誰かのケアをしてる・してきた方にシェアしたい「5本のバナナ」の話
だいぶ昔の話になりますが
わたしの子どもの頃、
亡父が精神疾患を患っておりまして。
「病気の父と、それを支える母に優しくできない自分」に
罪悪感や無力感を感じていた時期があります。
子ども時代~20代くらいまで。
で、その後自分もうつ病になって、
「これは生き方変えないとイカン」と
様々な療法やカウンセリングや本などに
助けられて元気になり今があるわけなんですが
とても心に残った何冊かの本のうち一冊がこちら
この中に、
「五本のバナナ」の話があります。
著者が仏教の入門書をもとに考えたというこのお話
簡単にまとめてしまうとこんな感じ。
ここで著者は
「バナナを投げ捨てられた旅行者は、きっと怒り心頭だろう」
「けれどもし、自分でおなかいっぱい三本食べて、
残りはどうせ腐るだけだからと二本あげたとしたら
それほど腹は立たないだろう」
「この一本の違いが、愛と欲望の違いを生む」
「だから私たちが愛のためにできる一歩は
逆説的だが、まず自分を満たすこと」
と語っています。
「表面だけ善人のように整えてもダメで
等身大でなければ内実が不純になる」とも。
これ、当時(今もだけど)
ほんとうに身に沁みましたね~。
わたし自身の「バナナ」、つまり
子ども時代の
「安心したい気持ち」
「守られたい気持ち」
「安全に暮らしたい欲求」
「支えてほしい」「労わってほしい」「甘えたい」
なんて思いを
受け止め満たしてほしい欲求を
表面上無いように整えて(=バナナ食べるの我慢して)
「病人には優しくしないといけない」
「家族を助けないといけない」
なんて、
他人にバナナあげようとしても、無理だったんですよ。
自分に足りてないんだもの。
足りてないのに
「それができない自分は役に立たない人だ」と
無力感と罪悪感を感じていたわけです。
いやいや、そりゃしんどい。
バナナ、自分に食べさせてあげよう。
等身大に、足りてないんだもの。
まず満たしてあげよう。
って話です。
満たされてないと、
愛が欲望になって
「役に立って感謝されたい」
「善い人と思ってほしい」と見返りを外に期待して
それがうまく叶わないとつらくなってしまう。
わたし自身も
無力感や罪悪感を埋めるために
しっかり者を演じていながらも
「なんで私ばっかりしっかりしなきゃいけないの」と
親や会社や夫に腹を立ててもいました。
本音では、もうそうしたくないのに、
見返り(愛や評価)がほしいために
バナナをあげるようなことをしていたのかも。
ああつらかった。
そんな心になっているとわからずにいたわたしには
このバナナの話がとてもわかりやすく腑に落ちて
納得して、
自分を満たす(癒す)道にすんなり進めたんですよね~。
この「自分も大事に」の考え方、
今や普通に受け入れられてる気がしますけど
うっかりすると忘れがち。
わたしも現在、
実母の病気のことを心配しすぎたり
ここ数年身内を看取り見送ることが続いたので
「あ、バナナ(自分への愛)足りてないな」と
ハッとすることがあります。
なんとなくエネルギー不足を感じる、とか
「疲れてるのに」とイラっとしたりする時が
サインなんですよね。
そんな時は
まずは
自分に優しく
「よくやってるね」
「がんばってるね」等と認める。
できなさを責めない。
無理なことは「できないね」
感じた気持ちがどんなものでも
「そうだね」とゆるす。
安心、ほっとする、楽しい、うれしい気持ちを
経験させてあげる。
可能なら休む。
休むときも、形だけでなく
頭の中から、心から、
自分を優しく休ませるのが大事。
わたしも、そうしてます。
そうしてバナナおなかいっぱいにしたら
余ったバナナを「どうぞ」と誰かに渡しやすくなる。
一度おなかいっぱいになったら
二度とおなかが減らない訳ではないから
小さい子の空腹を気遣うように
自分への愛が枯渇してないか気に掛ける。
もしかしたら
「そんなに自分のこと気にかけてられない」
なんて面倒に感じるかもしれないけれど
そう感じること自体
意識が外側に向いているサインなのかもしれない。
実際長らくそう感じてたわたしは
いまはそのように思います。
*
心優しく、共感性の高い方が
育児や介護、そのほか人のケアをするときって
相手を思ってついつい
多くのバナナを渡そうとしてしまいがちかもしれません。
本当に毎日、おつかれさまです。
その尊重すべき優しさや愛を枯渇させないためにも
まずは自分をおなかいっぱいに。
そうしたら
純粋な愛の、美味しいバナナを相手にも手渡せる。
そうなれたら、お互いうれしいですよね。
【心の筋トレ その9】
まずは自分を満たす。