西本春佳「ただ集まって、春を待つ」
西本春佳の個展「ただ集まって、春を待つ」を2月半ばから3月頭まで開催しました。
プレスリリースのイメージから、写真展と想定していた方もありましたが、この展覧会はパフォーマンスの提示であり、展示された作品は《上演》でした。
西本は京都芸術大学で舞台芸術を学び、観客論を練り上げました。同大学院に進学し、修士論文の執筆を通して、観客論を現代アートの文脈に接続しました。この展覧会は大学院の修士課程の間に、埼玉、京都、滋賀で上演された同作品の再演として、aaploit で提示したものです。
ギャラリーの中央にこたつが置かれ、お菓子とお茶が用意されました。
お菓子と、お茶は自由に食べていいけれども、アーティストはどちらもすすめません。食べたい人が食べ、飲みたい人が飲む。
aaploit は商店街に大きなガラス戸の間口があるギャラリー、そこに提示されたこたつは、鑑賞者に対して何重ものハードルを示しておりました。
まず、アートギャラリーに入るというハードル、ギャラリーの中は外から確認できるものの、確認できるからこそ入ることに抵抗を感じてしまう。いざ、ギャラリーに足を踏み入れたら、こたつというプライベートとも取れる存在があり、そこに見知らぬ人が入っている。靴も脱がないといけないだろうし。
壁にはコピー用紙や、お菓子が吊り下げられている。よく見れば、何かのリモコンもかかっていた。共通して言えることは、鑑賞するためのものではないということ。そんな空間で、鑑賞者は、どう振る舞っていいのか、ギャラリーからのガイダンスも無しに、ただそこに居なくてはならない。
これこそがアーティストの目論み、世界に積極的に関与を促す。観客として世界に関与していく。そうしたことを求める作品である。前世紀のハプニングにはインストラクションがあった。この作品にはそれがない。西本の作品はハプニングを参照しながらも、それをアップデートしようとする試みのように見える。
この作品のルールを理解した鑑賞者は積極的に作品に関与し、壁にかけられた謎のメッセージを独自に解釈し、介入していく。この作品そのものが商店街への介入をしているかのように、観客となった鑑賞者も作品を改変していく。こうしたことが西本の提示した観客論そのものであった。
初日、西本が考えるオブジェを壁に配置する。こたつがあるなら、みかんが必要だろう、ジャンプが無いといけない。そうした具合に、どんどん空間が変化していく。こたつを中心として、人々がどのように変容していくのかを見せる、あるいはアーティストが見ている。もはや観客と演者という括りが無意味になっていく。
道ゆく人は、ギャラリーでこたつに入ってお茶を飲みながら、お菓子を食べて談笑している様子を見て、「何をしているのですか?」という問いかけをする。応える間もなく、展覧会のタイトル「ただ集まって、春を待つ」を認め、納得していく。ギャラリーの内と外で舞台が入れ替わる。どちらも演者であり、どちらも観客であるのだ。それこそ世界への積極的な関与をしようというメッセージであり、こたつというハードルを超えたところに観客論を見ることができる。
西本は2023年の秋にスリランカに旅立つ。
《上演》は、場所、舞台を作る人、関わる人などのコンテキストから場が作られていく。だから、今回はギャラリーの入り口の引き戸に日本語、英語、シンハラ語で、西本の詩が提示されていた。
そのうちの一節
演者も観客もなく、全てが等しく観客であり、共に世界を観測していく。人と人との関係性は虚構なのかもしれない。
鑑賞者にコミットメントを求めずに、関与してもらうという西本の狙い。三週間の aaploit の展示でそうしたことが示された。
観客論は常にアップデートされていく。スリランカで、どのように変容していくのか、今から楽しみで仕方がない。