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[恋愛小説]1992年のクロスロード  の全話(1~27話)

あらすじ
主人公 福山雅弥は、8年交際している婚約者がいるが、仕事先で出会った、高峰由佳と激しい恋に落ちる。由佳にも婚約者がいた。
二人は3日間の激しい愛の日々を通して、互いに必要としている相手だと確信する。
その後、厳しい試練を乗り越えていく二人の姿をドラマチックに描きます。
1990年代のつくば研究学園都市を背景にドラマは進行していきます。

全27話あり、一度に読みやすい様に纏めました。
全文字約39,700文字あります。約80分掛かります(500文字1分として)
お時間のあるときに、どうぞ。



登場人物


福山雅弥 : 設計事務所 つくば分室長、33歳
高峰由佳 : システムキッチン会社 コーディネート25歳
松山健一 :ゼネコン勤務 由佳の婚約者26歳
幸田幸子 : 家具デザイナー 雅弥の婚約者32歳
川崎直子 : CADオペレーター 雅弥のスタッフ21歳
柴 浩一 :設計補助 雅弥のスタッフ25歳
藤木昌  :雅弥の事務所の東京本店の所長 
福山 惣平:雅弥の父
福山 千鶴:雅弥の母
福山 一郎:不動産会社 経営、雅弥の兄
高峰好哉  :由佳の父
高峰 妙子 :由佳の母
清田徹   :TX大学 第一学群 
宮本靖   :優の高校の友人
幸田竜也  :泉美の父親、家具会社の社長
坂本亜希子 :システムキッチン会社 係長 由佳の上司
双葉宗   :設計補助

1. 驟雨の夜

駿雨降る中、走るクルマの中
「雨宿りしようか?」と、雅弥が言う。

黙って軽く頷く由佳。

外から青白い閃光がその部屋の内部を一瞬照らして見せたかと思うと、次の瞬間、身体を震わす轟音が湧き起こる。

「きゃっ」と短く叫び、雅弥に抱きつく由佳。

雅弥が見上げる由佳の瞳を覗き、彼女の唇に自分の唇を合わせる。

由佳を抱き上げようとすると、「いいわよ」といい。

自ら全裸になる由佳。

雅弥も全裸になり、もう一度由佳を抱きしめ、口づけをする。

それが、良くないことだと分かっていても。

それは由佳も同じだった。そうなる先は自分でもよく分かっていたし、それが後ろめたいことだと百も承知だった。

しかし雅弥の誘いは、魅惑的だったし、それに抗う事はできなかった。

二人には、それぞれ婚約者がいたし、雅弥は来年春に式を挙げるところまで、決まっていた。

にも関わらず、お互いそういった事情を知った上で逢い、そして最後までいって仕舞ったことに、自分たちの大胆さに驚きと少しの後悔を抱いていた。

これから、どうなるのだろうかと言うこと不安よりも、今目の前に居る相手をもっと知りたいという気持ちの方が強かった。

二回目は濃厚に、舌を入れると、返して来た。

段段興奮していく二人は、ベットへ倒れ込む。

何故こうなってしまったのか、雅弥には分からなかったし、自分で止めようとする事も無く、全ての事柄は既に定められた事の様に進んでいるように、感じた。

精神的にも肉体的にも。

二人は、自分たちが今人生の岐路にいることに気が付いた。

二人の前には、二つの道があった。

一つは、何もしないで、このまま無難で平和なまま行く道であり。

そしてもう一つの道は、二人で同じ人生や時間を共に生きることであり、真に自分たちが納得でき満足出来るパートナーと生きることを意味していた。

唯その為には、一時的せよ、とても辛く困難な試練をくぐり抜ける事が必要だった。

でも、二人に今、躊躇も逡巡も無かった。

その2時間前、約束していたレストランへ行った由佳は驚いた。

雅弥が大きな一抱えもあるバラの花束を抱いていたからだ。

それが、1992年6月の出来事だった。

2. 彼の場合

雅弥は、東京の工学系大学を卒業後、建築設計事務所に就職した。
昨年からその分室がつくば市に出来たのに伴い、そこの責任者になった。

彼がつくば市に隣接する街の出身だったことも、考慮されたのかもしれない。

業務は建築設計・住宅地計画の他、東京の本店(皆こう呼ぶ)が受注したつくば市やその周辺の公共建築・集合住宅は、全て雅弥の分室が担当した。

雅弥自身が営業し受注した物件も勿論、図面を引いた。

スタッフは雅弥を入れて、3名だから、住宅以外のRC造やS造の構造図や設備図は、外注していた。

だから仕事のペースは早かった。

それを支えたのは、彼らの若さだったかもしれない。毎晩遅くまで図面に向き合った。

ある時スタッフの親から、娘を夜遅くまで働かせないで欲しいとクレームがきた。

何でそんなに遅くまで働く必要があるのか、嫁入り前の若い娘をそんなふうに働かすのは、おかしいのでないかと、言われたが、雅弥は返答出来なかった。

電話の後、彼女は「すいません、分からない親で」と謝っていたが。

室長の雅弥は33歳、設計スタッフの柴浩一は25歳、CADオペレーターの川崎直子はまだ21歳だった。電話をしてきたのは、直子の父だった。

基本、週休2日だが、大体雅弥は土曜日は出勤していたし、たまに施主との打合せがあると出ることも多かった。

だから、ハードな毎日だと言える、その中で婚約者の幸田幸子とデートする時間を捻出するのも、苦労したが、会えないとこれがまた大変だった。

もともとお嬢様育ちで、一度怒ると大変だった。

少し取り持つと、機嫌が直ぐに良くなるので、まー可愛いと雅弥は思っていたが…。

付き合いだして、6年、そろそろゴールかなと、本人達も周りもそう思っていた。

雅弥は、分室長といっても、雇われ身分なので、独立し自分の事務所を持つことが、最優先事項だった。

その上で、幸子と結婚したいと彼女には言っており、彼女もそれで納得していた。

元々、雅弥が家具工事の打合せで、彼女の父親が経営する家具屋へ行ったときに、見初めたのが始まりだった。

周囲も賛成しており、似合いのカップルという、感じだった。問題は、いつ雅弥が踏み切るかということだった。

雅弥「来年の秋ごろどうかな思っているんだけど」

幸子「うー、秋ね。ジューンブライドじゃないんだ」

雅弥「いや、結婚式じゃなくて、事務所の独立なんだけど」

幸子「あっ、そっち..」

雅弥「そう、そっちの方」

いつも明るいが少し落ち着きが無い幸子は、どう見ても30越には見えなかった。

可愛いタイプなので、いつも24,5と言われていて、それも幸子の自慢だった。

幸子「いつものあそこ、行こうか?」

雅弥「ああ、La Luce?」

幸子「何言っての。大洗の…」

雅弥「ああ…」

最近、幸子は大洗のホテルがお気に入りで、ディナーとその後をさり気なく、雅弥に要求するのだった。

表に停めてあった、自分の赤いプレリュードからお泊まりバックを持って、雅弥のBMW M3へ移って来た。

桜ICから30分で大洗パークホテルへ。
最近はフロントも見慣れて来たのか、愛想が良くなった。

早いディナーの後、3階のダブルの部屋へ行く。

以前のように、熱い関係でもないので、シャワーを浴びて、それからになる。
そういう所も、少しずつ変わって来たのかなとふと思う。

幸子「そろそろ、どうなの?」

雅弥「来年の秋、独立だから、そうだね再来年の春じゃ、駄目」

幸子「ええー、そんなこと言ってたら、あたし34よ」

雅弥「じゃー、順番変える」

幸子「ぜんぜん、いいわよ。結婚して、まーくんが独立でも」

雅弥「うーん、そうすると、式にボス呼ばないといけないし…」

幸子「藤木さん?」

雅弥「そう、あの人、この間も先輩の結婚式で、新郎には新しい会社を見つけて貰って、とか言うんだよ。みんな驚いていた」

幸子「へー、凄い人ね」

雅弥「だから、独立した後に、式を挙げたいんだ」

幸子「そうね…」

それが、1991年6月の雅弥の出来事だった。

3.彼女の場合

高峰由佳は、目白の短大を卒業後、銀座にある設計事務所に就職した。

最初は事務だと思っていたら、いつの間にか少しずつ図面の手伝いを始めて、段段と仕事を覚えて行った。

元々そういう才能があったのだろう。

やがて1歳年上の設計担当の松山健一と付き合うようになった。

狭い事務所なので、交際が周囲に知られるようになると、二人して辞めた。

健一はゼネコンの設計部門へ、由佳はシステムキッチン会社のコーディネートへと転身した。

付き合いだして、4年目でそろそろかなと、周囲は見ているが、二人はまだ踏み切れないでいた。どちらかということも無いが。

健一は、以前と同じように多忙で、週一は会社の仮眠室に泊まっていたし、由佳がそれも承知していると思っていた。

普通のカップルと同じように、土日にはどちらかの家に遊びに行き、日曜日の夕方に別れる生活を、もう4年も続けていた。

だから、由佳が雅弥に出会ったのは、そういうマンネリ化した日々の中でだった。

1991年4月に、由佳はつくば市に新しく出来た自社ショールームへ転勤になった。

自宅が柏だったので、自家用車でぎりぎり通える範囲だった。

これが、通えない所だったら、問題だったが、一応会社は配慮してくれたのだと思った。
実際、会社は将来的にこのエリアの仕事の増加を見込んでおり、その対応の一つであったらしい。

つくばエクスプレスが開通したのは、2005年8月だったから、その14年前のことである。

それまで、2,3回雅弥と一緒に仕事はしていたが、雅弥がその施主を連れて、由佳のいるショールームに来たのは、転勤してから8ヶ月たった、年末の忙しい時期だった。

いつもの様に雅弥の描いた図面からシステムキッチンの図面を起こし、パーツリストと見積書を作成した。

問題が発覚したのは、現場に入ってからだった。

そのシステムキッチンはU字型で、納まり的に難しいのは、最初から予想された。部屋の幅とキッチンの幅に逃げと呼ばれる余裕が無く、シビアな設計だった。

現場に入ると、その予想通り、やはり納まらないと現場監督から連絡がきた。対処方法が構造柱の移動にまで話が及んだときに、助けてくれたのが、雅弥だった。

仕上げを現場施工のタイルから、キッチンパネルへ変更することを施主に提案し、了解させたことで、無事システムキッチンは納品され納まった。

もし、納まらなければ、キッチンは返品で百万単位の損失だったから、由佳はほっとした。

その時の雅弥の対応は、素早く、適切で、頼りになるという仕事上のパートナーから個人的に好意が持てる男性への変化だった。

由佳「先日はありがとうございました。お陰様で助かりました。」

雅弥「いやいや、どうってこと無いです。逆にキッチンパネルへ変更出来て、良かったです。逆に由佳さんには、こちらからお礼がいいたいくらいです。」

由佳「ほんとですか。」

雅弥「どうですか、問題案件の解決祝いに、ランチでも。」

由佳「でも、私の昼休みは1時からなんで…。」

雅弥「センタービルの1階のコーヒー屋に居ますから、待ってます。」

由佳「分かりました」

1時過ぎに、コーヒー屋に来た、由佳はコーディネートの制服では無く、スーツにタイトなスカートだった。
いつも制服姿しか見ていなかった雅弥の目には眩しく新鮮だった。

実は雅弥が由佳に最初に出会ったときから、気になっていた女性だった。

化粧もケバくなる手前で止めているし、どことなく都会のセンスが感じられた。

ある意味、田舎育ちの泉美と比べてしまう自分がいた。

ランチの会話は、楽しかった。

それが雅弥の気持ちの高まりなのか由佳の感謝の気持ちなのかは、分からなかったが、お互いに好意を持つのに、そんなに時間は掛からなかった。

そんな楽しいこころ踊る時間を過ごすのは、二人とも久ぶりだった。

由佳「そうなんですか、福山さんも東京に居たんですか。」

雅弥「東京と言っても、豊島園だからね。」

由佳「へー、じゃ毎日豊島園に行ってたんですね。」

雅弥「実際、豊島園の中に入ったことは1回も無かったんだけど。」

由佳「私も、銀座に毎日行ってましたけど、1度も銀ぶらしたことないですよ。」

雅弥「そんな、もんだよね。」

由佳「ほんとですよね。」

雅弥「高峰さん、彼氏いるんでしょ。」

由佳「東京の事務所で働いています。多分彼と結婚します。そういう、福山さんは?」

雅弥「ええ、居ますよ。ひとり。家具デザイナーです。」

由佳「家具デザイナー、凄いですね。」

雅弥「田舎の家具屋ですよ。」

由佳「ふーん。」

雅弥「今度はディナー食べませんか。」

由佳「ああ、柏に美味しいレストランあるんで、どうですか?」

雅弥「良いですね、美味しいところなら何処へでも行きますよ。」

由佳「味は保証しかねますが。」

雅弥「ええ、そうなんですか?」

由佳「冗談です。」

ふたり「あはは。」

何故か、次回のアポまで約束したのかは、ふたりも分からないが、お互い相性が良いことは、確認できた。そしてお互い、恋人がいることも。

それが、1992年4月の出来事だった。

4.1990年代のつくば研究学園都市

1990年代の、つくば研究学園都市の景観や雰囲気は、現在のそれとは異なり、1970年代に開発・創建された当時の雰囲気を持っていた。

雅弥が初めて、このつくば研究学園都市を訪問したのは、1976年だった。

高校の同級生が地元の国立大学ということもあり、何人かいたので、東京の工科大に行っていた雅弥は夏期休暇や春休みに、彼らの学生寮や学群の校舎へ出入りしていた。

建築学科で学んでいたので、当然学園都市に建っている建築や都市計画にも興味はあった。当時建築雑誌の表紙を飾った、筑波大 体育・芸術学群の校舎は一番先に見に行った。

それは鉄骨とガラスブロックのユニットで出来ていた。ある意味アバンギャルド的なデザインだった。その後に出来たRC造の校舎群とは一線を画すデザインだった。今は残念ながら、ガラスブロックの破損で、改修され当時の斬新さは失われている。

