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久川颯ちゃんのポジション

 颯は焦りを感じていた。学校の宿題が急に増え、ダンスやヴォーカルのレッスンにあてる時間が削られているのだ。もっともっと力をつけて、人気のあるアイドルになりたいのに。どうしよう。
 ある日、宣材写真の撮影を終えたあと、颯はプロデューサーに相談してみた。
「ねえPちゃん、学校の勉強とアイドル活動ってどっちのほうが大事だと思う?」
「両方大事だよ」
 プロデューサーは事務的な声で応じた。颯は話を続けた。
「最近さ、数学の先生が宿題いっぱい出すんだよ。でも、はーはアイドルのお仕事のほうが好きなんだ。勉強も大事だってわかってるけど、宿題を片づけるよりもアイドル活動のほうが楽しい。はーのなかではアイドルが真ん中にあって、その周りに勉強があるって感じ」
 プロデューサーは頷いて、颯の目の中を見て言った。
「つまり颯にはアイドル活動のほうを優先して取り組みたいという欲求があって、勉強したいという欲求はそれより低次な階層にあるんだな」
「意味もなく難しい言い方するね」
 颯はアイドル活動のほうが好き。だからやる気マックスで取り組む。勉強はそんなに好きじゃない。でも勉強も大事なことに違いない。だから勉強に励む気持ちがないといけない。でもその気持ちが少ない。颯は思っていることを言った。
「でも数学なんて難しいだけで将来のなんの役にも立たない科目でしょ。やる気、あんまりないよ」
 プロデューサーは颯から目をそらして言った。
「数学が将来役に立たない科目なら、なぜ数学というジャンルの学問を学校教育に組み込むんだ? 数学が役立たずの科目なら淘汰されて消えていくだろう。だがそうはなっていない。それは世の中に数学を必要とする人がいるっていうことだ」
「うーん、そうか。人によっては数学が役に立つってこともありえるんだね」
「それに将来じゃなくていまこのときに数学の問題を解いていくことは、颯自身にとっても役に立つ行いじゃないか? 学校の成績がいいにこしたとはない」
「それはわかってる、なんだけど、はーは勉強よりもっとレッスンしたいってつい思っちゃうんだ。勉強もやらなきゃってわかってはいるんだけど……」
「となると、いまボールを持ってドリブルしているのはアイドルとしての颯なんだな」
 プロデューサーは唐突にそんなことを言った。颯はその言葉の意味がわからなかった。
「Pちゃんなに言ってんの?」
「要するに、久川颯という女の子の中にはいろいろな久川颯がいるんだよ。その中でアイドル活動に励む颯とか、学校で勉強する颯とか、友達と遊ぶのが楽しいと感じている颯とか、おいしいものを食べたいと思っている颯とかがいる。で、いまのところアイドルである颯がコートの最前線にいて、ボールを保持してゴールを目指している。ほかの颯もコートの中にいるけれども、ボールを持っていないから得点に絡めない。颯の中はそんな感じなんだろう」
 颯は考えてみた。人が一日に一番会話をする相手は自分自身だと聞いたことがある。なにかを決めるときはまず自分の中で相談し合って決めているのだろう。颯の中には複数の意見を出す知性がいて、それらの意見を統合して颯は行動している。その中で最も強力な知性が、ボールを持っているアイドルとしての颯ということなのだろう。
「アイドルのはーが一番活躍してて、ほかのはーは目立たないプレーをしてるってことだね」
 プロデューサーは満足げな声色で返事をした。
「そんな感じに思ってくれればいい。ときにはボールをパスして、別なポジションにいる自分を動かすことも必要だよ」
「なるほどね。そういう考え方もあるか」

 それから颯はボールをアイドル以外の颯に渡す時間を作ることにした。勉強に集中するときは勉強に向いているプレーをする颯に前面に立ってもらい、颯の好きなアイドルの仕事をしているときはボールをキープしてやりたいようにやった。やはりアイドルとして歌ったりダンスをしているときのほうが楽しかったが、勉強もそれなりにおもしろいところがあった。

 宿題を消化していくと、数学の教師からの評価もほんの少し上がった。曰く、久川は最近がんばっているな、これならテストで高い点数が期待できそうだ、などの褒め言葉を颯は受け取った。自身の中にこれだけの実力があるのだと思うと誇らしかった。それでもアイドル活動のほうが圧倒的に楽しかったが。

