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[恋愛小説]1978年の恋人たち.../全話(1~17話)

初めて書いた恋愛小説「1978年の恋人たち」の全話(第1~17話)を纏めたものです。
「1981年の甘い生活」「1989年の憂鬱」の前編になります。
主人公の福野優樹、水原美愛の恋の行方を描いています。
優樹は優柔不断な性格ですが、現実的な考え方の美愛の影響で変わって行く姿を軸に、物語は進んで行きます。
時代は、バブル前夜の1978年から始まります。今とは違う、東京や神奈川・茨城を舞台に、二人の恋の行方を描きます。全17話を纏めています。
(約24,000文字)


1/南台の朝


福野優樹は、初めてその部屋で目覚めた。

朝日が東側の窓から差してきたが、まだ3月中旬の朝は寒く、ベットから抜け出してガスストーブにマッチで火をつけた。

以前住んでいた八王子の下宿部屋とは違い、その部屋にはすがすがしい気配があった。
それは、何か希望を感じるものなのか、期待出来るものなのか分からなかったが…。
その部屋は東側の窓から朝日が差し込んでいた。
それまでの部屋は西向きで夕日しか差し込まなかったから、朝日が新鮮だったからかもしれない。

昨晩、優樹はその窓から西新宿の超高層ビル群の航空警告灯が点滅する光景を暫く見ていた。

朝食は昨日、新宿の高野フルーツパーラーで買った、ブルガリアのラズベリージャムをフランスパンにつけて食べた。
それだけなのに、今まで食べたことの無い新鮮な味がして、心が弾んだ。
単にラズベリージャムとパンなのに。

住む場所が違うだけで、こうも気分が違うものなのか。建築を学んでいるのに、そんなことに初めて気がついた。

ここは、中野区南台…今までの八王子市郊外とは、まるで違う環境に正直戸惑いと期待が交差している。

優樹が通っている工科大学は1,2年生は八王子校舎で、3,4年生は西新宿校舎でと分かれていた。
そして、追試で辛うじて3年になった優樹は、昨日八王子から中野区南台のアパートへと引っ越してきた。
建築学科の学生なので、A1サイズの製図台、本棚、ベット、自転車があるくらいで、引っ越しトラックの荷台は殆ど空気を乗せて、中央高速八王子ICから高井戸ICまでを40分で移動してきた。

トラックの助手席で、窓の外の段々と家並みの密度が濃くなる景色を眺めなが、何か期待するものがあった。
が、それがどんな期待なのかはまだ分からなかった。
それまでの、八王子郊外は、地元茨城の環境とさほど変わらなかった。
東京都都下とは、言え近所には雑木林や小川があり、ある意味茨城より自然溢れる環境だったが、まだ21歳の自分には単に田舎というだけだった。

今度の南台のアパートは、西新宿校舎へ通うには、便利だった。
電車は私鉄の駅から3つ目で行けたし、地下鉄駅も7、8分だった。
近所のバス停からなら、30分掛からなかった。
自転車でもその位で行けた。利便性は抜群だった。
近所にはこぢんまりとしているが、親密な商店街もあり、青果店、魚屋、惣菜店など一通り店を構えていた。
銭湯も6軒先にあり、生活するには便利そうだった。

そのアパートの名前は桃花荘といった。


2/桃花荘


実は桃花荘に引っ越してきたのは、2月中旬だったが、一晩だけ泊まって、茨城の実家に帰っていた。

バレンタインにお手製の特大チョコレートをくれた恋人の水原美愛(みえ)がいたので、いそいそと帰省したが、別なところで大事件が勃発し、約1ヶ月間のブランクが出来てしまった。

美愛については、いずれ触れるが、今回は南台に住もうと決めた経緯と訳を書こうと思う。
3年に進級できると決まった2月中旬に、八王子と新宿を結ぶ京王線沿線で新しい住処を探した。
新宿からそんなに遠くない、明大前駅の不動産に飛び込みで入り、条件を話すと、3つ程物件を紹介してくれた。
話を聞いていると、「この物件は駅から少し遠いけど、良いですよ」と勧めてきたのが、南台だった。
駅は、2つほど新宿よりの笹塚駅で、そこから不動産の足で15分だと言う。部屋は、6畳、3畳、に簡単な流しが付いて、今の賄い付きの家賃と同額だった。
彼とそれを見に行くことになった。
駅から歩く彼の足は早かった。不動産屋のいう最寄り駅からの時間とは、その速さなのだと初めて知った。

15分間の急ぎ足で、ようやく着いたアパートは桃花荘と言った。
大家の前を通りその隣にあり、気の良いおばあちゃんが対応してくれた。
案内された部屋は2階の南側に面していて、6帖の他に3畳の二間は、A0サイズの製図台があるので、少しでも広い部屋は良かった。
何より、南側と東側に面しており、大きな落葉樹が東南の角に有り、枝振りは広く、南の窓の過半を占領していた。
葉が茂る頃なら、窓は殆ど覆い隠れそうな様子である。

