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希望のカウンター ~道又蒼彩「own pace」に寄せて~ by H.I

初めて彼女の作品を観たのは、卒業制作作品「カフカの階段」のポートフォリオだった。木版画独特の柔らかなラインや色の濃淡、印象的な階段と人の構図がとても豊かな作品だと思った。一方でテーマである「カフカの階段」の話を聞いた時、画風に違う、厳しいテーマに少し驚きを覚えながらも、自身の研究とも通じるもの感じ、とてもワクワクしたのを覚えている。

9月上旬、半年ぶりに東京へと足を運んだのは、江戸川橋のギャラリーaaploitで先述した道又蒼彩の展覧会「own pace」を観るためだった。この展覧会は道又の「カフカの階段」シリーズと新作「own pace」シリーズを展示している。実物の道又作品を観るのは初めてで、はやる気持ちを抑えつつ息子を連れてギャラリーに向かった。

ガラス張りのギャラリーの入り口に立つと3面にかけられた作品たちが見える。淡い色合いを目に入れながら扉を引き、中に入った。
ふたつのシリーズから構成されたこの展示は入り口からみて、左壁と正面の壁に、「カフカの階段」シリーズ。右手の壁に「own pace」シリーズが飾られている。作品を近くで見ると、表面がキラキラと光って見える。油彩インクの光沢と、支持体となる和紙の繊維が光っていることに気づいた。さらに和紙はインクを含み、よく見ると波打つように表面が膨らんでいる。刷りと彫りを重ねる道又の作品らしく、インクのにじみや重なり、ずれが深い奥行きをもたらして、平面作品でありながら、影や空気を感じさせる不思議な雰囲気を纏わせていた。私は彼女の制作順に作品を観て回ることにした。

ここで少し道又作品のカギとなる「カフカの階段」について触れておこう。
「カフカの階段」とは社会学者である生田武志氏がフランツ・カフカの「父への手紙」を用いて提唱したものだ。カフカは、父からのプレッシャーによって生まれた生きにくさの葛藤を、登ることのできない階段に例えた。生田は、ホームレスや日雇い労働者の抱える問題がカフカのいう「階段」であり、まさしく社会構造の問題であると、「カフカの階段」を通して問題提起した。そして道又はこれを題材に、卒業制作を行ったのだ。まさに学生が社会に対峙する大きな転換期。彼女が直面する社会もまた登れないカフカの階段として映し出されたのだろう。まさに等身大の作品だ。

このシリーズの構図は生田の提唱した社会構造のようだ。左手から右手に昇るように描かれた階段の上段には華やかに歩く女性たちの姿。一方登れないほどの高低差のある階段下では、必死に梯子を使い這い上ろうともがく人々の姿がある。凄まじい絶望感。しかしその中で、平らな踊り場に座る子供たちや、軽い足取りに笑顔をたたえ、階段を降りる少女の姿もある。これらへの言いようのない違和感は、社会構造そのものに対する、道又の問いかけだ。前世代が「階段」といい、見せられ、作り出された価値観は本当に必要なものなのか。
道又は問題とされる社会構造の根底に、提唱者側を含め、社会にあるヒエラルキーを前提とした価値観の押し付けがあることに気づいていく。卒業制作となった「カフカの階段」はそんな道又自身の葛藤を見事に表象させた作品だ。

