その日も文香はプロデューサーから自身の評価を聞かされていた。プロデューサーは心底ウキウキしたような調子で言葉を放った。
「CDの売り上げもライブチケットの売れ行きも絶好調ですよ! 仕事に関係している方々も鷺沢さんは優れた人物であると仰っております。鷺沢さんも業界を代表するアイドルになったという印象がありますね! 担当アイドルがここまで成長するとはプロデューサーとして感無量ですよ。今後もがんばっていきましょう!」
プロデューサーは吠えるようにエキサイトして喋っていた。文香が商業的に良い成績を上げていること、仕事をする上での他者との接し方も良好であることは事実だった。文香は自分の心を整理するように返事をした。
「私としては、自分の評判がいいことは悪くないことだと感じています。ただその事実を疑ってしまう気持ちもあるんです……私はそんなにすごいのか、と」
文香の言葉を聞くと、プロデューサーはごく簡単な計算問題を解くような口調で言った。
「これだけ評価が高いのですから自信を持てば問題ないと思いますよ。鷺沢さんは強いんです。そしてこれからもよりいっそう活躍できる。いままでの調子をキープできればやがてすばらしいアイドルになるでしょう。だから疑ったりためらったりせず、強気になって進んでいけばいいんです」
「そうでしょうか」
自信を持つことが大切だというのは文香にもよくわかる。心理的に強い気持ちを維持するのも自分を肯定していくのに欠かせない要素だろう。勢いにのって突っ走れば自分はさらに成長していく――それを信じるべきだ。
自分は強いんだろう、とひとまず文香は思うことにした。自信を持ってアイドル活動に励むというのは格好いいじゃないか。それに応じてもらえるマネーと名声も高まっていく。前途は開けているのだ。ワンダフルだ。
それからの文香はテンションを上げて、積極的に仕事をこなし充実した日々を過ごしていった。多くの成功体験を積み、文香のレベルはますます上がり、快感に浸ることができた。文香は幸福だった。
「お前、帰り道こっちじゃないだろ。なんか用事あるのか」
「今日は鷺沢さんのニューシングルが出る日なんだよ。だからCDショップに寄りたいんだ」
「へえ、そうなんか。お前、鷺沢文香のこと大好きだよなあ」
「大好きになるのは不可避なんだよ。鷺沢さんは美しいんだ。ルックスも声も心も。俺、日本人に生まれてよかったと思ってる。あんなに美しいアイドルがいる国で生きてる俺は幸せだよ」
「見た目が完全にゴリラなお前が美しいとか言い出すとシュールな雰囲気があるな」
「うるせー、俺は本気でそう思ってんだ!」
「そうですか。あー、でもそんなに美しいアイドルの歌なら俺も聴いてみようかな」
「おっ、一緒に買うか? なら初心者向けのアルバムとかもついでに――」
「えー、鷺沢さんの新曲のコンセプトをお聞かせください……相互理解ですか。それはつまり……友達や仲間といった属性の人を考察対象にすると。昨今の人々にはそうした概念が歪に受け取られている、だから……なるほど、いやー、よく練られた歌でありますね。完成度が高いと言いますか。はい。ありがとうございました。では鷺沢文香さんの新曲を聴いてみましょう。どうぞ」
「プロデューサーさん、文香ちゃんの表情、柔らかくなりましたねえ。気持ちがちゃんと伝わってきます。カメラを向けるのが楽しいですよ。努力の賜物ですねまさしく……」
プロデューサーは明るい口調で言った。
「鷺沢さんに短編小説を書いてほしいというオファーがきています。やってみますか?」
「えっ……アイドルが小説を執筆してよろしいのでしょうか」
経験のない仕事が降ってきたので文香は面食らった。プロデューサーはまったく動じていないようだった。
「別にアイドルが小説を書くことが禁じられているとは思いませんね。鷺沢さんがパワーアップしてきたぶん、いままでにない仕事も任せていいんじゃないかと周りの方々は思っているのですよ。どんどん仕事に取り組んでいけば未知のステージにも登っていけるじゃないですか。私としてはやってほしいですね。鷺沢さんならできると思いますよ!」
文香は未だ少し戸惑っていたが、プロデューサーの勢いのある言葉を聞いていると、じゃあやってみてもいいかと考え始めた。
「わかりました。やってみます。詳細を教えてもらえますか」
「OKです。鷺沢さんが書いた短編小説が某週刊誌の付録になるという企画です。大体原稿用紙100枚くらいの分量にしてくださいとのことです。締切はかなり余裕があるので少しずつ書いていけばよいでしょう」
「承知しました」
文香は頷きながらどんな物語にするか考え始めた。
そんなわけで文香は小説を書く作業に取り掛かった。ストーリーの構造はシンプルなもので、主人公が欠落しているものを埋めるためにがんばる、というモデルを採用することにした。
なにかが欠けている状態から始まって物語のクライマックスでそれを満たすといった構成はありふれているけれども作品に魅力的な味を持たせることができる。主人公に恋人が欠けているのであればクライマックスで異性と結ばれて欠落を回復する、スポーツの才能があっても技術が欠けているのだとしたら練習するシーンを繰り返し描き、最後には技術を獲得し、欠けていたものが満ちて主人公が立派な選手になる、というふうに、話を作りやすいし盛り上げやすい。
文香の書く短編小説は、友達のいない女の子が孤独に絵画を描きながら、絵を見るのが好きな友人たちを少しずつ作っていくお話となった。