それに東側の窓から、西新宿の超高層ビル群が見えるのは、驚いた。
その部屋に決めたのは、それも大きかったと思う。
今なら南台から超高層ビル群は見えないと思う。
しかし1978年当時はまだ低層の住宅しか無く、夜はそれらの屋上で点滅する航空機警告灯が綺麗に見えた。
そうして、3年住むことになった。
後で分かるのだが、優樹の前の住人は、赤ちゃんのいる若い夫婦だった。

住むのが1ヶ月遅れた訳は、優樹が地元のT大学構内で、起こした事故で入院していたからだ。
優樹の運転するマークⅡは大破して全損だった。
優樹の額には、ルームミラーで切った傷が出来、白い包帯が巻かれていた。

二日後歩けるようになり、病院から美愛に電話をすると、彼女は直ぐに病院に飛んできた。優樹の顔を見るなり、安心したのか泣き始めた。
「心配したんだから…。」としゃくり上げながら言う美愛を見て今まで以上に愛しく思った。
事故を起こしたことで、「暫く運転でき無いな。」と優樹が言うと、
「そんな事、良いから。」と美愛が涙目で返事をした。

それが1978年2月下旬の出来事だった。

3/遠距離恋愛


1978年の春に、優樹は中野区南台の桃花荘から西新宿校舎へ通い始めた。

建築学科の3年は、4つの選択コースのどれかを選ぶかが重要だった。
その選択は自分の将来の専門性や職場を選ぶことに繋がり、慎重に成ざる得なかった。

4つのコースは、計画系、構造系、生産系、設備系だった。
計画系は、設計がメインで建築家を目指す、もしくは設計事務所に就職するならこれだった。
構造計画の追試を受けていた自分に構造系はあり得ないし、現場監督育成が目的の生産系も関心は無い、ただ環境工学の成績が良かったので設備系の授業も選択していた。

それでも、計画系の授業は真面目に出席していたが、全授業を受講してはいなかった。

水原美愛(ミエ)とは、昨年の秋に日立・大甕にあるカトリック系短大の文化祭で知り合った。
それからは長い文面の手紙のやり取りと長電話、そして時々デートで会う、いわゆる遠距離恋愛中だった。
例の事故の後暫く自宅で大人しくしていたが、三月に入ると観梅の終わった水戸の公園や隣町の喫茶店でデートをしていた。
そんな時に、彼女は装いには気を遣っていたようだった、いつ見ても綺麗なブラウスやスカートを身に付けていた。

美愛は3月に短大を卒業し地元の銀行に就職したのでそれ以降日曜日にしか、会えなかった。
5月の連休には、彼女が東京に来ることになった。

その日、新宿西口の地下広場で待ち合わせし、西新宿の超高層ビルの三井ビルのサンクガーデンへ行った。そこは二人のデートのお気に入り場所で、野外のテーブルで何時間も二人でお喋りをしていた。
そして、それに飽きると東口をウィンドウショッピングしたり、スピルバーグの「未知との遭遇」を見たりした。
南台の桃花荘にもたまに行くというパターンだった。
美愛が帰る時間になると、優樹は上野駅の常磐線の始発ホームまで見送りに行った。さすがに短い逢瀬の別れは辛かった。
又これで2、3週間、お互いの顔を見られないと思うと切ない気持ちがこみ上げてきた。
優樹は山手線の上野から新宿までの記憶は無く、いつの間にか桃花荘の自分の部屋に戻っていた。

6月末に、「小学校」が課題の設計製図演習の提出があり、中旬から部屋に籠もり製図板に向き合っていた。1,2年次の課題の点数は60から70点で、今回は80点を狙っていた。
エスキースも進み、そろそろ本チャンのインキングをするタイミングで、彼女がアパートに来た。

その前の週に電話で
「課題で忙しいから、そんなに相手も出来ないよ。」と優樹が言う。
「私編み物しているから。」と美愛。
美愛は部屋に来ることで、応援するつもりなのだろう。優樹は渋々同意したが、美愛が傍に居れば、気が散るので余り乗り気ではなかった。

美愛が部屋に来たとき、優樹は明け方まで図面を描いていたので、ベットで仮眠していた。
美愛は「良いわよ、そのまま寝ていて」と言うが、
優樹はごそごそと起き出してきた。
美愛「どう調子は?」
優樹「まー、進んでいるが、遅れ気味。」と無愛想に返事をする。
応援する気持ちで来たのだと思うが、優樹には焦る気持ちもあり、眠い目をこすり、製図板に向かう。

美愛は、手提げバックから編み物を持ち出して、編み始める。
暫く二人は黙って作業に集中する。
美愛「コーヒー入れる?豆は何処?」
優樹「冷蔵庫。コーヒーメイカーの使い方分かる?」
美愛「大丈夫。」
二人、黙って出来たコーヒーを飲む。
優樹が美愛の後ろから、いきなり抱きつき、キスをしようとする。
美愛は驚きながらも、唇を許す。
さらに優樹が美愛の胸に手を伸ばそうとする。
美愛「止めて。」
優樹「…。」それでも、続けようとする。
美愛「止めてって。」

