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なんやゆうき「流転の澱」展覧会評 by S.N

2023 年 6 月 9 日から 25 日にかけて、文京区にあるコンテンポラリーアートギャラリーaaploit で開催されている、なんやゆうき「流転の澱」を鑑賞してきたので以下にレビューを記す。

流転の澱 installation view, 2023, ©なんやゆうき, aaploit

なんやは、今年 2023 年に名古屋芸術大学を卒業。在学中は洋画を学び、主にドローイングでの制作を中心に活動をしている若手アーティストである。
会場に入ってまず目につくのは正面の作品で、本展示タイトルにもなっている「流転の澱」である。真っ先に笑顔が眼につく作品だが、よく見ると少し怖い感じもしてくる。笑顔の左側には目玉の様なものが多数配置され、右側上部には、横にびよょーんと伸びたような顔も見て取れる。またこの作品は、下地の素材が折り曲げられていることから、キャンバスではなく画用紙のような固めの紙を使用して居ることが分かる。
会場の正面から向かって右側は、どれも同じサイズの小さめのキャンバスが 6 点ならび、それぞれが「流転の澱(〇〇)」というタイトルで、ランダムに掛けられている。左からそれぞれ「温床」「おおきな洪水」「遡上」「草上を跳ぶ」「泡沫」「原野」というタイトルである。正面の「流転の澱」からの派生作品といえる。
それら小作品の対面である会場左側には、素描のような作品が 2 点。版画が 1 点。額入りのドローイングが 1 点並んでいる。こちらも左から「陽気な手垢」、「狐のすじ」、「制約のない写実」、「無冠」というタイトルの4点だ。
なんやが何を表現するためにドローイングをしているのかは定かではないが、筆者は「無冠」を鑑賞することで何かを読み取れたような気がしたので以下に綴っていこうと思う。
「無冠」は、冒頭で述べた正面の作品「流転の澱」のなかに出てくる横に伸びた顔の人物が全身描かれている様に見える。
方眼紙の様な紙の裏に鉛筆で書かれている内容を解説すると、両手をキリストの磔刑のように拘束され、顔がこちらを見ながら、真横に倒れている。しかし足は脛、足首の辺りから紙の中に埋もれていて、その先に描かれているのは足の指先だけだ。
作品をしばらく眺めていると、手の形状からなのか分からないが、全体が人間ではなく、子宮のように見えて来る。しかし、描かれている人物の股間には男性器も見て取れる。
女性と男性の生殖器が描かれている事から、この作品は、人間の生殖行為に焦点を当てているのではないかと考えた。
人間が過去から続けてきた子孫を残す行為による生まれ変わり。いわゆる流転輪廻を描いているのではないかと思われる。今展示タイトルで使われている「流転」が表現されているのではないかという結論に達した。
ではもう一つタイトルに使われている「澱」とはなんなのか?
わたしは当初、人間が流転輪廻していく事によって、この人間界に残されていく残滓を、ドローイングの中で表現しているのかと考えた。しかし「無冠」以外の作品を見ていると、実はもっと作家に近いもののように感じられる。
作品「流転の澱」と、その派生作品に多数見られる目玉に注目したい。この目玉は、なんや自身が他者から見られている目であり、自分以外のその他大勢をイメージしているのではないだろうか。現代社会では、常にだれかとコミュニケーションを取る事を強いられ、リアルでもバーチャルでも、他者がイメージしているような理想の人間を演出しなければならない。
他人のために自分の人生を演出することで、作品内に書き込まれたのが笑顔のイメージである。そのカウンターとして、黒く濁った感情が背景に渦巻いている。「流転の澱」にはそんなただならぬ雰囲気が伝わってくるように感じられる。
現代社会のコミュニケーションツールとして使われているバーチャルな世界では表現できない。ドローイングという作家自身の中から出てきた表現は、写真や CG ではなく、作家が手を動かして描いたドローイングでなければ表現できなかったのではないだろうか。
一方、左側壁面には唯一の版画作品である「孤のすじ」が掛けられている。素描の様な表現が多い左壁面を「流転」のパートとして鑑賞して、右壁面を「澱」のパートとして鑑賞すると理解が深まるように感じる。なぜならば、なんや自身が流転という人間の営為に加担させられたことで、今現在の世界に存在している。生前の「流転」は自分ではコントロール不能であり、偶然によって生まれた産物であると考えると、版画という少なからず偶然から
産まれる表現がかけられているのが納得いく。
右壁面の「流転の澱」から派生した作品群は、今後の世界に「澱」として残り続けると言える。言い換えると、「流転」によって現世に存在するなんやが、作品を製作することによって「澱」を生成しているのではないかと考えられるのだ。
「澱」を生み出す事によって、この先に続いていく「流転」の旅に、どのような影響があるのかは誰も分からない。しかし、制作という行為が、少なからず影響を及ぼすのではないかと思うに至ったのである。

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