後日、それを設計した槇文彦設計事務所のチーフだった、小沢明氏から直接エピソードを聞いたことがあった。

開校まで時間が無く、工期的にRC造が出来ず、乾式のS造でガラスブロックを外壁にしたパネル工法にせざる得なかったとか。

やはり、開発当初は、それなりにいろいろ苦労があったことを知った。

TXが開通する以前のことで、最寄り駅は常磐線荒川沖か土浦駅だった。さらにバスで40分から60分掛かった。陸の孤島と言われる所以である。

東京駅八重洲口から高速バスも出ていた、2時間掛かったが乗り換えが無いので、多くの人はそれを使っていた。

元々、このつくば研究学園都市は、東大の都市計画の大御所の高山英華先生がマスタープランを作成、東西を貫く学園線と南北を結ぶ二つの東と西大通りという、基本構成がそれだ。

マスタープラン作成前に、海外研修をし、参考にしたのが、北欧の低層の住宅地計画だった。

特に、フィンランドのオタニエミやロミニエは、豊かな森林の中に低層の集合住宅群が広がる、豊かな住環境を持っていた。それを参考にしたので、1990年代のつくばの景観は、赤松林の中に埋もれるように立てられた低層の集合住宅群で、自然と建築の調和といえるものだった。

所謂、官舎は低層の1から3,4階で、高層でも10階までだった。

現在の民間のマンションが高層で乱立するというのは、本来のマスタープランには想定外であった。

単に経済性を追求した結果で、単にベットタウンに成り下がったと非難されたが、当然だろう。

雅弥の事務所は、JAXAの筑波宇宙センターに隣接するつくば研究支援センターの一室にあった。

だから時々JAXAからロケットや衛星を組み立てる、重たい振動音がした。

また通りの反対には都市公園の洞峰公園があり、昼休みには、その周回路を走った。

因みにそこにある新都市記念館には、初期のつくば研究学園都市のマスタープランの模型が壁面を飾っている。

雅弥が支援センター室長で赴任したときに、設計した規格型住宅は、その洞峰公園通りを西に500m先の戸建て住宅団地にある。

そもそも地元のディベロッパーから依頼される仕事が多いので、設計した住宅はつくば市内には60棟はある。

ちょうどこの1990年代はバブル前期であり、TX前とは言え、つくば市の宅地の価格は高騰していた。

担当した医学部教授の二ノ宮の宅地は当時200坪で、1億円と言うこともあった。

つくば研究学園都市の特殊性は、計画された街と言うだけでなく、そこの住民についても言えた。

多くの住民は大学関係者か国立研究所の研究者であり、つくばで石を投げればドクターに当たると言われた。

だから、雅弥が担当した施主も殆どが、博士だった。

だからと言って、建築の知識は無いが、一度説明すると、即座に理解し判断する点は、一般の施主とは大きく違っていた。
そいう点では、大きなトラブルになることが無い、ある意味優良な施主であると言える。
そんな環境の中で、雅弥と由佳が出会ったこのつくば研究学園都市は、東京という大都市でもなく、地方都市でも、田舎でも無い、特殊な環境だったとは、言える。

5. 突然の贈り物

由佳は驚いた。

大きな花束が雅弥の手元にあった。

その花束の赤いバラや色とりどりの花々がその周囲の雰囲気を鮮やかに変えていた。

雅弥は立ち上がり、その花束を由佳へ「これどうぞ。」と手渡す。

唖然とする由佳。

由佳「如何したんですか?この花束は。」

雅弥「美しい人には、美しい花が似合うと思って。」

由佳「えっえ。」驚いて暫く、言葉も出ない。

由佳「でも、もらえません。貰う理由も無いし。」

雅弥「そうですか、じゃー、捨てて下さい。」

由佳「捨てる?そんな。」

雅弥「その花束は、高峰さんに貰って貰えるか、捨てられるか、どちらかしか無いんですよ。」

何という事を言うのだろう、この福山という男はと思った。
と同時に心を激しく揺さぶられた。そして、その意味は..。

その晩のディナーで何を話したのか、由佳はよく覚えて居ない。隣に置かれた花束が気になっていた。家に持ち帰ったとき、驚くであろう家族になんと言おうか。

店を出た後、自分の車の助手席に雅弥を招き入れて話の続きをした。

雅弥「もっと一緒に居たいね。」と言われた時、由佳は心に決めた。

由佳「この車、お父さんの車なんで、この駐車場に置いていくのは出来ないから、福山さん、運転してもらえる。」

雅弥「ああ、じゃー、席変わります。」

二人、一度外へ出て、席を交代する。

レストランは16号に面しているので、その沿線沿いには、恋人たちのためのホテルは多い、ICの傍にも大きいのがあった。

走り出してから、驟雨になった、急に大粒の雨が音を立ててフロントガラスに当たり始めた。

駿雨が降る中を走るクルマの中で「雨宿りしよう」と、雅弥が言う。

軽く頷く由佳。

部屋に入ると、外で閃光が光り、暫くすると雷が落ちる轟音がする。

「きゃっ。」と短く叫んで、雅弥に抱きつく由佳。

見上げる由佳の唇に自分の唇を合わせる雅弥。

何故こうなってしまったのか、雅弥には分からなかったし、自分で止めようも無く、規定通り物事は動いているように、感じた。

それが、悪いことだと認識していても。

それは由佳も同じだった。

そうなる先は自分でもよく分かっていたし、それが後ろめたいことだと百も承知だったが、雅弥の誘いは、魅惑的だったし、それに抗うのは無理だった。

由佳は、恋人の松山とは、土日に逢っていた。

今の会社に就職する際に、日曜日は休みという条件で就職したから、逢うのは日曜日しかなかった。

一方、月曜から金曜は、業務上雅弥と仕事の件で電話で話すことが多いが、「今晩どう?」と誘われると、「そうですね。それでお願いします。」逢う約束をしていた。

休日は松山、平日は雅弥と使い分けしている自分に嫌気も差すが…。

それは、雅弥も同じだった、打合せが入っていない日曜は、泉美とあってデートしたし、平日の勤務がある日の晩は、由佳と逢うというダブルスタンダードの生活が始まった。時々、それで良いのかという気持ちにもなったが、由佳に逢いたいという気持ちが勝った。

それには如何とも出来なかった。

やがて梅雨も明け、幸子から海へ行こうと言われ、阿字ヶ浦海水浴場へ二人で遊びに行った。
そしてその後は、いつもの大洗パークホテルへと。

なにか、定例の行事の様だと、雅弥は思った。

幸子とはもう6年前から付き合っていて、周囲もそろそろかなという関係である。

なのに、踏み切れないのは雅弥の優柔不断な性格なのだろう、口では独立してからと言ってるが、それだけなのだろうかと、最近では幸子も思い始めている。

それが、1992年6月の出来事だった。

6. 迷い

由佳は迷っていた。

健一とそろそろゴールかと思うと、本当にそれで良いのかという迷いがある。

そもそも初めての恋人で、その彼と結婚することが、良いのかどうか。

悪友の吉田裕美からいろいろ聞くと、ますます不安になる。

先日も、男と女の相性の話を聞かされた。

相性の良い相手と、そうじゃない相手では、感じ方が全く違うと言ってた。

確かに、雅弥と初めてしたときに、驚いた。

健一の時と全く違うのだ。

大体、入れられる前の前戯で、往かされて、本番で3回往った。

それまでのは、一体何だったのかと思った。

だから、日曜日に健一と逢って、しても、全然熱は入らなった。

本当にこの人と結婚していいのかと、悩んだ。

悪友の裕美の言うことは、本当だと思った。

だから、雅弥と三日三晩、何処かで死ぬほどしたいと思った。

だが、そんな機会は、お互いあり得ない。

もし、そうするなら、お互い身辺整理をしないと大変な事になる。

如何するか、雅弥に相談するしか無い。

一度、深みにはまる前に、決断するタイミングかもしれないと。

そして、雅弥の気持ちを確認するためにも。

そして、悪友の裕美に電話で、その話をしたら、「そうね、ドロドロする前に、一度きちんと身辺整理したほうが、良いかもね。何か口実作って、どこか季節外れの避暑地にでもいったら。」という。

いつもながら、適切なアドバイスだと、感謝した。

「裕美と一緒に旅行に行くというアリバイをお願いできない?」と聞いた。

「いいわよ、そうね。じゃー、秋の平日の軽井沢はどう?」

「軽井沢か…良いかも。じゃー、アリバイはお願いします。」

「了解。頑張ってね。」

「うん、ありがとう。」

そうして、その企みは始まった。

泉美「健ちゃん、裕美と旅行に行きたいと思っているんだけど、良い?」

健一「良いよ。いつ?」

泉美「10月の下旬なの。」

健一「裕美さんに、宜しく言っといて。」

泉美「分かった。」

余りにも簡単に、健一が承知したので、驚いたと同時に、これで雅弥と、と考えるとそちらの方が、楽しみにしている、自分に驚いた。

翌週の雅弥とのデートで、その事を話す。

暫く考えていた、雅弥が聞く。

雅弥「それって、由佳が真剣に僕と付き合って、くれることなの?」

由佳「それを確認するために、行くということじゃ駄目?」

暫く考える雅弥「分かった、じゅあ。こっちもなんとかする。」

週末の雅弥と泉美のデート。

泉美「じゃー、出張で軽井沢に行くのね。」

雅弥「ボスからの話だからね。どうもついでにゴルフもっていうから。」

泉美「分かった、電話ちょうだいね。」

雅弥「ああ、電話するよ。」

当時は、携帯電話も無いし、電話は皆固定電話か公衆電話だった。

それにしても、余りに簡単に、進んだので拍子抜けだったが、事の重大さに気が付いていない二人だった。

早速、雅弥はホテルを探した。どうもそれらしいホテルを探した。

色々探す中で、静かで籠もるのに、良さそうなホテル鹿島の林に予約を入れた。

それが、1992年9月末の出来事だった。

7.晩秋の軽井沢

由佳が早朝、柏駅前のロータリーで待っていると、黒のBMWが入ってくる。

由佳の前で停まる。

窓から雅弥が顔を出す。

雅弥「待った?おはよう。」

由佳「えっ、これ?」

雅弥「ん?早く乗って。向こう側。」

由佳「うん。」クルマの右側へ回り、乗り込む。

柏ICへ向かうクルマの中。

由佳「BMWって、言っていたから、4ドアセダンだと思っていた。」

雅弥「ああ、これM3っていうんだ。2ドアだけど。エンジンはいい音するよ。」

由佳「へー、そうなのだ。もしかして、福山さんって、クルマ好き?」

雅弥「今まで話していて、分からなかった?それと、福山さんは、止めて。」

由佳「そうね。じゃー、雅弥さん、で良い?」

雅弥「ああ、それで。」

ふたりを乗せたM3は、常磐道から首都高速、練馬入り口から関越自動車道へ。藤岡JCTで上信越道へ。

確かに雅弥の言う通り、フロントから6気筒の心地よいエンジン音がしていたし、たまに追い越し車線へ出て加速するときは、高音の綺麗な音が響いた。

軽井沢ICを降りると、そこは既に晩秋の軽井沢だった。

気温も麓に比べると明らかに3,4度は低い。

ゴルフ場傍のパーキングに寄ると、冷気を含んだ秋風がそよいでいた。

木々も紅葉が始まり掛けていた。

紅葉のピークにはまだ早そうだが、クルマもそんなに多くなく、寂寥感さえする。

ホテルに着き、フロントで雅弥がチェックインをしている後ろのソファから見ていると、隣では中年の男性と若い娘がチェックインしていた。
どう見ても不倫のペアにしか見えない。

