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依田芳乃さんの誓い

 スマートフォンに刺さったイヤフォンケーブルを通って、芳乃の耳にエレキギターの唸りが入ってくる。最近、特に流行っているロックバンドの楽曲だ。芳乃はそれを聴きながら電車でプロダクションへ向かっていた。
 芳乃も人気のあるアイドルではあるけれども、このロックバンドがリリースした曲の評価は非常に高まっていた。恋愛を真っ向から否定したこの曲は、疾走感に溢れ、恋や愛のくだらなさとコストパフォーマンスの悪さを巧みに批評し、孤独に生きることを強く肯定していた。恋に惑わされるくらいなら、独立独歩した人間として生きたい、そのほうが幸せになれると高らかに謳っている歌だった。
 電車の窓から外を見て、芳乃はイヤフォンからの音に耳を澄ます。恋を美しく非難するこの歌が人気を集めているのは、多くのリスナーが恋愛に不信感を持っているからだろう。自分はどうだろうかと芳乃は己に問う。恋愛はすばらしいものか、悪しきものか。
 この曲の勇壮なサウンドと歌詞を耳に入れていると、恋愛にもネガティヴな面がたくさんあるように思えてくる。恋など存在しない、ぶっ壊してしまえと叫んだほうが格好よく感じられる。きみが好き、あなたが必要、なんて言っていないで、独りで道を切り開いていくほうが強い人間なのだという気がする。
 それでも恋愛に夢中になる人がいる。いま芳乃が乗っている電車の中にも寄り添って座席についているカップルがうじゃうじゃいる。カップルたちはおしゃべりしたり、肩を寄せ合ったり、お揃いの指輪をはめていたりする。彼ら彼女らは恋をすることで世界から楽しみを引き出しているように見えた。そうしたカップルを眺めていると、この人たちは充実して生活しているようだ、と芳乃は思う。ならば恋愛は楽しいものなのか? 結局のところ芳乃は恋愛が良いか悪いかはっきりとした回答は持っていない。恋をしたことがないから。
 プロダクションの最寄駅で電車は止まった。芳乃はスマホを操作して音楽を止める。カバンの中身を確認して、荷物が揃っていることを確かめてから芳乃は電車を降りた。
 駅から数十分歩き、事務所に到着すると芳乃はプロデューサーと顔を合わせた。芳乃がカバンの中から書類を取り出すと、プロデューサーは言った。
「芳乃は仕事が早いな」
「わたくしはそこそこに人気のあるアイドルでしてー。ゆえに仕事は素早く処理したほうが円滑にアイドル業を進められるわけでして。そなたもそのほうが仕事がやりやすいでしょうー」
「そりゃそうだがな」
 プロデューサーは芳乃が持ってきた書類に目を通す。芳乃が書いたラブソングの歌詞がそこに記されていた。これが芳乃たちが進めている企画、依田芳乃本人が作詞したラブソングをリリースする、というものだった。作詞の締切はまだしばらく先だったが、芳乃はいち早く歌詞を書き上げていた。
「なかなかいいラブソングじゃあないか。芳乃は作詞のセンスもあるんだな」
 と歌詞を見たプロデューサー。芳乃はプロデューサーを覗き込むようにして言った。
「わたくし自身もそれなりに良いものが書けたと思いますがー。あのろっくばんどの曲のようにすばらしい歌詞であるかというと、そうでもなくー」
「ロックバンド? ああ、あの曲か。恋をぶっ壊そうってやつだな。あの曲は大ヒットしているよな。芳乃の人気を凌ぐ勢いで売れている」
「だから我々もがんばらなくてはならないのでしてー」
「まあそうだが、俺はあの曲をあまり評価していない。恋愛は否定すべきじゃあない」
「そなたは恋を肯定するのですかー」
「そりゃいっぱい恋愛経験を重ねているからな。ガハハ」
 プロデューサーは、どうだこの野郎、と胸を張って言った。芳乃は淡々と返した。
「しかし、いま現在そなたに恋人はいないのでしてー」
「うるせー、昔はモテたんだよ、俺は。中学も高校も大学も女の子と付き合っていたんだぞ」
「それだけの経験があるからこそ恋愛は良いものだと信じているのですか?」
「まあ、そうだ」
「恋愛のどこが良いのでー?」
 芳乃の問いかけを受けて、プロデューサーは宙を見て言った。
「そうだな……曖昧な話になってしまうが、恋人が一緒にいると、世界が違って見えるんだ。自分の視点だけじゃなく、好きな人の視点を加えて世界が見える。俺が嫌いな食べ物を、彼女は美味しそうに食べる。するとその食べ物にもいいところがあるように思えて、好きになったりする。街を歩いているときも、俺の見ている景色だけが世界の全てではなくて、俺が見落としている景色を彼女は見ていたりする。いつも歩いている街が少し新しく見えるんだ。趣味にしたってそうだろう。例えば昔の俺は映画鑑賞なんてするタイプじゃあなかったが、映画を見るのが好きな子と付き合ってみると、映画を見るのが楽しくなって、映画館に通うようになった。自分が少しずつ変わっていくんだよ、恋をすると」
「なるほどー。他人と自分の世界が混じり合うと」
「俺は恋愛のそういうところが好きだ。あのロックバンドのように恋をぶっ壊すのはあまり好みじゃあない。なんでも作るより破壊するほうが簡単なんだ。人間を破壊しようと思ったら金属バットを買いに行けばいいが、人間を生み出そうとしたら金属バットを入手するよりずっと手間がかかることをしなければならない。建物も乗り物も、壊すのは容易いが、新しく作るほうが難しい。難しいぶん、生み出すことというのに価値がある、と俺は思う。芳乃はどうだ」
「わたくしはまだそうした考えには至っていないのでしてー。しかしそなたの恋愛観は新鮮に聞こえるのでしてー」
「そうかそうか。もっと俺を高く評価したまえ。あー、話を元に戻そう。この歌詞はいい感じだから採用する。レコーディングまで間があるが、仕事もなかなかいっぱい来ているからどんどん労働するぞ」
「了解いたしましてー。人気アイドルとして、さまざまな仕事に挑戦するのはまことに心地よくー」
 芳乃たちはその後しばらく打ち合わせをした。その最中、芳乃は自分が書いた歌詞についてモヤモヤした気持ちを覚えていた。