先述したが、この「カフカの階段」シリーズには1点だけ新作が紛れ込んでいる。それが「カフカの階段 No.10」。同じ服を身に着け、並んで踊る4人の女性。その中にはうまく揃えられずにいる女性が一人。上がりきらない腿とべたっとつけたままの足。それでも女性は焦ることなく呑気な表情だ。そして他の3人の女性もまた、彼女の乱れを気にすることなく、好きに踊り続け、振りの乱れや他者の存在を気にする様子はない。自分が踊りたいから踊る。たまたまそれがラインダンスだっただけ。そんな声さえ聞こえてきそうだ。ルールがあるようで、逸脱を恐れない彼女たちの様子は、これまでの「カフカの階段」とは異なる新しい提示であった。私はこの作品にワクワクするような自由さを感じ、なんとも爽やかな気持ちで、新作「own pace」シリーズに再び向き合うことにした。すると、そこに構成された不自然な作品配置と初めて見た時には気づかなかった、不思議なつながりが見えてきた。
「own pace」に書き込まれた背景や、土台の構成は、前作「カフカの階段」シリーズにとても似通っている。共通した木版画独特の柔らかい空気感は爽やかな風を感じさせ、暗く摺りだされた木々の背景からは混沌とした心の葛藤を感じさせる。しかし、前作とは異なり、作品全体に統一性を感じないのだ。さらに言えば、一定の作品同士は対になって共振しあい、それぞれ異なる世界を創り出している。その世界ひとつひとつが重なり、右の壁一面に何層にもかさなる不思議に混ざり合った世界を創り出している。何が違うのか。
どうやら、道又は透明のインクに少しの色を含ませ、対となる絵にそれらを刷り込ませているらしい。空気を刷り込むかのように、ほとんど透明のインクを幾重にも刷り込ませ、同じ色を介する世界を創り出す。その世界同士がまるで共振するかのようにつながり、作品の枠を超えて世界を創り出しているのだ。そして、これは木版画。その版は複数枚刷られることで、更に何重もの世界が生み出される。木版画の微妙な刷りのズレとも相まって、作品数以上に重複した、どこまでも広がる、多様な世界が本当にどこまでも広がっていくかのようだ。木版画だからこそ創出可能な世界観を意識させられ、思わず大きく深呼吸してしまった。更に言えば、この色の表現は、鑑賞者に意識させることなく視覚を通して独特の風合いと温かみを体感させることができている。木版画のリテラシーを必要としない、より自由な鑑賞体験がここにあるのだ。

この展覧会は、前述した道又自身が投げかけた問いに続く、道又なりの答えであり爽やかなカウンターなのだと私は感じている。道又は2シリーズを同時に提示することによって、社会にある洗脳的思考を表象し、更には脱却の姿勢を示した。この脱却にこそ、道又作品がより希望を感じさせる作品になった要因だ。前世代が、ある意味無責任に諦め、押し付けてきた価値観をアップデートしたカウンターは見事なものだ。道又もまた、悩みを抱える若者であり当事者だ。それでも彼女は半年という短い期間の中で、こんなにも柔軟にそして、すべてを包み込むように新たな世界を見せてくれた。刷り重ね、より豊かに、より新しい世界を提示し続けている。そして彼女がプレーヤーの少ない木版画を選び、新たな表現を模索している(own paceでは一部作品に実験的作品を含んでいる)ことも彼女自身の譲れないown paceであり、彼女の柔軟さやしたたかさの表れであると感じるのだ。それは彼女の世代の生き抜く力の証明でもあり、過去や前世代を否定も肯定もせずに自らの世界線を示すという最も難易度の高い表現だと言えるだろう。彼女の爽やかで軽やかでそれでいて幾重にも計算され重なりあったカウンターに気づいた時、私はただただ、感嘆のため息を漏らすことしかできなかった。

道又作品をみた翌朝。羽田空港に近いホテルの窓からぼんやりと朝焼けを眺めていた。
空がオレンジ色に光り輝き、朝日が射し始めたその一瞬、影になっていた雲の色が白へと変わり、淡いブルーとオレンジ色の、消えかかった美しいグラデーションの空に浮かび上がった。その空に道又のown paceの空を思い出し、あのカウンターはもう走り始めた新しい朝なのだと、改めて自分の心が希望に満ち溢れてくるのをかんじていた。
まだ寝ぼけてしがみつく幼い息子を抱きながら、彼女のような先人を持てる息子の未来に少しながら安堵を覚え、自分のすべきことを考え始めていた。

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