世の中は、そうなんだと思った。

まー、自分たちも、向こうから見たらどうなんだろうとは思ったが。

部屋は1階の奥だった、周囲は林の中なので、世の中から隔絶された感じは強い。

これなら、たっぷり楽しめそう。

由佳は期待したが、実際3日後までその廊下を歩くことは無かった。

悪友の裕美の言う通りだった。

部屋に入った途端、雅弥がキスをしてきたが、初めから濃厚なそれだった。

そのまま、始まりそうだったので、停めた。

一度汗を流したかった。シャワーの後からは、十分以上にした。

どうも雅弥は3ダースも避妊用具を持って来たみたい。

勿論由佳も安全日を考えて、スケジュールを組んだので、それは大丈夫だと雅弥に言った。

食事は3回とも、ルームサービスにした。

レストランへ行くのも面倒だった。

それよりも、もっと愛し合いたいと思った。

流石に帰る日の昼食は、レストランへ行った。が部屋へ帰って来ても、また愛し合った。

どう考えても、雅弥との相性は抜群だった。

それ以上望むべくも無かった。

やはり、健一と別れて、雅弥と一緒になりたいと思った。

帰りの車中で、それを雅弥に話した。

由佳「まーちゃん、やっぱり、私たち一緒になるべきだと思う。」

雅弥「ああ、僕もそう思うよ。」

由佳「私、彼と別れようと思う。まーちゃん、はどうする。」

雅弥「ちょっと、待って。次のサービスエリアで停めるから。」

坂SAの駐車場で2時間、話した。

どのタイミングで話を切り出すのか、その後、二人はどうするのか、将来はどうしたいのか?全部、一度に話した。

が、一度に全部が片付かないし、少しずつ先へ進むしかないという結論になった。

お互い、相手に説明し、別れを許して貰うしか無いわけだし。

最悪のドロドロだけは、避けようということになった。

目安としては、年明けには、整理しようということになった。

話してみて、ふたりともそれらが簡単に行くとは思えなかった。

が、行くしか無いと覚悟は決めた。

それが1992年10月の出来事だった。

8.罵倒

軽井沢から帰ったふたりが、それぞれの恋人いや元恋人に、別れを切り出し、実際別れるまでの修羅場は、二人に大きなダメージを与えた。

一時は、幸子の自殺未遂寸前まで行った。

ひたすら頭を下げ、謝る日々だったし、泉美の親からは、悪口雑言を言われたが、耐えた。

なんでそこまで言われ無きゃいけないかと思った。

幸子「もう一度、言って。」

雅弥「だから、幸子とは一緒になれないので、終わりにしたい。申し訳ない。」

幸子、段段泣き顔になってきた。

バックからハンカチを出して、拭い始めた。

良かったクルマの中で。

お店だったら大変だったと、意外にも雅弥は冷静だった。

そんな自分を冷たい奴だと思った。

が、問題はそれからだった。

翌日、職場に幸子の親から電話があり、幸子の父親の家に呼び出された。

有無を言わせぬ、連絡だった。

幸田竜也「話は幸子から聞いた。」

雅弥「はい、自分の都合で、申し訳ありません。」

竜也「家の娘とは、何年付き合ったんだ?」

雅弥「7年です。」

竜也「それだけ付き合って、はい、さようならは無いだろう。」

雅弥「申し訳ありません。」

竜也「どうしてなんだ?」

雅弥「実は、その。別な人が…。」

竜也「はっ、何を言う、そんなことで、世の中通ると思っているのか…。」

それから延々2時間、罵倒された。畳に頭を擦りつけ謝った。

挙げ句の果て、お前の会社の仕事はしないと言われた。

雅弥は逃げるように、帰った。

その時ほど、人の気持ちの奥深い所にある暗闇を痛感したことは無い。

翌日、東京本店の藤本所長から電話があった。

藤本「福山君、昨日幸田家具の社長から電話があった。」

雅弥「あーはい。」

藤本「別れたったて、怒っていたよ。そうなの?」

雅弥「はい、ご迷惑お掛けします。」

藤本「うむ、しょうがないよ。それは。先方は、今後うちの仕事はしないと言ってきた。」

雅弥「申し訳ありません。」

藤本「もう、この件で、これ以上拗れないようにして下さい。」

雅弥「はい、分かりました。」

電話はそれで切れた。

雅弥はため息をついた。こんなにまで、拗れるなんて、由佳はどうなっているのか、心配になってきた。

雅弥の心配の通り、由佳も渦中のまっただ中だった。

由佳「係長、申し訳ありません。私事で、ご迷惑お掛けして。」

坂本幸子「高峰さん、プライベートな事で、業務に支障が出ないようにしてね。昨日も松山さんから、会社へ電話があり、私が対応しましたが…。」

由佳「すいません。何を言ってきました。」

坂本幸子「いや、お門違いのこと言うから、言い返しましたがね。」

由佳「そうですか。」

坂本幸子「どちらにせよ、これ以上話が大きくならないように、してね。」

由佳「分かりました。申し訳ありません。」

由佳もつくづく、人の気持ちの怖さを知った。

大変だろうなと思っていたが、流石に想像を超えていた。

健一の怒りは、想像を超えていたが、ある意味、彼と一緒にならなくて良かったとも思った。

今回の自分の判断は正しかったと改めて思った。

あの人と一緒になっていたら、何処かで確実に破綻していたなと、思った。

翌週、ふたりは、それぞれの地獄から這い出て、再会した。

流石に、会話は弾まなかったが、あの事情なのでしょうがないと思った。

また、別れた彼らを不幸にした分、少しづつ自分たちの幸せを作っていくしかないと。

それが、1992年11月の出来事だった。

9.松代のタウンハウス

幸子が自殺未遂を図ったと、雅弥に連絡があったのは、12月初旬の水曜日だった。

発見が早くて、緊急入院して、命だけは助かったとも。

病院も名前も聞いたが、果たして行きべきだろうかと、逡巡した。

行っても罵倒され追い返されるのは、目に見えているし、行ったところで、どうしよう無い。

また幸子の元へ戻ることなんで、できやしない。

一応、その件だけは、由佳に知らせるべきかも、悩んだ。

だがこれも止めた。由佳を苦しませるだけで、どうしようもないからだ。

だから、結局何もしなかった。

ひどい奴だと自分で思った。

これからの由佳との生活を考えるしか無いと、自分たちに出来ることは、自分たちの幸せを作っていくことしかないと、痛感した。

翌週、初めて由佳が雅弥のタウンハウスに来た。

いままで、外で会うしかなかったが、お互いフリーになったので、初めて呼んだ。

雅弥のタウンハウスは、松代公園の傍にあり、雅弥が東京本店に居たときに、新人で初めて担当した物件だった。

低層3階で専用庭と車庫を持っていた。

コンセプトは斬新だったが、一般には人気が無く、空いている住居を1割引きで購入したものだった。

勿論自分で担当したので、愛着もあり、幸子とここで暮らすつもりで居たので、彼女の荷物も多く有ったが、それらは全て引き取って貰った。

由佳が来たのは、そんな後だった。

間取りは、3LDKもあり、将来もここで暮らすつもりなら、十分だった。

100m先には松代公園、小学校もあり、生活環境は良かった。

但し、由佳は、それまで幸子が出入りしていた、気配を感じるらしく、どうも気に入らないような気配があった。

雅弥「公園へ行こうか。」

由佳「そうね、ここで将来も生活出来るって分かった。」

季節は、もうそろそろ桜が咲きそうな暖かい日差しになっていた。

二人の冬の嵐は、過ぎていったようだ。

これからは春の日を楽しめると思っていた。

公園のベンチにふたり座る。

幼い子供たちが、向こうの砂場で遊んでいる。

雅弥「結納や式はどうする?」

由佳「二人ともやってほしいって。」

雅弥「そうだろうね。」

由佳「時期は、もう少し落ち着いた方が、良いかもね。」

雅弥「そうか、じゃー、秋以降か。」

由佳「そう、秋か、1年先ね。」

雅弥「正直、直ぐにでも式を挙げたいと思っている。」

由佳「私もよ。」

雅弥「じゃー、6月に結納。10月に式ではどう?」

由佳「それなら、直ぐに準備しないと。」

雅弥「じゃー、帰って。直ぐにやることやろう。」

由佳「やること?」

雅弥「だって、もう3ヶ月もしてないぜ。」

由佳「うっ、馬鹿、馬鹿!」

ふたり、天井を見ている。

由佳「ねー、ここで幸子さんと何回くらいエッチしたの?」

雅弥「忘れた」

由佳「もう一度、聞くけど。何があっちより、良かったの」

雅弥「全部」

由佳「もっと具体的に」

雅弥「これ」

由佳「これ?」

雅弥「エッチ」

由佳「ふー。馬鹿」

雅弥は、由佳には本当の事は言えなかった。

由佳とのそれは、全然違うと、勿論人間的にとか、美人だとか、いろいろ有るが、なにより、由佳のそれは彼が経験した中では、最高だったからだ。

だから、地獄を見ても、由佳と一緒になりたかった。

それが1993年3月下旬の出来事だった。

10.ご挨拶

雅弥は、由佳の実家に来ていた。

玄関のチャイムを押すと、由佳が出てきた。

今日、由佳の両親に挨拶にきた。お義父は、大手入浴剤のメイカーの課長だった。

床の間のある和室に通される。

由佳は、にこにこしているが、雅弥は既に緊張の局地に。

由佳「待っていてね、お父さん、直ぐ来るから。」

暫くまたされた、それが3分なのか10分なのか覚えていない。

やがて高峰好哉が入ってくる。雅弥は、座布団からずれて挨拶する。

雅弥「初めまして、福山雅弥です。今日はお願いがあって伺いました。」

好哉「どうも、娘がいつもお世話になっています。」

雅弥「由佳さんとの結婚の許可をお願いしに来ました。結婚の許可を下さい。」

好哉「そうですか、話は娘から聞いていますので。こちらこそ、よろしくお願いします。なにせふつつかな娘ですので、よろしくお願いします。」

雅弥、ほっとして、隣の由佳を見ると、涙ぐんでいた。

帰ろうとすると、カーポートに初めてあのホテルへ由佳と行ったクルマがあのままに停まっていた。

ゴールドメタリックのローヤルだった。

由佳「じゃー、気をつけてね。明日松代へ行くわ。」

雅弥「それじゃー、失礼します。」

由佳の家族が皆出てきていた。

翌週、今度は由佳が、雅弥の実家へ挨拶に行った。

今度は由佳が緊張する番だった。

二人で土浦・真鍋の雅弥の実家に行った。

それまで、実家は不動産を経営していると聞いていた。

行くと、どうも旧家らしい、母屋と蔵があり、母屋の奥座敷へ案内された。雅弥は次男で、長男が跡を継ぐらしい。

お義父さんは、70後半で、仕事は長男が引き継いでいるようだ、だから席には、両親と長男が同席した。

由佳「高峰由佳です。はじめまして、よろしくお願いします。」

福山惣平「福山です。いつも雅弥がお世話になっています。」

福山一郎「一郎です。弟がいつもお世話になっています。お楽にしてください。」

福山千鶴「母の千鶴です。よろしくお願いします。」

一郎「いろいろありましたが、末永く、お願いします。由佳さんのことは、いつも雅弥から聞かされていますので、安心しています。」

由佳「こちらこそ、恐縮です。」

無事、挨拶も済み、雅弥の車に乗り、帰る由佳。

家族一同、見送る。

由佳「これで、一安心。大変ね、ご挨拶は。」

雅弥「そうでしょ。先週は大変だったよ。」

由佳「ああ、それで柏の家に、夕飯食べに来てって、おかあさんが言っていた。」

雅弥「えっ、今日?」

由佳「そう、今日。あれっ、あたし、言わなかった?」

雅弥「聞いて無いよ。」

由佳「じゃ、このまま、高速で柏まで行きましょ。」

雅弥「ふっー。」

雅弥のM3は、桜土浦ICへ向かった。

それが、1993年4月の出来事だった。

11.つくばセンタービル

つくば市の中央に、つくばセンタービルという複合施設がある。

コンサートホール、展示室、ショッピングモール、シティホテル、プールやトレーニングジムまである。

1970年代後期に、コンペティションがあり、建築家の磯崎新氏が当選し、実施設計されたものだった。

デザインはポストモダンを標榜し、L字型に配置されたホールなどの中央にイタリアのカンピドール広場の暗喩である卵形の広場があった。