 ある水曜日、国語の授業が始まるといきなり抜き打ちテストを行うと教師が言った。えええええそんなの聞いてないですよなに考えてんですか先生いいいいいと教室の中がざわめいたが国語は颯の得意科目だったので、突然のテストでも対応できるんじゃないかと颯はトライしてみた。テストの問題はそれなりに難しかったが、がんばれば解けるレベルだった。
 後日、採点された抜き打ちテストが返ってくると、五〇点満点中四八点という結果だった。颯はその答案を見てハッピーな気持ちになりテンションが上がった。ボールを持てばこういうプレーができちゃう選手も、確かにはーの中にいるんだな、とふと颯は思った。そうしてハイテンションでレッスンを受けたりミニライブをしたりすると、より楽しくアイドル活動ができた。

 数週間後、今学期の期末テストは難しいらしいという噂がクラスで広まっていた。また勉強しなくちゃという気持ちが颯の中で動き出したそのころ、颯のライブをやることが決まったとプロデューサーから連絡があった。
 事務所の会議室でプロデューサーと顔を合わせるまで、颯の気持ちは昂ぶっていた。やっぱりアイドルはステージに立つときが一番楽しく、うれしい瞬間だ。打ち合わせに入ると、颯はまずプロデューサーに聞いた。
「で、日程はいつごろなの? Pちゃん」
「こうなっている」
 プロデューサーは書類を颯に見せた。日付を確認すると、期末テストの翌週だった。
「げっ、期末のあとじゃん……」
「あー、そのへんは期末テストの時期か。テスト勉強の時間も作っておかなきゃアカンな」
 そう言うプロデューサーに、颯はライブの日付を見つめながら言った。
「まあ、勉強するのは苦じゃなくなってきてるんだけどさ。超楽しみなライブが控えてるのに、勉強に集中できるのかなって思って……」
「でもテストで満点を取る必要はないが、高めの数字を出したほうがライブも楽しめるだろう」
「そのために努力しなきゃ、ってことでしょ。うー、わかりました。がんばります」

 こうして颯は期末テストをクリアしつつライブも思いっきり楽しもうと決めた。そのためにはまず最初に近づいてくる期末テストのほうを片づける必要があった。しかし机に向かって考えるのはライブのことばかりだった。本番で魅せるであろう自分の歌の歌詞やダンスの出来栄えを思い浮かべるとドキドキして、いますぐ歌って踊りたくなる。どの歌をどの順番で歌おうかとか、あそこの振り付けは見せ場になるぞ、とイメージすると止まらなかった。
 いまは勉強に集中して、テストでいい結果を出して、それに対するご褒美としてライブを満喫するんだと考えてもなかなかテスト勉強にコミットすることができない。観客席からお客さんは自分にどんな声援を送ってくれるのだろう。それを想像するだけでテンションが上がってくる。反対に、勉強へのモチベーションがしぼんでくる。これじゃだめだと思いながら、心はライブを待ち望んでいた。
 そのとき、いまのところアイドル活動に励む自分がボールを持って走っている、ということを颯は悟った。
 勉強をしなくちゃと思う颯はボールを持つことを待ちながらコートに散らばっている。いまライブを待ち望んでいる颯がボールを渡さなかったら、勉強の方を向いている颯のプレーは見ることができない。期末テストというステージに立つことすらなく、それらの颯は終わってしまう。
 それは自分の一部を否定することだった。勉強を志向している自分だってボールをゴールに叩きこみたくて走っているはずだ。もう少し、勉強をがんばる颯のプレーを見ておくのも悪くないのでは? 数学の宿題を提出して褒められたり、国語の抜き打ちテストだって良い結果を出せたじゃないか。だからこそ勉強モードの颯にボールを渡して、いいプレーを見てみようじゃないか。アイドルとして歌うとき、踊るとき、演技をするとき以外の自分も大切にしたほうが、己にとっていいことがあるだろう。
 颯は机の上に広がっていた教科書とノートを見直し、シャーペンを握り直した。

「Pちゃん、ネットニュースにはーの記事が上がってる! 『次に来るアイドルは……久川颯だぁ!』って!」
 事務所の執務スペースでプロデューサーにスマホを見せて、颯は元気な声を上げた。スマホの画面には颯を賛美する記事が映っている。
「颯の人気も上がってきたからな。この前のライブもいい感じにできていたじゃないか」
「はーはやればできる子ちゃんなんだよ。期末テストの結果だって良かったし! どの科目もだいたい八割以上はできたよ!」
「ほほう。次はそれと同じくらいか、より上に行ければいいな。さて颯、人気が出てきたからにはいろんな仕事が来るぞ。どんなオファーが来ても丁寧にやってくれ」
「まかせなさい! はーはまだまだがんばれるよ!」
 これからも颯は自分の中でボールを渡したり持ったりするのだろう。颯の中にあるチームに所属するすべての選手にパスを供給し、全体のプレーを美しくしたい。それが久川颯をレベルアップさせることにつながるのだ。

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