土浦亀城 近代建築の目撃者/佐々木宏編 建築の書架から その7
この「近代建築の目撃者」という本に昔から惹きつけられるものがあり、何時か再読したいと思っていた。出版は1977年、インタビュー収録は1971年頃から行われている。1920-30年代に欧米へ遊学しモダニズム建築などの最新建築を見聞し、国内に広く知らしめた。それもあり戦後の日本建築は世界のトップを走るようになったと言われている。
土浦亀城先生も在学中からライトの傍でそれを吸収し、やがてモダニズム建築へと進んでいく人である。同じルートを辿った建築家は多く、カルフォルニアで活躍したリチャード・ノイトラもそうだった。
土浦亀城 1923-1926 渡米
1897年茨城・水戸に生まれ、帝大建築学科卒。フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル現場事務所で働く。それが機縁で、渡米タリアセンへ。帰国後大倉土木設計部(現大成建設)入社後独立。自邸「白」のスタイル、初期モダニズム(バウハウス派)へ。満州国迎賓館、都市計画。戦後、国際観光会館、軽井沢ゴルフクラブ他。
1922年帝大卒業後、渡米しフランク・ロイド・ライトのタリアセンで3年間働く。最初の弟子の遠藤新・レーモンドが帰国した後の時期で、ロスでコンクリートブロックの住宅を設計していた。ミラード邸、エニス邸など。
当時は大恐慌の後で、仕事が少なく、計画案はあるが実施は少なかったが。ロスやハリウッドは好景気で宅地開発が盛んだった。
ライトの図面の描き方は、平面と立面はライトが、パースはスタッフ。パースの描き方は独自で。最初に平面をパースで描き、それを上に伸ばして立体にする。着色は色鉛筆、4,50本でライトが自分でやる。
詳細図は1/20まではライト、それ以降はスタッフ。
タリアセンの人々 三度目のタリアセンで、同僚にリチャード・ノイトラがいた。
面白いのは、土浦氏もノイトラもライトの元を離れると、ライトの作風からヨーロッパのモダニズムへ向かう。白い無装飾な直方体へ変貌する。
それについて訊かれ、「ライトのデザインの方法は、非常にユニークで他の人達は真似はできても。そこから自分のものを展開していくような普遍的なものではなかった。あの頃ヨーロッパで起きた新しい動きは、それを原点としてそれぞれ伸びていける方法だった。」と。
確かに自分でもそれは感じていた。ライトの様式で設計するとあるレベルには到達することは出来るが、それ以上の展開は出来ないのである。それがライトであり、弟子たちの悩みであった。
有名な土浦亀城自邸について、モダニズム建築として有名で、木造乾式工法、システムキッチンなど後世の住宅に与えた影響は大きい。レベル差のある居間は有名。都の有形文化財やDOCOMOMO JAPANに選定されるが、所有者が変遷し、2023年解体。移築保存の噂があるが…。
蛇足ですが、多分高校の大先輩でしょう。建築学科1年のとき「土浦亀城」は「つちうらきじょう」と読んでいたのは、秘密です。正しくは「つちうらかめき」です。