そのユニークさは、よく仮面ライダー系のアクションドラマのロケが行われることでも分かる。

ただ、センターへのアクセスは自動車だけだが、駐車場が少ないこともあり、ショッピングモールも10年もすると撤退する店舗が多く、営業的には苦戦した。

雅弥と由佳は、ここで結婚式をすることに決めた。

希望の10月の日程も確保でき、6月両家の親族が集いここで結納式をした。

ただ、二人とも前の婚約者を振った話はタブーだった。

それさえ持ち出さなければ。だからその点はピリピリしていた。

ただの気苦労だったのかもしれないが...。

二人がお互いの薬指にエンゲージリングを填めて、滞りなく済んだ。

由佳は、少し涙ぐむんでたように、見えた。雅弥も緊張していたので、確かでは無いが。

そして、10月の挙式の日程は確定した。

その晩、雅弥のタウンハウスで二人が夕食を食べていた。

もうこのころは、半同棲の状態で、GW過ぎには、由佳はここから出勤することも多くなった。

だから、7月初めには、本格的に同棲する予定だった。

由佳は、柏から通勤するよりも、断然近くなるので、それは当然かつ自然だった。片道2時間が20分になるのなら、当然だろう。

会社にはまだ言ってないが、婚約や結婚式の予定は、上司の坂本には伝えた。

また、ショールームの同僚数名を招待客として招くことや所長に来賓祝辞も頼む予定だ。

一方、雅弥の独立は先送りになった。

仕事は山のようにあり、捌くだけでも、大変だったからだ、だが景気の良い今がチャンスかもしれないので、私生活が落ち着いたら、チャンスを狙っていた。

それにしても、あの藤本所長の結婚式の挨拶だけは、心配だ。あれこれ言っても、聞かないし。

それが、1993年の5月から8月までの出来事だった。

12.愛の巣のインテリア

8月の下旬の土曜日、この年は梅雨がいつまでも明けず、冷夏だった。

1993年の冷夏は、前年のフィリピンの火山噴火の粉塵が原因で、この年の稲作が大不作になり、米不足になり、外米まで輸入した事で、後世の記憶に残る事になる。

由佳が松代の雅弥のタウンハウスに荷物を入れたのは、やはりどんよりした曇り空だった。

由佳は雅弥のタウンハウスに入った時に、驚いた。

それは築14年経っていたので、内装のクロスのはがれや、結露によるカビの痕跡もあり、インテリアの改修が必要だったからだ。

特に外部に面した壁は、結露跡が酷く、全面的に改修する必要があった。

灯台下暗しである。

外壁面は全面的に既存下地を剥がし、RC壁面うらに下地桟と断熱材グラスウール100mmを入れて、気密シートも入れPBボード下地を造り直した。

これで結露しない構造とした。

問題はサッシだった。

単層ガラスは結露が熱貫流率が高く、結露しやすいので、ペアガラスに入れ替えた。

最も由佳が拘ったのが、やはりインテリアの仕上げだったが、アイカのジョリパット、ゆず肌仕上げにしたいと言い、それになった。

こういうときの由佳はいつもの由佳で無く、仕事モードになり、気合いが入る。気楽に対応すると、怒られる。

問題は、この改修工事は6月から始まったが工期が掛かり、由佳の入居は遅れ、8月末になった。

2階の3つの部屋は一番広い部屋を主寝室にしたので、他の2部屋は雅弥と由佳の個室になった。

子供が出来るまでだが、結婚して自分の個室を持てるので、由佳は喜んだ。
以前から雅弥は1部屋を仕事部屋にしていたので、休日に支援センターへ行かないとき、個室で仕事をしているらしい。

流石に由佳はそこまでではないので、自分が持参したタンスや化粧台を入れた。それで一杯になったが。一応、由佳の個室だ。インテリアは好きなようにすると、雅弥に宣言した。

1階のLDKは、雅弥が今まで使っていたので、それに由佳が自分のインテリアデザインをすることになった。

それも由佳は楽しみにしていた。少しづつ、手を入れるようだ。

雅弥は口を出さないと言う。これも楽しみにしている。

この時期、船橋のIKEAは撤退していて、渋谷の東急ハンズまで、カーテンや家具を買いにいった。

特に、ダイニングチェアーは、ハンス・J・ワェグナーのYチェアーにした。

これも二人のこだわりだった。

照明器具も、港区芝のyamagiwa のショールームへ二人で行った。

元々由佳はインテルデザイナーを目指しているので、家具や照明の選択は、力が入っていた。

どうもモダニズムが好きなので、その点雅弥と趣味が合い、雅弥は安心した。

これがアールデコやアールヌーボーとか言われたら、どうしようかと心配していたので、良かった。

機種のセレクションも一応雅弥に聞くが、自分で調べ、どうも行く前から候補が何点かあるようだ。

その点、雅弥もそれらのデザインは好きなので、二人の趣味が合うときは嬉しかったし、合わないときは、雅弥が泣いた。

ダイニングの照明は、有名なデンマークのデザイナー、ポール・ヘリングのPHランプにした。

これはすんなり決まった。が、リビングの照明は揉めた。

由佳は、ダクト照明が好きで、新規に天上にダクトを3本配置し、スポットライトを付けたいと言う。

だが、雅弥は壁付けのブラケット照明とフロアスタンドだけにしたかった。その点で相当揉めたが、最終的に、全部やると言うことで決着した。

それを決めるのに5時間掛かった。二人とも、拘りがあると、頑固だった。

でも一度行きたかったので、いろいろ見て楽しかった。

今度は丸々1日来たいと、二人で話した。

雅弥はこの時、自分が独立したときは、由佳にインテリアデザインを任せようと思った。彼女なら、自分の指向性からずれること無く、仕事を纏めてくれると思った。

秋の式の準備もあり、また冷夏だったので、夏の休暇は改装工事と、秋の準備に時間を割しかなかったが、一度だけ海へ行った。

由佳と海へ行くのは初めてだし、彼女の水着姿も初めてだった。

女子高生みたいな紺の水着だが、十分魅力的で、周囲の視線を感じた。

帰りは、流石にあのホテルは避けて帰ってきた。当然由佳には一生秘密だが。

これが、1993年6月から8月までの出来事だった。

13.東京カテドラル聖マリア大聖堂

東京カテドラル聖マリア大聖堂
設計 丹下健三 施工 大成建設 1964年(昭39)  東京都文京区
1962年前川国男、谷口吉郎、丹下健三の3人による指名コンペの結果、当選案が実施にうつされたものである。他の2案は共にボックス型の空間を教会建築案として提出しているが、象徴的な空間をより強く求められる宗教建築案としては、丹下案が抜群であった。丹下はこの教会にHPシェル構法と、ステンレスを採用しているが、これほど大量のステンレスを素材として使ったことは、はじめてであった。内部はRC打放しを露出させることによって、従来の教会には見られない荒々しいダイナミックな上昇空間をつくりだしている。それ故に一般信者にとっては賛否両論に分かれるのも当然といえる空間である。(近江栄)

日本近代建築史再考   虚構の崩壊 新建築社 昭和50年刊より

結婚式も、準備で色々な問題?があった。

当然親からは神社で式、地元ホテルで披露宴という話があったが由佳には、その点も拘りがあった。

雅弥は、特に希望はなかったが、由佳の希望では本格的にチャペルでウェディングドレスでという。

それも、結婚式場の偽物くさいのではなく、正式に教会でやりたいという。

雅弥は驚いた。

更に、挙げたい教会は決まっているという、聞くと目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂だという。

由佳「だって日本で一番式を挙げたいと言ったら、聖マリア大聖堂しかないじゃない、だって世界の丹下が設計した傑作よ。他にあれより良い教会ある..。有ったら教えて」

雅弥「イヤ、無いけど…」

由佳「そうでしょ、決まりね。毎週ミサに通うわよ」

どうも、結婚式とかウエディングドレスとかの話になると、人が変わった様に、強気というか、強引に押し倒しても自分の意見を通す、最近この由佳の性格を知った。

やはり、あの魅力的な笑顔や蠱惑的なボディの中には、強靱な意志が有った。

雅弥はこの時点で、そういう由佳の怖さをもっと自覚すべきで有った。

あの 世界のタンゲ が設計したあれである。

教会に聞いたら、まず1週間毎日にミサに出ての洗礼を受けることが、前提条件だという。(今では1年間、日曜日毎ミサに出て、1年後の復活徹夜祭に洗礼となっている)
それならということで、由佳と雅弥は1週間、カテドラルへミサを受けに通うことになった。

披露宴については、つくばセンタービルの式場での披露宴となった。これについては、由佳から特別、注文が無かったので、皆は安堵した。

挙式は10月10日(日曜日)、目白 東京カテドラル聖マリア大聖堂で。

披露宴は17日日曜日、つくば センタービル披露宴会場で、つつがなく行われた。
これも、由佳から事前に、そこら辺の怪しい結婚式場はダメだと言われていた。だから、ポストモダンの旗手だった磯崎新設計のつくばセンタービルの式場の一択だった。
内覧会に行って、会場のインテリアや照明を見て、そのポストモダン的なデザインにご満悦だった。

ホールへ行くと、由佳が喜んで言った。

由佳「ねっねっ、これモンロー曲線よ」とガラスブロックの出窓のカーブを指さして、喜ぶ由佳を見て、ここにして良かったと思った。これが普通の式場だったら、多分一生嫌みを言われたと思った。

その後は、隣のホテルに泊まって、一線交えたが、さっきの余韻もあり、由佳は積極的だった。

部屋に入るや否や、雅弥の息子を取り出し、咥え上下に揉みしごいた。

十分膨張したのを確認すると、雅弥をベットに仰向けにし、その上に十分潤った彼女の泉を充てて、呑み込んで腰を回しグラウンディングし始めた…。

それは最近の由佳がハマっている動き方だった…。
この頃から、ベットでも攻守が逆転し始めたのだった…。

これが、1993年10月の出来事だった。

14.デザインオフィス創設

ハネムーン。

これも、揉めた。

雅弥は、ハワイ、オーストラリア、ニュージーランドといい、由佳は、バルセロナ、イタリア、パリということで、紛糾した。

雅弥もそれは由佳の言う所へ行きたかったが…。

独立資金を取り崩すのも、躊躇した。

由佳には、その話をして、ハネムーンについては、落ち着いてからということで、取り敢えず国内1週間で、数年後、つまり独立後に海外へ行くということで納得してもらった。

大体、藤木昌所長が、そんなに休暇をくれる訳がなかったからだ。

結婚式やハネムーン代わりの国内旅行が終わり、10月下旬から通常生活に戻った。

分室も不在の間、スタッフの柴浩一や川崎直子だけでは回らず、東京本店から応援が来てフォローしていてくれたが、停滞しそうな現場もあり、待ったなしだった。

それらの処理に1週間掛かった。

1993年当時、バブル崩壊があり、つくばの開発も次の段階への踊り場にいた、TXの終点になる、センタービル周辺はほぼ開発されており、唯一東北部の花室交差点付近の旧桜地区からから藤沢荒川沖線沿いを北へむかう旧道沿いが残るのみとなっていた。

東京本店の藤木昌所長は、住宅都市再生機構のつくば支店とその開発について、学者村、共有緑地というコンセプトで提案していた。

住宅地開発は、定型の狭小区画が一般的だが、藤木はどちらかと言えば、アメリカ的な郊外型を提唱し、広い緑地を宅地の中に、付属させて、いく方式を目論んでいた。

それには、再生機構だけで無く、地元地主や工務店・材木店も巻き込んだイベントが必要になる。

その出先として、雅弥のつくば分室がそれらの取り纏め役として動くことが、期待された。

一方、建築の方でも、校倉造型の木造を提案していた。
それまでは、住宅がメインで経験を積んでいたが、いよいよ特殊建築物への展開を目論んでいた。
国産木材の消費拡大や外材への依存率が高い問題を抱えていた林野庁が旗振りしていた。
問題は、耐火建築の性能をどう確保するかだが、建築研究所とその研究開発をしており、この時期に実物大の火災実験を行った。

