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前田梨那の「記憶のパズル」 by J.M

前田は 2021 年に「コンテンポラリーアートとしての写真」分野での若手作家の登竜門「TOKYO FRONT LINE PHOTO AWARD」のグランプリを受賞した作家である。私が初めて前田の作品を観たのは銀座の奥野ビルで行われた『実験美容室 vol.1 前田梨那個展「happened」』(2023 年 2 月 27 日~3 月 4 日)であった。その時の感想を facebook に記している。
「灯篭から放たれた光にのって人型が部屋の中を浮遊する。それ以外に物理的に存在する人型も。
シンクロする人型たち。昭和初期に建てられた奥野ビルのもつ場所の力とあいまって心がなごむ。
内藤礼さんの「人」を観たときに感じた気持ち。」
この作品は回転する灯篭のようなものの笠の部分が人型にくりぬかれており、中にある光源の力で壁に人型の光を映し出すインスタレーション作品だった。

昭和の初期に建てられた奥野ビルのもつ場の力と浮遊する人型の幻想的な雰囲気があいまって、(作品の感想ではなく)その時の自分の気持ちを在廊していた前田に 30 分くらい話してしまった。走馬灯のようにも見えるこの作品。人は死の前に走馬灯用のように過去のことを思い出すという話をよく聞く。その時に思っていることを伝えねば後悔するという思いになったのか。また、人型は表情がなく、抽象的なかたちをしている。そのため、自分がその時に一番、考えていた人を重ねてしまったのであろう。だからその人への思いをはなしたかったのかもしれない。不思議な経験だった。
この展示から半年もたたない 7 月 15 日。江戸川橋のギャラリーaaploit で前田の個展「tide land」を鑑賞した。
前回観た作品もアップデートされたものが展示されていたが、今回、わたしが注目したのは〈ghost have a poor eye sight〉である。同タイトルの作品が3作あるが、その中で「Beauty is completed by the moment」という文字が記された作品である。

この作品は 5 名の人物が写っている写真を加工した額装込みの作品(ゼラチンシルバー・プリント、バライタ)である。どのような状況で撮影されたものなのであろう。顔の向きがバラバラなので、記念写真でシャッターを押すタイミングを間違えたのか、意味のないスナップショットなのか。そんな写真に抽象的な「しるし」や線が描かれている。建物には上から下にしたたるような帯があり、その前の人物たちは顔や手が白く抽象的な「しるし」で覆われている。また、体のラインが白い線で塗られている。この白いラインの効果で個々が切り離されているように感じる。5 名の人々は顔の向きから推察するにバラバラの方向を向いている。右から二名は左前方の二人を見ているのか・・・左の奥の人物はカメラの方を向いてピース・サインをしてるもしくは手を挙げているようにみえる。左手前の二人もカメラに向いているように見えない。
ただ、ひとつ注目したい点がある。左の二番目の人物だけ目が見えているのだ。上方を見ているであろうこの人物の目線の先には何があるのだろか。
服装、荷物や建物など、これだけ、具体的な要素があるのもかかわらず、顔が無くなることで「自分」というものが失われてしまうようだ。残念ながら目だけ見えている人物も同様である。自分とは何なのか。顔でしかないのか。顔にしるしを描くことで何が表現したいのだろうか。
同じような手法をとる作家に五木田智央(1969-)がいる。五木田はイラストレーションから出発し、60~70年代のアメリカのサブカルチャーやアンダーグラウンドの雑誌や写真にインスピレーションを得た作品を発表している。

五木田の作品〈Tokyo Confidential〉は 4 名の記念写真をモチーフにしたように思える。五木田はプロレス・ファンを自認しレスラーをモチーフにした作品を数多く制作しているので、推察するに試合前の控室で撮影された記念写真かもしれない。左端は女性のレスラー、関係者、ガウンを着た男性のレスラーそして関係者の女性と言ったところか。前田作品との共通点はモノクロであること。そして、顔が抽象的なしるしによって覆われていることだ。
五木田作品を通して、前田作品を考察していく。モノクロであることで時代性が不透明になる。いつの時代のものなのかが判別する要素を消すことになる。また、五木田作品では背景が消され人物だけが描かれている。前田作品の人型の輪郭を白いラインで描いた効果と同様、画面の中で人物に目線を集める効果があると考えられる。
最後にしるしが描かれた顔である。前途したが、服装や髪型など具体的(特に五木田作品は個性的なキャラクター)でありながら、しるしのおかげで、誰だが全くわからなくなる。個の存在が消滅して人型でしかなくなってしまったのだ。
前田は 7 月 6 に行われたトークライブで「自分が自分である理由を知りたい」と語っていた。人物を人型に変化させることで何が自分というものを決定づける要素なのかということを探しているのではないだろうか。鑑賞者は抽象画を観た時に深層心理の中にある記憶を投影するように、それらのしるしに自分の思いを投影する。鑑賞者によってすべてが違う作品に見えるということである。
先日、京都の禅寺、大徳寺の老師、泉田玉堂の話を聞く機会があった。一筋縄では理解できない禅宗の公案集「無門関」の話である。「人間も宇宙も素粒子でてきている。他者も自分と同じと考え、他者のことを慈しむことができるはずだ」というような意味の話であったと記憶している。
この話から前田の問いを考えてみると自分と他者との違いは「記憶」ということになるのではないだろうか。
容姿、国籍や人種の違いなど素粒子レベルで考えてみれば、大きな違いはないであろう。しかし、記憶だけは他者とはまったく違うもので、自分のものでしかない。同じものはないのだ。最後に作品に描かれた「Beauty is completed by the moment」の意味を考えてみたい。わたしは「美しさはその時点で完成する」と訳したい。その時点とは鑑賞者が作品を観ている状態を指す。ジグソー・パズルはピースがすべてうまることで作品が完成する。
この作品は鑑賞者の記憶というピースが作品にはめ込まれることで完成するのだ。

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