久川颯ちゃんの月

 ステージから戻ってきた颯の表情は死んでいた。プロデューサーは短い言葉でライブ会場のスタッフとやりとりをしたあと、颯を連れて会場をあとにした。

 宿に着くまで颯は一言もしゃべらなかった。今回のライブはそこそこ大きい会場を舞台にしてソロで歌うという、いままで颯がトライしたことのないレベルの仕事だった。

 今日の颯は歌詞を二度間違えて、振り付けを三回ミスした。プロデューサーと並んで歩く颯はなにも言わないで、足下だけ見ながら宿へ向かった。プロデューサーも特に言葉を出すこともなく、ふたりとも黙ったまま宿に到着し、それぞれが泊まる部屋に入った。

 そして夜が来て、プロデューサーが寝間着に着替え、さあ寝ようと思ったとき、ドアをノックする音が聞こえた。なんだろうと思ってプロデューサーがドアを開けると、パジャマ姿の颯が立っていた。

「なんだ颯。まだ寝てなかったのか」

「うん……」

 曖昧に言葉を漏らした颯はもっとなにか言いたそうだったが、緊張した顔のまま口を開かなかった。プロデューサーがじっと待っていると、やがて颯はプロデューサーの目を見て言った。

「Pちゃんと一緒に寝たいんだ。だめかな」

「そ、それはとんでもないことナリよキテレツ!」

 プロデューサーは身振りを入れて颯をたしなめたが、颯は立ったままその場から動かない。自分の携帯端末を握りしめ、涙を流して颯は言った。

「携帯でチェックしたんだ、今日のライブの反響。はーがダメだったっていう意見ばっかりで、はーだって失敗したくなくて一生懸命がんばったけど、ミスしちゃった……せっかくPちゃんが頭を下げて大舞台の仕事をもってきてくれたのに」

 颯の声はネガティブな色まみれだった。プロデューサーは穏やかな口調で返す。

「誰だってミスはするよ。僕だってミスをするときはある」

 そう言うプロデューサーに、泣きながら颯は叫んだ。

「わかってるよ。たった一回の失敗ですべてを諦めるのは間違いで、でもプロの世界はたった一回のミスも許されなくて、だけどこういうミスから立ち直れるのが本当のアイドルなんでしょ。全部、わかってる。わかってるけど、いまは誰かがそばにいてほしくて、Pちゃんが近くにいると落ち着くから一緒に寝たいんだ」

「……言いたいことはそれだけか、颯」

 渦巻く感情をすべてぶちまけた颯は目を潤ませて無言で頷く。プロデューサーは颯の肩を叩いて言った。

「そんなら、一緒に寝るか」

 颯は少しだけ明るい表情になって、涙を拭う。いままで気づかなかったが颯は枕を手に持っていた。プロデューサーの部屋に迎えられて寝床に自分の枕を置く颯。布団はひとつ、枕はふたつ。プロデューサーと颯は並んで布団に入った。

 やがて颯は言った。

「ねえPちゃん」

「どうした」

 プロデューサーは眠そうだったが、颯はもうちょっと話をしたかった。静かな部屋の中、ふたりの会話だけが響く。

「アイドルがアイドルを辞めたら、どうなるの?」

「颯はアイドルを辞めたいのか?」

 プロデューサーはシンプルに言ってのけた。颯は本音を口にした。

「素朴な疑問だよ。もしここではーがアイドル活動を辞めるって、仮に言ったとすると、どうなるのかな」

「うーん、芸能界に留まることができれば女優なりテレビ番組の司会者なりになれるかもしれない。もしくはドロップアウトして命を粗末にする暮らしになるか……あとはふつうの女の子に戻って、誰かのお嫁さんになるんじゃないか」