結果は、一部炎の周りが早いところがあり、そこは改善することで、実用化の目安をつけた。
設計は本社で、現場の設計監理は、雅弥の分室が担当することになった。

その場所は、産総研の南側にある地域に計画された、市立小学校だった。

日本の小学校は、かつて全て全て木造の平屋造りだった。

戦後のベビーブームで児童数が多くなると、不燃化、耐震化でRC造へ移行した。

ある意味、そのふり戻しがこの時期、顕著化した。

一部では、この小学校は、先進的木造教育建築として、話題になった。

そのような、本社の出先として仕事をこなしながら、雅弥はつくばで営業展開もすすめた。個人住宅から公共建築まで手がけた。

由佳と結婚してから3年目に、独立する機会を得た。

会社の名称は、福山建築研究所とした。

当初スタッフは、CADオペレーターの山崎、事務とインテリアは由佳が担当した。

半年後に、設計補助で柴 浩一が加わった。

事務所は取り敢えず、春日にある賃貸マンションの3LDKをオフィスとした。

仕事の三分の一は、藤木昌の事務所からの住宅地開発計画絡みで、残りは一郎からマンションや店舗の設計依頼と注文住宅の設計が有り、経営は軌道に乗りつつ有った。

問題はスタッフの確保だった。

今日はつくばのTX大学の芸術学群を訪問している。

建築コースの助手をしている清田徹に求人の件で会いに来た。

徹は、水戸の高校の同級生だった。

徹「やー、元気そうだね。」

雅弥「事務所のオープンの時は、色々ありがとう。お陰様で助かったよ。」

徹「まー、どうってことないよ。由佳さんも元気?」

雅弥「うん、色々やってもらっている。」

徹「いいね、おしどり夫婦で。」

雅弥「何時も、一緒っていうのも、それはそれで大変だよ。」

徹「お前の場合は、由佳さんの監視が必要だからな。」

雅弥「そんな暇無いよ。」

徹「そうか?ははは…。」

高校の同級生には、全てお見通しらしい。油断も隙もない。

雅弥「ところで、設計スタッフ探してるんだけど、どう?いい人いない。」

徹「うん、先月東京の事務所を辞めて来た、卒業生がいるけど..。」

雅弥「ほう。どんな人?」

徹「26で、マスター修了で東京のアトリエ系事務所に2年いたんだけど、どうも厳しかったらしくて、先月遊びに来て愚痴こぼしていた。」

雅弥「いいね。聞いてみて。」

徹「じゃー、連絡してみるよ。女子だよ。」

雅弥「ああ、そう。」

それが1995年5月の出来事だった。

15.新しいスタッフ

先週TX大学の助手 清田徹から連絡があり、今日面接に来ることになっている。

山崎直子「所長、今日面接に来る人は、何歳ですか?」

雅弥「26歳、マスター修了で、東京の事務所で2年。」

直子「なんだー、年上か。」

ドアをノックする音。

直子、出迎えに行く。

愛田久美子「こんにちは。愛田久美子といいます。今日面接のお約束で..」

直子「どうぞ、こちらへ。」と応接室へ通す。

スタッフルームへ戻る直子に柴が聞く。

柴「どんな人?」

直子「美人。」

柴「ひゅー。」口笛を吹く。

雅弥が面接して、採用となった。

由佳「今度入った愛田さんって、どんな人?」

雅弥「皆聞くけど、普通の人。真面目そうだし、受け答えもしっかりしている。」

由佳「直ちゃんが、美人だって。」

雅弥「そうか?直ちゃん、大げさだからな。」

由佳は、雅弥の女性に対する脇の甘さは認識していたので、一応雅弥にけん制したつもりだが、雅弥はわかっていない。

流石にそこまでの心配は…必要ないだろうと思っていた。結婚してまだ2年にもなっていない。

翌週から、愛田久美子は勤務することになった。

担当は住宅系の設計監理となる。

今まで雅弥が担当していたが、これで宅地開発と特殊建築物に注力できる。

久美子が入所の半年後、千葉県旭市の夫婦から、住宅設計の依頼があり、担当することになった。

初回の打合せは、旭市とつくばの中間地点で成田市となった。

施主は、平田安治と言った。HPで雅弥が設計した住宅を見て気に入り、連絡してきた。雅弥が案内した、つくば市内の住宅も見て、設計契約をした。

この物件は、最初から久美子に担当させようと思った。半年、いろいろな物件や図面を担当させたが、本格的に担当しても良い頃だろうと判断した。

初回のプラン打合せに、久美子が設計したプランを持参した。

今までは、雅弥が自分でプランニングしていたが、今回から久美子に任せ、自分はチェックのみにした。流石に、若干手は入れたが。

施主夫婦の要望は、4人家族に、ガレージ4台分、リビング等は2階へという要望だった。既に敷地も見てきたが、不整形敷地だった。

旭市は銚子市に隣接して、海岸から1kmしか離れて無く、海洋性気候で、敷地の土壌は砂だったから、地盤改良は必須だったが、予算は厳しかった。

プレゼンの図面は、久美子の手書きだった。手描きの味があり、雅弥は気に入っていた。

そのプランを見た、平田夫妻は驚いた。CADの図面が出てくと思ったらしい、他の住宅会社でもそうだったからだ。

施主もそのプランを気に入り、若干の手直しをして実施設計へ進んだ。

そのプランは、2棟の分棟型、住宅は2階建て、1階に個室群、水周り、2階にLDK,家事室が配置された。所謂、逆転プランである。

LDKは南から北へ下がる勾配天井の吹き抜けで、南は大判の掃き出し窓に上部はFIXの連窓で開放感があった。それも夫婦は気に入った。

業者は地元で探した。土地家屋調査士をしていた、平田氏は建築業界にも顔が広かったが、ベテラン棟梁の浅野大工を紹介してきた。

雅弥も色々当たったが、平田氏が気に入っているので、浅野大工に依頼することにした。
正直、現場の監理は厳しいことが予想されたが、その点は久美子に詳細に報告するように指示した。

実施図書が完成し、確認申請や発注業務が終わり、由佳のインテリアの打合せも終わり、着工したのは、1997年5月だった。

無事地鎮祭も終わり、地盤改良から工事は始まった。が、問題は直ぐに発生した。

それが、1997年5月の出来事だった。

16.トラブル発生(R-15)

[注意:この回の最後には過激な性的表現があるので、気分を害する恐れがあります。ご心配な方は、ここで他のページへ移動することを、お薦めします。]

着工前から、気になっていた事が、次々と発生した。

その度に、久美子は施主から電話で報告を受け、現場へ行っていた。

つくばから旭市まで約70km、高速で1時間20分、下道で2時間掛かる。

施工上のトラブルは、大体施工者の不注意や、未熟さから発生する場合が、多い。

施主が、浅野大工にと言った時に、その可能性について、もっと忠告しておけば、良かったと後悔した。安価という魔力で、そういう選択をするとリスクが高まるが、それを事前に予想し施主に忠告するのも、設計監理者の仕事であると、この時に学習した。

まず、基礎工事でコンクリート打設後の養生が不十分で、クラックが発生した。

コンクリートは、水和反応で硬化し強度が増加していくが、水分が不足すると乾燥収縮しクラックが発生する。

打設した6月は梅雨だが、時折快晴で日射も多く気温も上がる。

そういった条件では、散水や急激な乾燥を予防するシートなどの処置が必要だが、怠るとクラックは発生し、後の修復は難しい。

基礎の施工を浅野大工が自ら行うと言われた時、嫌な予感がしたが…。久美子が慌てて、現場に行ったが、遅かった。その報告を雅弥にする。

久美子「基礎の立ち上がり部分に、横方向にクラックが数カ所あります。」と現場で撮影した写真を見せる。

雅弥、写真を見て「ああ、このクラックは乾燥で収縮した奴だね。」

久美子「修復できませんか?」

雅弥「こうなってしまうと、難しい。」

久美子「どうしかしょうか?」

雅弥「平田氏には、私から話します。」

久美子「すいません。」

雅弥「大丈夫だよ。これは、久美ちゃんのせいじゃないから。」

久美子「…。」

平田氏には、現場で雅弥と久美子で出向き、現状と補修方法について説明し、強度的には、問題が無いというが、カーボンシートで補強するという雅弥の説明で納得した。

だが、更にトラブルは発生した。

雅弥の木造住宅では、柱・梁・小屋組は、木肌を現しで見せるデザインだ。

だから木部の仕上げはしないか、手垢が付くところだけ木用のワックスを使う。

ところが、浅野大工は、その加工の際に、彼が何時もしている、砥(とのこ)の粉をたっぷりと付けてしまった。これも平田氏から慌てて連絡があった。

また久美子が慌てて、加工場へ飛んで行った。

前回と同じように、雅弥が平田氏に状況説明をしたが、いまさらどうしようもない。

平田氏も、後悔していた。が、浅野大工に頼みたいと言ったのが、自分だから雅弥を責める訳にもいかず、困った顔をしていた。

正直、あと1割高くても良いと言っていれば、こんな問題を起こさない工務店を薦めていたのだが、後の祭りである。

これ以降、久美子に現場の監理を緻密にするように指示した。

久美子にとって初めての住宅の現場の監理で、これだけ色々なトラブル発生で気苦労も大変だろうと、思う。

雅弥「久美ちゃん、大丈夫ですか?」

久美子「すいません。何度も」

雅弥「浅野大工も悪気があってやっている訳ではなく。今までと同じようにやっているんですよ。そこに問題点があるんでが、彼には分からない。今後も詳細にチェックと報告お願いします」