短いボリュームだったが文香に与えられている仕事は小説執筆以外にもたくさんあったので、小説のほうはゆっくり書いていかざるをえなかった。それでも締切には余裕があったのでそれなりに順調と言えるペースで書くことができた。
ところが小説をラストまで書き上げて、あとはよく推敲して仕上げようとなったタイミングでプロデューサーから連絡が入った。なにやら仕事の上で勘違いによるミスがあったせいで締切が大幅に短縮され、三日後に完成したものを届けてほしい、とのことだった。
文香はもう少し全体をトリートメントしてから小説を完成させたかったが、納期に間に合わせるのがプロというものだし、一応は最後まで書き終わっているので十分に推敲することなく提出した。細部が粗いところもあるが悪くない出来ではある、と思ってのことだった。
しかし実際に文香の作品が人の目につくところに出されると、少なからず否定的な意見が湧き上がってきた。比喩表現が稚拙だとか、描写が足りていないとか、インパクトがないとか。
それに対して文香のファンたちが反論を展開した。鷺沢さんの作品を貶すのは許せない、これはこれで面白い小説だ、文才を感じる出来栄えだ、と。いつしか文香のファンたちは「鷺沢文香信者」と呼ばれるようになり、主にネット上で文香の信者とアンチ文香との諍いが見かけられるようになった。
プロデューサーも文香もその騒動に介入すべきではないという考えをとった。小説の仕上がりが厳しめでも納期に間に合わせるのが第一なのだから文香が悪しきことをやったわけでもないし、文香が何らかの意見を発すれば余計に騒ぎが大きくなるのは明白だった。文香はこれまでどおり仕事に励むことを選んだ。
けれども文香は小説をめぐる騒動を忘れることはなかった。自分は本当に強力なアイドルなのだろうか。信者がつくくらいの人気がある、という点は文香が優れた人間である証拠なんだろう。でも、自分の強さを疑う気持ちがそれ以上に強くなった。文香は失敗した、と自分で思う。綺麗に掃除された部屋の一角に埃がほんの少し集まっているのがやけに気がかりに思うような感覚を文香は覚えた。取り組んだ仕事の結果で自分の気持ちが揺れ動いてしまうのは、成功体験を積み重ねたからこそ受けるダメージだろう。文香は戸惑いを抱えたまま仕事をこなしていった。
次にプロデューサーが拾ってきた仕事は、ドイツを紹介することをテーマにしたテレビ番組のコーナーの中で、料理をしてみないか、というものだった。
「鷺沢さんの作ったドイツ料理を番組の出演者みんなで食べるのです。この仕事、やりますか?」
と元気な声でプロデューサーは告げた。仕事が来たからにはやっておかなければなるまい、と文香は答えた。
「了解しました。やってみます……ですが少し料理の練習をしたいのですが。ドイツ料理には馴染みがないので」
プロデューサーは渋い顔になった。
「うーむ、スケジュールに余裕があまりないのです。別に、そこそこの味の料理が作れればいいんですよ。そんなに気張って練習せずとも大丈夫です」
文香を安心させるようにプロデューサーは言ったが、文香は安心できなかった。ちょっとでも強くありたかった。
「……いえ、それならばがんばって空き時間を見つけて練習します。出演者の方々においしい料理を振る舞って、大きなリアクションを起こしたほうが番組として盛り上がるでしょう。そこそこの味、ではよろしくない」
その言葉を聞くとプロデューサーはパッと表情を変えた。ハイテンションな口調で言う。
「いやー、そうしたガッツを見せてくれるのが鷺沢さんなんですよね。いいアイドルですよあなたは」
「そうでしょうか」
「そうですよ!」
文香はスケジュールを見直し、空き時間をなんとか確保するよう努力した。見つかった時間は全部合わせて二時間くらいだった。その時間を使って、文香はできる限り料理にトライした。ジャガイモの皮を剥き、カツレツを揚げた。
練習を積んでもとてもおいしい料理にはならなかった。このまま本番を迎えたらどうなるかと思い心配になる。先日の短編小説を書く仕事を文香は思い出した。あのときは自分の強さを疑った。
いまもそうだった。ドイツ料理を手掛けるスキルはあまりない。鷺沢文香はそこが弱い。
だが、それはそんなにネガティブなことだろうかと料理を味見しながら文香は思った。
まず弱いから、欠けたところがあるから、強くなり欠落を埋めようと思う――そういう考え方でいいのでは。強くなる前は弱い。弱いから強くなろうと思うことができる。まずは弱いところからスタートして強さを得る。
なら、弱いことはそれほど悪くない。文香はそう思った。そう考えると、弱いなりに全力で努力をぶちかまそうじゃないかという気持ちが芽生えてきた。
文香は素早く手を動かし、料理を作るのに熱中していった。
基本的にプロデューサーはテンションの高い男なのだが、最近はいっそうハイテンションに振る舞っている。
「鷺沢さん、今月もいろんなオファーが来ています! 人気アイドルまっしぐらですよ!」
「まっしぐらですか……よきことですね、それは」
「すばらしいことです! この仕事なんて――」
多様なジャンルに挑戦する中で、文香は自身の弱さをたくさん目にするだろう。だがそれもまあまあ良いことなんだと文香は思う。弱きことがたくさんあれば、強きこともたくさん得られるのだから。
文香はそう思って、私もだんだんテンションが上がってきたなと感じ、プロデューサーの言葉に耳を傾けた。