 件のロックバンドの曲は相変わらず高評価を得ていた。その盛り上がりを見ながら、芳乃は自分の人気が落ちてしまわないか不安になったし、なにか自分も高めの評価をバシッと打ち上げたいとも思った。しかしロックバンドの曲を芳乃は繰り返し聞いていた。これはこれで美しい曲だと思えたからだ。恋愛をぶっ飛ばす勇気は良いものだと芳乃は感じ、そんな気持ちを抱えたまま、芳乃はそこそこ人気なアイドルとして仕事に励んだ。
 ある日のこと、プロデューサーから「声優をやってみないか」という話をされた。
「声優というというと、あにめーしょんのきゃらくたーの声を担当するお仕事ですか?」
「その通り。新番組『初恋の誓い』のヒロイン役の声優に芳乃を使ってみたい、という話がズキューンと来たんだ」
「アイドルが声優業に手を出すというのは、ちょっと危険な感じもしますー」
「プロの声優じゃなくアイドルを採用する、というとアニメファンも戸惑うかもな。でもうまいことやりきればその戸惑いも覆せるよ」
「なるほど、なんでもちゃれんじなわけですねー。やってみましょうー。詳しいお話をお聞かせくださいー」
「わかった。『初恋の誓い』は普通科の高校が舞台で、主人公の男の子と芳乃が声を担当するヒロインが嬉し恥ずかしの恋を展開していくスーパー・スウィート・ラブ・コメディー・アニメだ」
 そう言ってプロデューサーは綺麗に製本された冊子を芳乃に渡した。アニメ本編の設定が書かれている。読んでみると、メインとなる登場人物は少なく、主人公とヒロインの恋が丁寧に描写され、ふたりの距離が徐々に近づいていき、最後には恋人関係になって終わるというストーリーだった。
 これは恋について学べるチャンスかもしれないと芳乃は思った。自分も恋愛について、それなりに具体的なイメージを持てるかもしれない、と。