久美子「はい。報告まめにします」

現場に行くようになり、Gパンに化粧も薄めで、髪も短くしている。

久美子は良くやっていると雅弥も思う。施主指定の大工が問題なのであって、彼女に問題は無い。

その晩、由佳が段段大きくなってきたお腹を摩りながら、聞いてきた。

由佳「久美ちゃん、どうなの?トラブっているらしいけど?」

雅弥「ああ、大工がね、いらないことしてね。久美ちゃん、のせいじゃないから」

由佳「ふーん、そうなんだ。久美ちゃん、お気に入りね」

雅弥「何言ってんだよ。馬鹿だな」

由佳「ねっ、溜まっているでしょ?」

雅弥「はー?まー…」

由佳「ヘルプしてあげる」

雅弥の股間に触り、刺激する。段段大きくなる。ジッパーを下ろし、取り出し、舌で刺激する。雅弥、声を漏らす…由佳、口に含み、上下する。

執拗に刺激を続ける..、やがて行く…雅弥。由佳、口を押さえながら、サニタリーへ行く。

戻ってきて、由佳「駄目よ、私以外に、手を出しちゃ」

雅弥「当たり前だろう」

由佳「溜まったら、言いなさいよ。してあげるから」

雅弥「はい....」

完全に尻に敷かれている雅弥。

それが、1997年7月の出来事だった。

17.一夜の過ち

寿司屋の宴会場は、職人達で大騒ぎだった。

紅一点の久美子は、大変な人気で、あちこちから声が掛かり、もう既にかなり飲んでいるようだ。
あらかじめビジネスホテルを二部屋予約して、良かった。

今日、平田邸の上棟式である。

木造軸組構法では、構造体の土台・柱・梁・桁・屋根組を先行して組み立てる。この工事を建て方といい、その完成を祝う式が今日行われる。

現場で、棟札を上げ、御神酒や塩を四方に清めて詔を挙げその後、この宴会場に来た。

2時間も過ぎて、施主の平田氏の挨拶の後、お開きになった。

呼んで貰ったタクシーで、国道沿いのビジネスホテルへ久美子と行った。

久美子はかなり飲んで、歩くのも覚束ない、雅弥が肩を貸してエレベーターへ入る。

久美子「所長!大丈夫です、久美は酔ってません!」

雅弥「いや、もう少しで部屋ですからね。」

久美子「もしかして、ダブルベットですか?」

雅弥「いやいや、別々の部屋ですよ。久美ちゃん、酔ってますよ。」

久美子「またー、..うっ、…」と口を手で押さえる。

雅弥「ちょっと、もう少しです。」

久美子の部屋のドアを開けると、久美子は直ぐにユニットバスへ走り込む。中から、戻している音がし、雅弥も中に入り、跪いて吐いている久美子の背中を擦る。

暫く吐いて、もう出てきそうにないので、肩に掛けてベットへ運ぶ。

もう、こうなると周囲から美女と言われている久美子も唯の酔っ払いである。
ブラウスの上のボダンだけ外して、シーツを掛けて、自分の部屋へ行こうとすると。

久美子「所長、何処へ行くんですか?」

雅弥「あっ、気が付いた…」

久美子「暫く、居てください。まだ、気持ちが…」と口を手で押さえる。

雅弥「あっ、そう…」とベットの端へ腰を下ろした。

久美子、雅弥の手首を掴み、背中に抱きついてくる。

久美子「所長、わたし、わたし…」

雅弥「…」

雅弥は、葛藤していた。

妻は身重で、もう直ぐ予定日だ。

過ちをしている場合では無い。

久美子「駄目ですか。今晩だけ、今晩だけ、一緒に居て下さい…」

雅弥「久美ちゃん、じゃー、隣に居るから、大人しく寝なさい…」

久美子「所長、ホントですか。嬉しい。大人しくしてますから…」

雅弥「ホントですよ。僕はシャワー浴びてきます…」

久美子、頷く。

シャワーを浴びながら、雅弥はまた葛藤していた。

だが、下半身は正直に反応していたが…。

シャワーから戻ると、久美子はベットシートの中から、肩だけ覗かせて上目づかいに見ている。
どう見ても、その下には、何も付けていない様にしか見えない。

雅弥、焦る。棒立ちである。
いろいろ。

ベットの中から久美子が素早く観察して、微笑む。

久美子「所長、早く、来て…」

雅弥「さっき、大人しくするって…」

久美子「わたし、大人しくしてますよね。さっ、ここ、ここ…」とベットの端を手のひらでぽんぽんと叩く。

雅弥、渋々そこへ座る。

久美子「所長、わたし、いつも所長の事、見てるの、知ってましたか?」

雅弥「えっ、そうなの…」

久美子「ええ、知らなかったの!」と雅弥の二の腕を思いっきり、つねる。

雅弥「あっ、いててて…」

由佳と結婚して6年目の初めての浮気だった。

それが、1997年8月の出来事だった。

18.赤プリ

旭市での一夜の過ちは、どうやら由佳には気付かれ無かったようだ。

その翌日、自宅へ帰るや否や、由佳の破水による緊急入院騒ぎで、それどころでは無かった。

長男が生まれ。

薫 と命名した。

母子とも健康で、1週間後二人は退院した。

産後の為、念の為に柏の実家へ戻った。

住宅の依頼は、相変わらず好調で、次の案件は小川町の中山三吉氏の大型物件の立替え工事で、敷地は広大で、800坪以上で裏には、屋敷林まである。

大規模で延べ床面積は300平米以上、造園、ガレージ、物置まで含まれ、建設総額は1億を超える案件だった。

流石に、雅弥もプランニングした。

二人で10プラン作成し、そのうち3プランのプレゼン図面を作成し、中山氏と打合せをし、最終的に中庭を持つ、周回型プランになった。通常の案件はせいぜい2プラン作成で1プラン提出なので、中山邸は慎重に対応した。

ほぼ平屋で、寝室の上に、2階子供部屋3室を設けたが、そこだけだった。

予算内に見積もりも納まり、11月に着工予定、完成は翌年9月だった。

因みに中山氏は、都内に3軒のスーパーマーケットを持つ実業家で、毎日特急で通勤していた。

彼は若い頃、苦学し高卒で働き出した所為もあり、大学で学び直したいと60歳を超えて大学の経済学部へ入学した。流石に、体育の単位は免除されたと笑っていた。

世の中には、凄い人が大勢いる。

部下の柴の業務量も増え、特殊建築物担当も増えて、事務所も手狭になり、土地を探した。

学園線と常磐自動車道の交差する沿線に吉瀬というところに古民家があり、それと一緒に隣地を購入し、平屋の事務所を計画した。

設計は、スタッフ10名+事務2名で、200平米を基準に、スタッフ全員でコンペで設計した。

皆で検討・討議し最終的に久美子の案になり、実施設計も彼女に担当させた。

このころ高気密、高断熱仕様はまだ珍しかったが、勉強して設計に盛り込んだ。

これも4月に着工し、9月に完成予定だった。

これで、久美子の業務も満杯で、さらに住宅担当者の募集を掛けた。

今度も、TX大学の清田に頼んだが、新卒で大学院へ行く予定が、変更になった学生がいるので、面倒見てくれということに、なり面接した。

彼の名は、久保田結という。

性格は温厚で、協調性がありそうな感じだった。

メンバーに加わった。久美子の下に付けた。

ところで、久美子とは、あの旭市の上棟式の夜から、二人の関係は無い。

お互い、狭い事務所なので、自重した。

ただ久美子の気持ちは変わらず、それは周囲に気取られないようにした
が、時々雅弥が事務所にいると目で追っていた。

3ヶ月に一度、雅弥は東京の藤木昌の事務所へ打合せに行くので、その時に、久美子が東京まで追いかけて来たことがあった。

吉瀬の事務所が仕上げ工事に入っている、9月の初旬だった。

打合せが終わり、雅弥が藤本の事務所を出ると、そこに久美子がひとり立っていた。

流石に唯ならぬ久美子の雰囲気を察して、赤坂のホテルのレストランへ誘って行ったが、久美子は料理を余り口にしなかった。

雅弥はそこに部屋を取った。

部屋に入るなり、久美子は抱きついてきた。

顔を見ると、大粒の涙が溢れていた。

思わず、くちづけをした。

久美子は堰を切ったように、大胆だった。

そのまま、ベットに倒れ込んで、雅弥の服を脱がし出した。話す間も無かった。

口を利いたのは、久美子が2度目の絶頂を迎えた後だった。

久美子「所長、わたし…、わたし…。」

雅弥「分かった、何も言わなくていい。」

久美子、雅弥の胸に顔を乗せて、動かない。

久美子「ずーと、こうしていたい。」

吉瀬の新事務所の工事が終わったのは、9月末だった。

雅弥、仕事も私生活でも多忙である。

それが、1998年9月上旬の出来事だった。

19.女の勘(R-15)

[注意:この回の最後には過激な性的表現があるので、気分を害する恐れがあります。ご心配な方は、ここで他のページへ移動することを、お薦めします。]

由佳は、窓際で長男 薫をあやしながら、最近の雅弥の挙動不審について、考えていた。今朝も
由佳「旭の現場は、あれから落ち着いたの?」

雅弥「ああ、最近は落ち着いている、静かだよ。予定通り引き渡し出来そうだよ。」

由佳「上棟式の直ぐ後に、薫が生まれたからね。」

雅弥「そう、直ぐだった。」

由佳「上棟式の宴会は、荒れなかったの?」

雅弥「そうそう、久美ちゃんが、みんなに飲まされてね…。」

由佳「えっ、久美ちゃんも出たんだ…。」

雅弥「…。」急に黙る。

由佳はあの急に黙り込んだ、雅弥の急な沈黙から、何かを感じたようだった。

雅弥は、隠し事ややましい事があると、急に黙り込んだり、話をそらす癖があることを、由佳は知っていた。

だから、怪しいときは、鎌を掛けると直ぐに、雅弥はぼろを出した。この時も、確かにボロを出した。それが何かはまだ分からないが、そのうち分かるだろうが、嫌な予感はあった。

数日後、由佳は、事務所に久しぶりに顔を出した。出産から1ヶ月後の事だ。
相変わらず、スタッフたちは忙しそうに、電話を受けたり、図面を描いている。
その中に、久美子が電話で話していた。ふと、目が合うと、視線を逸らした。
変だなと思っていると、何か避けている様な気配もする。

気になり、旭の現場の日報を調べた。
あの上棟式の夜だ。
てっきり、上棟式には雅弥だけ出ていると思っていたが、久美子も出ていた。
しかも、領収書から同じホテルに泊まっていることが…。

これは、確認しておかないと。

由佳「久美ちゃん、上棟式は一杯飲まされたんだって?」

久美子「大変でした。」

由佳「そういう、時は旨く逃げるこつもあるのよ。」

久美子「えっ、そうなんですか?」

由佳「体調悪いって、いうのよ。」

久美子「そんなー。」

由佳「まーちゃん、介抱してくれた?」

久美子「別に…。」

話は、そこで切れた。

後味の悪い切れ方だ。何かある。

女の勘がそう言っている。

その晩、雅弥と由佳がベットで。

由佳「今日、事務所へ行ったけど、最近久美ちゃん、綺麗になったわね。」

雅弥「そうか?何時も居ると分からんね。」

由佳「女には分かるの、久美ちゃん、恋してるって。」

雅弥「へー、そうなんだ。」

由佳「相手は誰だか知ってる?」

雅弥「そんなこと、知らないよ。」

由佳「上棟式の晩、同じホテルに止まったの?」

雅弥「同じだけど、部屋は別だよ。」

由佳「なにも、無かったでしょうね?」

雅弥「当たり前だろう。何言ってるんだ。」

由佳「ふーん、確認しなくちゃ。」

と言いながら、雅弥の息子を触り始める。
段段膨張する、息子。
由佳が、息子を出して、舌で刺激し始める。
長く、ゆっくりと。
そして、大きくなったそれを咥え、唇で締め付けながら上下に動かす。
長く、ゆっくりと、時間を掛けて、由佳はいたぶる。
やがて雅弥、堪らなくなり、放出する。

由佳は、今日はそれを飲み込む。

由佳「ふっー、どうだった。」

雅弥、恍惚とした表情で「よかった。」

由佳「さっ、今度はわたしの番よ、来て。」

二人の夜は、長い…。

由佳は、ここで雅弥を問い詰めたり、追い込むのは不味いと思い、ここは、見逃すことにした。
そのうち、お灸を据える時はくるだろうが…

それが、1997年9月下旬の出来事だった。

20.オンジョブトレーニング

11月に小川町中山邸が着工した。

施工店は、水戸のM建設に決まった。

5社の相見積もりで残り、最終的に見積もり額を、減額しこちらの提示額へ合わせてきた。

現場監督は、仁平といい、如才ない男だった。大工は4人入り、工程管理も抜けがなさそうだった。

最初の基礎工事の地業の段階で、レベルは分かった。問題なさそうと、分かると現場は久美子と久保田結に任せた。

久美子は担当から、チーフへ格上げした。
少し早いかな思ったが、下に久保田を入れたので、オンジョブトレーニングしながら、管理者としても経験を積んだ方が良いと思い、その点も、言った。

打合せ室、二人テーブルに向き合っている。

雅弥「久美ちゃん、中山邸から久保田君と一緒に監理してください。施工店の仁平さんは、しっかりしているので、大丈夫だと思います。何かあったら、直ぐにホウレンソウですよ。」

久美子「分かりました。結君の指導ですが、厳しくした方がいいですか?」

雅弥「あっ、いや、そう言うのでは無くて、教育してください。仕事を好きになるように。」

久美子「あ、わたしが所長を好きになったようにですね。」

雅弥、動揺しながら「久美ちゃん…。」

久美子「冗談です。..今晩、どうですか?」

雅弥「どうも、勘づかれているようなので、今は自重です。」

久美子「分かりました。残念。」

雅弥「…。」

何か、雅弥は由佳と久美子の間で、浮遊している風船の様な気がしてきた。

自席に帰った久美子は、ぼんやりさっきの雅弥の言葉を反芻していた。

「好きになるように、教育してくださいね。」

全く、わたしが所長を好きになるように、教育したのね。ふん。

その事を考えると、段段頭にきた。

久美子は、雅弥に会うまでの経験は、余り多い方では無かった。

美人なせいか、腰が引けるのか、近寄ってくる男は少なく、経験も少なかったし、彼らのテクニカルなレベルも低かった。

雅弥との経験は、それまでのものとは、全く違っていた。

濃厚で、狂わせる魔力を持っていた。

だから毎日、顔を合わせて居ながら、抱いてもらえないのは、地獄だった。

だから、逆に忘れようと、褒めて貰いたくて、仕事に没頭した。

今でも、所長が傍に来るだけで、あそこがじんわり潤ってくる。

だから、事務所では、なるべく所長の傍に近寄らないようにした。

オンジョブトレーニングだと、ふざけるな!と叫びたかった。

そんな久美子の思いは、雅弥も由佳も想像すらしなかった…。

少し気持ちが落ち着いてきたので、後ろにいる、久保田結に声を掛けた。

久美子「結君、11時に中田邸の打合せするからね、。」

結「はい、分かりました。」

結は、年下だが、素直な性格で、皆から可愛がられている。まだ、修羅場を経験していないせいか、のんびりしていて、緊張感は余り無い。どうやって、育てようか..。

翌日、久美子は、事務所のホンダ・オデッセイの助手席に結を乗せ、現場へ向かっている。

結「先輩、現場の職人さんって、怖いんですか?」

久美子「あはは、そんなことは、無いわよ。でも、質問されたら、的確に答えないと、言うこと聞いて貰えなくなるかも。」

結「ええ、僕何も知りませんよ。」

久美子「だから、現場へ行くんでしょ。」

久美子は、先が長いことを悟った。

それが、1997年11月の出来事だった。

21.所長不在

[注意:この回の最後には過激な性的表現があるので、気分を害する恐れがあります。ご心配な方は、ここで他のページへ移動することを、お薦めします。]