「お嫁さんか。それもいいかな。Pちゃん、はーをもらってくれる?」

 颯は冗談交じりに言った。しかしプロデューサーの返事は、いままで颯が聞いたことのない、冷たい心がこめられていた。

「僕は人生のうちに一回しか結婚しないと決めている。そしてその一回はもう過ぎたよ」

「Pちゃん、結婚してたの!?」

 颯は思わず大声を出してしまった。この男が結婚していただと? 左手の薬指にはなにもついていないじゃないか。どんな相手が奥さんなんだ。子供がいたりするのか? 休日は家族でテーマパークにでも行くのか? と颯がいろいろ考えていたところにプロデューサーは冷え切った言葉を紡いだ。

「うん。カミさんはもう死んだけどね」

「えっ……そう、なんだ」

 一瞬で颯の気持ちが揺れ動く。パートナーを喪った悲しみを、プロデューサーは短い言葉にすべて乗せていた。颯はプロデューサーの心の奥底を少し覗いた気分になった。そのあとのプロデューサーの言葉はアホらしいものだった。

「だから僕にできるのはカミさんとのセックスを思い出しながらオナニーすることぐらいしかないんだよ」

「Pちゃんはどうしてそうエッチなこと言うの……」

 眉をひそめて突っ込みを入れる颯を無視してプロデューサーはアホらしさを搭載した話を続けた。

「まあ生き物としては愚かだな。生きているのにセックスして子孫を残そうとせず、オナニーに耽っている。ある意味で僕は死んでいるんだろう。生物は次の世代になにかを残してナンボなのに」

 颯は黙って話を聞いた。プロデューサーは颯に呼びかける。

「颯には生きてほしいと思う。次の世代になにかを残せるアイドルになってもらいたいんだ。世界最高のピアニストがいたとして、その人がどれだけ巧みにピアノを弾こうとも、自分のあとに残せるものがなかったら、悲しいだろ」

 自分のあとになにかを残せるような人間、それが生きている人間なのだと颯を思う。プロデューサーはすでに死んでいると言うが、颯はこれから先、死なないのか。

「もう、寝よう。颯も疲れているだろう」

「うん、おやすみなさい」

 ふたりは眠りについた。

 翌朝、颯が目を覚ますと、プロデューサーはもう起きていて、タブレット端末を眺めていた。すでに寝間着からきちんとした服装に着替えている。颯が時計を見ると午前六時半だった。布団から出た颯に気づいたプロデューサーが言った。

「おはようございます」

「おはよーございます。なに見てるの?」

「ニュース。昨日の颯のステージに関するやつで、ちょっとおもしろいやつね」

「……どんな感じ?」

 颯はプロデューサーに近寄ってタブレットの画面を見た。颯も名前を知っている少しうさん臭い批評をする評論家のコメントが表示されている。

「『内容はともかく、久川颯のような十四歳の女の子が大きめのステージに立てた事実はアイドル業界に一石を投じるであろう。これに続いて今後は十三歳の少女や九歳の幼女が単独でライブをぶちかます可能性もでてくるのだ。日本アイドル界はまだまだ元気にやれるのだ。うじゃうじゃ』だってさ。相変わらずのスタンスだ」

「でも、そういう見方もできるんだね、昨日のステージ」

 颯はフラットな心で話を受け入れることができた。ミスした悔しさを思い出しても、もう涙は出てこない。

「そういうことなんだな。颯、部屋に戻って着替えて来いよ。そんで朝飯を食おう」

「はーい。Pちゃん、一緒に寝てくれてありがとね。気分、切り替わったよ」

「夕べはスペシャルなケースだ。二度とやらん」

「Pちゃんのほうから、はーと寝たいって言ってきたら、はーは何度でもOKするけどな~」

「そんだけ笑えるんなら、もう大丈夫だな。今日も明日も仕事だぞ」

「そうだね、もう、大丈夫だよ」

 次の世代になにが残せるか? そういうことは颯ひとりで考えるのはまだ難しい。ただ自分にはまだなにかを残せる可能性がなくはない。いまのところ颯は生きている。だからご飯を食べるのだ。

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