 芳乃はがんばって声優に挑戦した。こうした仕事をするのは初めての経験だったがやりがいのある仕事だと思った。序盤はぎこちなかった主人公とヒロインの関係が、だんだん親密になり、意思を通わせ、ビジョンを共有して日々を過ごしていく。物語の舞台となる高校に付き物のイベント――テスト、体育祭、夏休み、文化祭などで苦しんだり悩むエピソードがありつつも、主人公たちは絆を確かなものにして苦難を乗り越えていった。
 芳乃が演じるキャラクターは、話が進むごとに口数が増えていったり、主人公の話を傾聴するようになる。いつかプロデューサーが言ったように、主人公が見落としている世界をヒロインは拾い上げて、それを渡していた。主人公もヒロインと連帯して行動することで成長する展開がラストまでブレなかった。
 物語の構造としてはシンプルだ。恋愛を通してキャラクターが大きく強くなっていくというだけのものだったが、これは美しい筋書きだと芳乃は思った。
 あのロックバンドの曲のように恋愛を否定するのもひとつの真理なのかもしれない。けれども物語の一部を担い、恋というものをほんの少し体験できた芳乃としては、恋愛は悪くないと言えるのでは、と思った。
 だが恋は良きものと思える一方で、面倒くさく、成果を得るには時間がかかるのも事実だ。はじめはそれこそぎこちなく付き合って、いろんなイベントを通して、コストを支払ってやっと恋が進んでいく。一生恋人関係が続くかどうかもはっきりしない。そもそも恋をしてもそれが実らなければ悲しくなる。恋がうまくいっているうちは楽しいけれど、自分と恋人の気持ちが離れていったら寂しいだろう。現実の恋愛がアニメの物語のように進んでいくとは言い切れない。恋愛を作り上げ、生み出していくのは難しい。
 でもすでに出来上がったものがあるから、それを破壊できる。破壊したくても壊す対象がなければ、ぶっ壊せない。
 そのあたりの考えに対して、なにかアンサーを出したい。芳乃は少し前に書いたラブソングの歌詞を書き直そうと思った。

 新しく書いた歌詞を見たプロデューサーはキョトンとしていた。
「急に歌詞を書き直したいと言ってその結果がこれか。なんというか、連想を助けるキーワードを並べた詩って言えばいいのか、これ」
「恋に対して抱くいめーじは人それぞれだと思いましてー、いろいろな解釈ができる歌詞に仕上げたつもりですー。恋愛にはいいところと悪いところがあると思うのです。そこでアイドルにできることというと、できるだけ恋愛を良きものだと思えるように、応援することではないかとー」
「応援ね。援護、サポート、補助線を引く、角度を測る、ヒントを出す、しかし確かな回答は出さないという詩だなこれは」
「どうでしょうかー、採用されるでしょうかー」
「ううむ。俺はこんな歌があってもいい、と思うが……その辺は話し合いを重ねてみないとわからん。芳乃を含め、みんなで打ち合わせをしよう」
「わかりましたー。多くの人の意見をいただきましょうー」

 それからいくつかの話し合いを経た結果、芳乃の歌詞はなんとか採用されることとなり、曲がリリースされた。初動はあまり売れ行きが好調ではなかったが、じわじわと売り上げは伸びていった。
 するとライブでこの曲をやろう、とプロデューサーが言い出した。それは芳乃にとって望むところだった。ファンの前で、この歌を思いっきり唄いたい。なぜならこの歌は芳乃が生み出したものだから。 
 ライブの日程はスムーズに決まっていき、リハーサルも上出来で、本番にはお客さんが大量に集まった。このお客さんたちも、それぞれ恋をしたり、恋を嫌っているのかもしれない。では依田芳乃はどうするか、というと、もうそれは決まっていた。
 ライブの後半に、芳乃が歌詞を書いたラブソングを唄う場面が来た。芳乃は言った。
「みなさまにお願いがありましてー。次の曲はみなさまと一緒に唄いたいと思うのですー。恋愛とは破壊したくなったり清めたくなったりするものですが、そんなに酷いものではないと思うのです。みなさまと一緒に恋を励ます、それがわたくしの思うラブソングの形でしてー」
 観客席から歓声が上がった。みんなついてきてくれるようだった。曲のイントロの部分、優しく清らかなピアノの音が響き始めた。

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