1998年4月に、雅弥はつくば研究学園都市の東外れの吉瀬という集落にある古民家と隣接する土地を購入した。

ここに自宅と事務所を移設する計画だ。

松代のタウンハウスもそろそろ手狭になってきたし、それより事務所もスタッフたちが増えて狭くなってきた。

技術スタッフ10名と事務2名がゆったり仕事が出来るオフィスを計画した。

プランは、全員でコンペティションとした。

全員の案を、全員で審査して、最終的に雅弥が決めた案は、久美子の案だった。

3年も住宅設計を雅弥に付いて経験しているので、雅弥が好きそうな案を提案していたからだ。

そういう意味で、雅弥より雅弥らしい案を作れるようになっている。

プランは、木造平屋で、140㎡、応接室、製図室、所長室、事務室、食堂兼会議室、資料兼印刷室、水周りと小屋裏に図面保管室がある。

また、この時代としては先端の高気密・高断熱仕様とした。

当然、現場監理は、久美子と結が他の物件と並行して、行うことになった。

施工店は、安心して任せられて、近場の大亀工務店にした。

春日の事務所から吉瀬までは、10分でいけるから、現場監理は楽だ。

久美子は自分がメインで設計したので、やる気は十分。結は勉強がてら、週3^4回は行っている。

この年の夏休み、雅弥と由佳は念願のハネムーンにハワイへ10日間行っている。

事務所も所長不在で夏休みモード、出てきているスタッフは、久美子と結の二人だけだ。

結「久美子さん、仕事終わったら、センタービルのビヤガーデンに行きませんか?」

久美子「ビヤガーデン?良いけど。」

結「僕、クルマ出しますから。」

久美子「了解。」

夕方、結のシビックでセンタービルへ行く。

久美子「結君の車に乗るの初めてだね。」

結「はい、そうですね。光栄です。」

久美子「あはは、そう。」

その日、久美子は久しぶりに、痛飲した。

元々アルコールは強いので、飲んでも酔わないが、この日は、雅弥や由佳が日本に居ないという、開放感か、機嫌が良かったし、結が飲ませ上手だった。

久美子「おい、ゆう、現場そろそろ一人でいけるだろう。」

結「いやー、先輩が教えてくれるから、まだ一緒がいいかな。」

久美子「そうか、じゃー、吉瀬までな。」

結「はい、はい。了解です。」

久美子が気が付いたら、センタービルのホテルの客室のベットで寝ていた。

ビヤガーデンの後、上のバーでカクテルを飲んだところまでは、記憶があるが、その後は…。

シャワールームから水の流れる音がする。

あれ、雅弥所長が、帰国していたのかな…

まだ、意識はぼやけている。

暫くすると、首から、胸に掛けて舐める舌が…

下を見ると、愛撫しているのが、結だと分かった。

雅弥とは、違い、それはぎこちなくイマイチだった。

まー、いいかと思った。雅弥は由佳とハワイだし。1回だけなら、と。

それが1998年8月の出来事だった。

22.チェンジ

1998年9月に 吉瀬の事務所が完成した。 

今日は引っ越しなので、全員作業着やジャージである。

由佳は、第2子の妊娠が先日分かり、今日は作業に参加していない。

現在、スタッフは、雅弥を入れ7人になっている。

この年、バブル崩壊があり、ターニングと言われる年である。

住宅需要もそれまでに比べて、減少した。多忙だった事務所のオーバーワークも今は落ち着いてきた。

少し、腰を据えて仕事をすべきだと思っている。今までが異常だったのだ。

引っ越しも済んで、引っ越しパーティーをしていた。

久美子が何か話があると、新しい所長室へ来た。

雅弥「如何したの?」

久美子「色々お世話なりました。退所のお願いに来ました。」

雅弥「えっ?」

久美子「来月一杯で、それまでに残務処理と引き継ぎはします。」

雅弥「…後で、La Luceで話聞きますから..。」

久美子「じゃー、後で。」

パーティーが終わり、雅弥が La Luceへ行くと、既に久美子の赤いプレリュードが駐車場にあった。

雅弥「如何したの?急に。」

久美子「そろそろ、潮時かなって。」

雅弥「…。」

久美子「だって、ハネムーン行って、楽しかったでしょ。」

雅弥「それは…。」

久美子「いいんです、これ以上、所長と同じ空気を吸ってたら、私多分、酸欠で死にます。」

雅弥「そんな..。」

身重の由佳は、久美子が退職する件は、事務担当から聞いた。

それを聞いて、ホッとした。同時に体から何か重しのような重圧が無くなり、体が軽くなったように感じた。

この三角関係が何時まで続くのか、深く考えると地獄なので、何時も気丈に振る舞っていたが、事務所へ行く回数は減ったし、行くときは久美子が現場へ行っている時を確認してから、行った。

何故、自分がそこまで気をつけなければいけないか、切れそうなときは何回も有った。でも、それも終わった。

久美子は、雅弥に退職を切り出すのに、一ヶ月掛かった。

ちょうど事務所の完成と引っ越しがあったので、それが辞めるタイミングだと思った。

雅弥達がハネムーンに行って、それで決心が付いた。

どうしたって、自分が雅弥のパートナーに成れるはずもなく、由佳が居なくなるわけでも無いことを、再確認したからだ。

なんで、由佳が先に雅弥に出会い、自分が後に出会ったのか、神様を恨んだ。

だが、それが運命だったんだと、思うと…諦めるしか無い、運命だと悟るのに、今まで掛かった。

以前、東京まで行って、抱いて貰ったが、その時は嬉しかったが、自分のマンションへ帰る時は、惨めだった。

だから、あれ以来、無理に押しかけるのは、止めた。

転職は、タイミング的には最悪だったが、ここに居て、段段自分が壊れるのを待つのも、最悪なので、知人の紹介で水戸の注文住宅会社へ行くことにした。

それしか無かった。

それが、1998年9月の出来事だった。

23.会津造り酒屋の娘

松田瑞季が入所して、翌年1999年2月に、兄の一郎から軽井沢で別荘を計画している友人がいるので、相談に乗ってくれないかと、話があった。

小林薫という、俳優と同姓同名だが、別人だ。

住まいの浦和まで、雅弥は瑞季を同伴して、打合せに行った。
雅弥は相変わらずM3に乗っている。

瑞季「所長、M3凄いですね。6発ですか、シルキーシックス…いい音してますね。」

雅弥「ああ、瑞季ちゃん、クルマ好きなの?」

瑞季「そうなんです、実は通勤用ともう一台あるんです。」

雅弥「なに、スポーツカー?」

瑞季「はい、ロードスター NAなんです、8年落ちで買ったんです」

雅弥「そうなんだ、良いね、今度乗っておいでよ。」

瑞季「いいんですか?事務所へそれで行って?」

雅弥「全然、構わないから。」

瑞季「嬉しい。所長さん、話分かりまね。」

雅弥「はー… 。」

どうも、瑞季の実家は、会津若松の造り酒屋で、そこの長女で、お嬢様らしい。
その帰路の会話。

瑞季「実は、実家で今度店舗を改装したいと言ってまして、うちで出来ないかと言ってるんですよ。」

雅弥「はい、良いですよ。今度行きましょ。」

瑞季「わーあ、ついでに帰省できますね。」

雅弥「そうですね。良いですよ。」

瑞季「わー、所長さん、優しい。」

どうも瑞季は前任者の久美子とは正反対の、明るい性格のようだ、戸惑う雅弥。この手の若い女性は、若干苦手である。こちらのペースを読まないし、合わせようともしないからだが…。

瑞季の実家の造り酒屋は、会津若松市内では無く、磐梯山の西にあった。

工場は大きく、その一角に、見学・試飲・売店を計画することになった。

流石に、瑞季に担当は厳しいので、柴チーフを担当にした。

由佳は、瑞季が入所して、実は一番喜んでいるかもしれない。

瑞季の明るさは、事務所の雰囲気を変えていってる。そして何よりも、あの明るさは、雅弥が苦手なタイプなので、手を出さないと思う。

この頃になると、雅弥の好みとそうじゃないタイプが明確に分かる。

好きなタイプは、美人で少し陰があるタイプで、手が出ないタイプは、明るくて可愛いタイプである。

だから、瑞季は後者の安パイである。

由佳「瑞季ちゃん、どう、慣れた?」

瑞季「はい、みなさん、いい方ばかりで。」

由佳「そう、良かった。所長に苛められたら、わたしに言いなさいよ、味方だからね。」

瑞季「わー、嬉しい。よろしくお願いします!」

由佳、瑞季の応対を見て、これなら安心だと確信した。

軽井沢別荘は7月に着工した。
高原の冬は基礎工事は出来ないので、夏から秋に掛けて基礎工事と躯体工事は、片付けたい。

雅弥「瑞季ちゃん、小林邸はどう?順調?」

瑞季「そうですね、9月には上棟の予定です。」

雅弥「じゃー、雪が降る前に、屋根と外壁はできるね。」

瑞季「はい、頑張ります。」

雅弥「頑張るのは君じゃ無く、現場だろう。」

瑞季「はい、今度現場行くとき、自分のクルマで行っていいですか?」

雅弥「ああ、ロードスター?」

瑞季、頷く。

雅弥「じゃー、僕も一度くらいは、現場見に行くか。瑞季ちゃんのロードスターにも乗りたいし」

瑞季「所長、良いんですか?奥さんに、聞かなくて…」

雅弥「…」

段段、雅弥の悪い癖の毒気は抜かれているようだ。

会津若松の瑞季の実家の栄泉の店舗改装工事もスタートした。
担当は柴だが、瑞季も帰省がてら同行したいというので、3人で行くことになる。
事務所のオデッセイに3人乗って、磐越自動車道を行く。

雅弥「瑞季ちゃんも、大分うちの事務所に慣れたね」

柴「最近じゃ、結のこと、アゴで使ってますよ」

瑞季「いやだ、そんなことありません」

雅弥「それくらいで、ちょうどいいのよ、結は伸びしろが大きっ~から」

これが、1999年10月の出来事だった。

24.夫婦別の寝室

会津若松の瑞季の実家の店舗改装工事へ向かう、車中の会話。

雅弥「ところで、瑞季ちゃん、自邸はどうなってる。改装案出来た…」

瑞季「所長、それですが、あの、奥さんと良く話し合って、纏めて欲しいんですけど、二人から別々の事、言われても、あたし、困ります…」

雅弥「えっ、由佳が何言ったの?」

瑞季「昨日来て、キッチンはオープンにして、シンクとレンジは、アイランドにしてって…」

雅弥「聞いてないな。そうなんだ…」

瑞季「それじゃ、相談してくださいね。プランニングはそれからで..」

雅弥「他に何か言ってた…」

瑞季「ああ、寝室は別々に2室欲しいって…」

雅弥「えっ、ホント…」

瑞季「所長、大丈夫なんですか?お二人の仲?あたし、心配です…」

雅弥「…」

瑞季「離婚寸前で、家でも建てないと、夫婦仲が持たないので、しょうが無く建てるカップルも居ると聞いたことがありますが、所長さん達はまさか、そうじゃないですよね…」

雅弥「…馬鹿な…そんなこと、有るわけ無いだろう…」

と言ってはみたが雅弥は最近、由佳との会話が減っているとは、気づいていたが、まさかそこまでだったことに、ショックを受けていた。

どうもここ数年、妻や子供達を構わなかっツケが回ってきているようだ。
帰ったら、早速確認しないと。

翌日の夜。松代の自宅のダイニング・キッチンで、由佳は食器を洗っている。
雅弥「吉瀬の自邸だけど、キッチンはオープンが良いって?」

由佳「そう、お客様を接待できるように、したいの。その時に背中向けて調理してたら、不味いでしょ…」

雅弥「確かに…」

由佳「それと瑞季ちゃんに、寝室は2つでねって頼みました…」

雅弥「ツインでいいんじゃないの?」

由佳「だって、あなたのいびき五月蠅いんですもの…私が眠れないのしらないでしょ…」

雅弥「…」

結局、寝室は2つ。セミダブルとシングルになった。

二人目の子供もお腹におり、来年7月に出産予定だ。

産婦人科医で超音波検査して、女の子だと言われた。

雅弥が自邸を新築ではなく、古民家を改装しようとするのは、実は戦略的判断だった。

この地域には、江戸時代から延々と茅葺きの民家が多く建てられ、今では茅葺きから金属屋根へ葺き替えられているが、その間取りや冬の住環境の悪さから、取り壊されて新しい住宅へ建て替えられるケースが多い。

それは、改修出来ない、新築の方が安く出来ると建設業者や工務店に言われて、しょうがなく、廃棄されている。

だから、古民家の改修工事がコストや高断熱・高気密などの性能を担保して出来れば、その需要は十分あると、雅弥は見ている。

これが、1999年10月の出来事だった。

25. ロードバイクへの道

2001年当時、その店はつくば市竹園1丁目にあった。つくば市の中心部に近く、近所には大清水公園や竹園公園もあり、環境は良かった。

ロックシンガー 忌野清志郎がそこで「オレンジ号」というオーダーメイドのロードバイクを作ったことで、有名なスポーツバイクショップだった。TVにも登場したし、本にも記事が何回か出ている。

スポーツバイクマツナガ

雅弥は、何処かでそれを知った。

HPかもしれない。元々自転車には、興味があったし、長距離を黙々と走るそのストイックさが、魅力だった。

多分、北海道の地平線までまっすぐに伸びる路を、ロードバイクで黙々と進んで行くシーンを思い描いていたのかもしれない。

そんな事を由佳に言ったことも無いし、唯心の中で、想像していただけかもしれない。

ロードバイクに乗るメリットを3つ上げるとすれば、
1.健康維持・心身強固
2.精神的に安定する
3.仲間や友人関係が広がる

だと思う。その理由は後で説明するが、今日は経過について書きます。

健康や体型を維持していくのは、それなりに運動習慣を身につけ、努力する必要がある年頃だと自覚した。そういう意味で、有酸素運動のロードバイクは最適だった。
この頃同じ設計事務所で働く友人達が肥満して、色々な成人病を患う様になってきたのが気になっていた。明らかに不規則な生活や座りっぱなしの職業が原因なのは、明かだった。

ふと、仕事の切れ目が出来た、土曜日の午後、その店の前を通り、唯なんとなく、その店へ入ったことが、雅弥の人生を大きく変えるとは、雅弥本人も思っていなかった。

その店の中は、自転車のパーツで埋め尽くされていた。

フレーム、ホィール、ハンドル、サドル、ブレーキ、ギア等々、1台の自転車を構成する全てのパーツがそこにある。

ある意味、そういうパーツの構成体が1台のロードバイクになることが、魅力だった。

建築も同じだが。ロードバイクが魅力的な理由はいくつもあるが、最初のチャームポイントはそこだった。

それまで、雅弥はスキーやトレッキング、登山をやってきたが、どうもそのやれる場所への遠距離移動がネックだった。

3時間、6時間移動して、3時間、6時間遊んで、また3時間、6時間掛けて帰る。そうじゃなく、自宅を出たら直ぐ、それに没入できるそんなスポーツを探していた。

それには、ロードバイクはぴったりだった。

それに、大体、それ自体は文句を言わないのが良い。

人は直ぐ文句を言う。「それは嫌い」「それじゃ、駄目」、「それはイヤ。」等々...

集中できる、結果が直ぐに出る。マイペースで出来る。

一人でも、集団でも出来る。それは、ロードバイクだった。

ただ、最初は訳も分からず、適当な店に入り、10万でアルミの完成品を購入したが、走行会へ行き、集団で走ると、必ず上り坂で置いて行かれた。

流石に、帰宅すると疲労で2^3時間は泥のように爆睡した。全身に血流が巡るのが分かった。それも半年もすると、平気になったが…。

そして、走ると憂鬱な気持ちは、無くなった。これは大きかった。体を動かす事で、アドレナリンのようなホルモンが出て、気分は一層されるし、走っているときはそれ自体に集中し、嫌なことや心配なことは、何処かに消えて無くなる。

他の人のバイクをよく観察すると、やはり自重の軽いカーボン製のフレームだった

ある程度、投資しないとその楽しみは得られないことが分かった。

そのうち、日曜日になると自転車で出かける雅弥を見て、由佳も一緒に行きたいと言い出した。

流石に、自転車に乗って、浮気に行っているとは思わなかっただろが、なんでそんなに毎週一人で出かけるのか不思議だったし、興味もあった。

彼女も、また安価なクロスバイクを買い、雅弥と一緒に近所へ走りに出掛けた。

つくば周辺は、高低差が少なく、平坦な道が多い。

その昔、土浦から筑波山の西を回り水戸線の岩瀬まで、私鉄の筑波鉄道筑波線が走っていた。

数十年前に廃線になり、その跡地は、今サイクリングロードになっている。

大体、この近辺のローダーは自転車を始めるとそこへ走りに行く。二人もそうだった。

最初は、岩瀬までたどり着けなかった。途中の旧筑波駅で引き返した。

次は、真壁、雨引、そして岩瀬と、段段距離を伸ばした。

走り込むと、やはり自転車の重さが気になった。

軽いと坂が楽だ。カーボン製のフレームは漕ぐとしなる。

しなりは、前進力に変換される。

クロモリやアルミはそうはならない。当時カーボン製のフレームは高価だった。最低でも30はした。

だから、趣味のそれにおいそれとは投資できない。が、周囲が次々とカーボンフレームになって行くのを黙って見ている訳はなかった。

そして、仕事も順調で、少し余裕が出来てきたことも、良かった。

自転車を始めて4年目にまず由佳がマツナガでオーダーメイドのロードバイクを作った。カーボン製で、ラグと呼ばれる接合部はクロモリという鋼材で構成される。その人体に合わせて造るので、フィッティングは完璧で、体の故障はまづ出ない、優れものである。

カラーは化粧品の包装色と同じにしたので、ソフィーナブルーと呼ばれた。

雅弥も次に3台目となるフルカーボンフレームを購入。TIMEというフランスのメイカーの既製品だった。高価なので、周囲から揶揄を込めて「おタイム様」と呼ばれるフレームだった。

それが、2001年9月の出来事だった。

26.夫婦(めおと)サイクリスト誕生

由佳は、雅弥がロードバイクを買うと言った時に、驚いた。クルマとかスポーツカーを買うだったら、別に驚かなかったが…ロードバイクって…。

出会って、付き合いだし、結婚してから、今まで、ロードバイクなんて言葉は一度も、雅弥の口から聞いたことは無かったからだ。

そもそも、ロードバイクって何?自転車じゃないの?エンジンが付いているの?全然、イメージが湧かなかった。

忌野清志郎が乗っているあれだよ。

と言われ、記憶の片隅にある、派手な自転車が漸くイメージとして湧き上がっきた。

どうせ、三日坊主で直ぐに飽きるだろうと、買って良いかと聞かれたので、良いわよと返事したままだった。

暫くして、雅弥がロードバイクを自宅へ持って帰って来た。

自転車だけで無く、レーパンとか、ヘルメットなど、小物も多かった。

へー、といい物珍しさもあり、色々聞くと、雅弥は得意げに、色々と教えてくれた。

まー、女に熱を上げるならこっちの方が、安心だし安い投資だ、位にしか考えていなかった、その時は。

だから、最初はほっておいた。どうせそのうちに飽きるだろうから..。

だが、最初は自宅の周りや、つくばサイクリングロードへ行っていたのが、旧筑波駅跡へいったとか、ショップの走行会で走ってきたとか、言い出したので、驚いた。

で、その話を食事の時に、嬉しそうに話す段になって、自分の予想が外れたことを、悟った。

由佳「何がそんなに面白いの?」

雅弥「気持ち良いんだよ。走っていると、それに集中して、他の事は何も考えなくなるんだ。」と嬉しそうに話す顔を見て、

由佳「へー。」

雅弥「まー、走らないと分かんないと思うよ。」

確かに、そうだろうとは、思った。

走ってきた後は、ドロのように爆睡している雅弥に毛布を掛けることが多くなってきた。
変化はそれだけでは、無かった。

雅弥の体が変化してきたのだ、特に下半身の筋肉量が増えて、太ももも太くなってきた。

勿論、夜の生活で、それは念入りにチェックした。

さらに、持続力が付いてきた。明らかに、以前よりも長く愛してくれるのだ、それは嬉しかったし、もっと、もっと、とお願いした。

それで、興味が湧き、一度走行会に行くとき、送るからと見学に行った。

マツナガの隣の空き地に早朝から20人くらいは、集まっていた。

驚いたことに、女性も2^3人居たので、話をした。

やり始めて数年という人から数ヶ月という人もいたが、皆健康的だったし、綺麗だった。

そう、普通のお化粧をして綺麗、と言うのでは無く、健康的な綺麗さだった。

彼女達を見て、自分でも出来そうかなと、聞いてみた。

カルメロ「面白いわよ。簡単だし、スタイルも維持できるし。有酸素運動なの。」

メジ「来週から来て、一緒に走ろう」

コジタン「今ね、マツナガさんにオーダーバイク頼んでいるの?来月出来るの。楽しみ。」

と異口同音に、面白、楽しいと、連発する。

そこまで、言われると自分でも出来そうかと、高校までは陸上をやっていたので、多分出来るかとは思いつつ、翌週、まーちゃん、と一緒にマツナガへ行き。

買っちゃいました、ロードバイク。最初なんで、まーちゃん、より高いのは、買えないので、それなりに…でも、後で後悔することに….

どうも、体と自転車のサイズが合わないと、体が故障したり、痛くなるらしく。買う前に、体の測定をしました。マツナガさんが、自転車のフィッテイング用バイクに座るわたしのあちこち採寸をしました。

2週後のフィッテイングは時間を掛けて行なわれました。

シューズは最初は、普通のランニング用シューズで、慣れたら専用のビンディングシューズにと言われました。

ヘルメット、ウエア、ビブショーツというタイツは、勿論サイズとデザイン、特に色に拘りました。

ブルー系が好きな色なので、それで統一。

まーちゃん、は横で見てました。

家に帰り、ビブショーツを試着していたら、まーちゃん、どうも、ムラムラ来たようで、それで一戦交えました。

きゃはは。早速、効果が現れたようで、良かったです。

それが、2002年4月の出来事だった。

27(最終話).夫婦円満サイクリスト達

雅弥と由佳の夫婦(めおと)サイクリストは、毎週末のショップの走行会へ揃って参加するようになった。

当時は、夫婦で自転車に乗るペアは珍しく、雅弥達以外では1組しかいなかった。

だから二人は目立ち、夫婦(めおと)サイクリストと呼ばれた。

ショップの走行会には、3クラスがあり、最初は距離が一番短いビギナーコースに参加した。

距離は市内近郊の20km程度、9時に出て、12時過ぎには戻るコースを走る。

走る道は、全て自動車の通らない裏道か農道の狭い舗装道であり車との接触は殆ど無い道を選んでいた。だから事故はほぼないし、その後十数年間転んだは、自分で立ちゴケした場合の数回だけだった。

自転車は単独で走るよりも、集団で走った方が、有利なことが多い。

第一に、集団で走ると風の抵抗が減り、走れる距離が長くなる。

第二に、他の人の走りを見て、勉強できるし、教えて貰える。アドバイスも貰える。

第三、他のサイクリストと知り合いになれて、友人・知人が増える。

デメリットは、そう人間関係が複雑になる、そのトラブルが発生するケースも出る。

でも、圧倒的にメリットが大きい。

最初は、2,3時間しか走れなかった二人は、徐々に距離を伸ばしていく。

やがて1日掛けて霞ヶ浦一周や筑波山系一周も出来る様になる。

そうすると、徐々に体も変わるし、精神衛生上も良いことが多いと気が付く。それまで、メンタル的に弱いところがあったのが、前向きに仕事や物事に取り組むことが出来る様になった。

が、好事多魔の故事の通り、色々トラブルになりそうな、こともあった。

が、そこは由香、横からフォローし、触手を伸ばす女達から、旦那を躱して無難に切り抜ける術を身につけていた。

それにしても、一番驚いたのは、体の変化である。

雅弥と由佳の体は、徐々に無駄な脂肪が少なくなり、それに代わり筋肉が増えていった。

雅弥の太ももは、由佳のウエストに近くなり、由佳のウエストは、細くなり、独身時代へのそれに戻った。

体のケアの為、走行後お互いの体をマッサージするのが、定例になり、それもトレーナーに学んだ。

どこを押さえるのか、壺はどこか。だから念入りに揉みほぐすと翌日は、何事も無いが、マッサージをやらなかったり、手を抜くと、てきめんに筋肉通やこわばりが出た。

但しこれも、問題と言うか、いろいろあった。

特に太ももの大腰筋やハムストリングを入念に、マッサージをすると、雅弥の息子が大きくなり、由佳の花弁は濡れ始めた。そうなると、2時間は別な行為へと移行することになった。

やれやれ。

だが、好事多魔である。

2011年3月の東日本大震災で、福島第1原発の放射能漏れにより、野外スポーツは自粛ムードになり、3月から半年は、走れなかった。

それが、きっかけで、二人の第1次自転車ブームは終焉した。

それにしても、多少の事はあったが、自転車に乗るようになって雅弥の浮気性は鳴りを潜め、平穏な日々が続いている。

事務所での瑞季の存在は大きいかもしれない。
前任者の久美子は台風の目だったが、瑞季は大陸性高気圧で、穏やかな日々をもたらした。

しばらく、いやずっとこのインディアンサマーが続くことを由佳は祈っている。


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