優樹「こうなるから、来るんじゃないと言ったんだ。もう帰れば。」
優樹の言葉を聞いた彼女は、黙って編み物を仕舞うと、気まずい雰囲気のまま部屋を出て行った。
優樹は、さっきまで美愛が座っていた場所を見ていた。

優樹には建築だけで無く、女性の気持ちを深く理解しようとする能力も姿勢も不足していた。


4/西新宿の超高層ビル群と彼らの事情


1978年の西新宿の超高層ビル群はまだ数棟で、一つ一つの個性が際だっていたし、それらの間には、まだ空が広がっており、一つひとつのビルが遠くからでもよく分かった。

建設順から、京王プラザホテル、住友ビル、KDDビル、三井ビル、安田火災海上本社ビル(現:損保ジャパン本社ビル)、野村ビルで、1978年には、新宿センタービルが建設中だった。都庁が出来るのは、それから10年後である。
優樹の通う工科大学は、西新宿再開の以前の淀橋浄水所があったころからあった。
だから、それらとの間には、何か壁があったように感じられた。そして大学自体が超高層ビルになるのは、それから20年後である。

それらの超高層ビルに同級生たちと食事に行くこともたまにあったし、恋人の美愛とデートで行くこともあった。

超高層ビルのひとつの三井ビルとその下にあるサンクガーデンは優樹のお気に入りで、野外のテーブルで美愛と二人でのんびりデートを楽しんだ小さな公園だが、公園と言うよりPlazaという言い方が似合う場所だった。
このサンクガーデンでは、筑波大の先生が率いる芸能山城組が、夏にケチャ祭りを開くことでも有名だった。
優樹は、建築デザイン系の学生だからか、この三井ビルの外観が好きだった。ミース・ファンデル・ローエのシカゴ・シーグラムビルに似ている外観は、他の超高層ビルの数倍、格好良かった。

中には何でこんなデザイン何だと思うものもあったが、それが自分の趣味のせいなのか、世の中の理なのかな、分からなかった。

6月末に「小学校」の課題提出も終わり、ひと段落して落ち着いたが、美愛との関係は、彼女との気まずい別れてから、電話もせず、宙に浮いていた。

あれから優樹は、悩んでいた。

どうしてあんな行動をとってしまったのか。
自分の身勝手さと美愛への思いやりのなさに、我ながら嫌気が差した。

そんな時に、同じ研究室の汐川という同級生と話していたら、結婚を約束している彼女と付き合っていると言う。
卒業して故郷の札幌に帰ったら結婚するという。
同じ歳なのに、自分と余りに考え方が違うので驚いたが、よく話しを聞くとそこまで考えて行動している汐川に尊敬の念さえ湧いてきた。

「それで良いの?」と尋ねると、「自分には過ぎた彼女だから。」と言う。
それは、自分にとっての美愛も同じだろうと思った。

そうか、これから先、美愛のような娘に出会えるとは限らない。

大体これまで自分の事しか考えてこなかった。先日の件だって、自分の身勝手が原因だし、彼女にすまないと思う気持ちが募ってきた。

取り敢えず、電話で謝ろうと、思い切って公衆電話から彼女の家に電話を掛けた。
暫くして、電話口に出た彼女は、言葉も少なく、会話は進まなかった。やがて涙声が聞こえてきた。

優樹「ごめんよ、僕がわるかった。」
美愛「….」
優樹「また、会ってくれる?」
美愛「…うん。」

一方美愛には、優樹に言えない事情があった。美愛が今勤めている銀行から内定を貰った時に、念書の提出が内定の条件だった。
その念書には、二つの条件があった。一つは結婚したら退職すること。または34歳に成ったら退職すること。

だから美愛にとり、優樹が彼女との付き合いをどのくらい真剣に考えているのか、どうかは彼女の人生を左右する重要な事柄だった。

男女雇用機会均等法が施行されるのは、それから8年後の1986年だった。
若い女性が、一人で生きていくのは、まだまだ大変な時代だった。

だから、優樹と付き合い始めてから、彼が本当に自分のことを大切にしてくれるのか?信頼に足るパートナーに成れるのかを、慎重に見ているところはあった。
だから、前回の優樹の態度は、今までの期待を裏切るものであった。

将来の約束も無く、最後の一線を許すつもりは、無かったし、そんな軽い気持ちで、優樹と付き合うつもりも無かった。

正直、このまま、連絡が無ければ、それはそれでしょうがないという気持ちもあった。

そんな時に、優樹からの電話があった。少し気が緩んで、涙ぐんだが、次のデートであの態度を反省してなければ、別れを告げようと思っていた。

次回の待ち合わせは二人の住む場所の中間になる常磐線、取手駅になった。

5/二人の決意


次の日曜日、優樹と美愛は、取手駅改札口で待ち合わせし、利根川の堤防に向かって歩いていた。
二人の会話は進まない、押し黙って土手の上の道に上る。

梅雨の合間の晴れ間の、青空が二人の上に広がっていた。
天気も良いせいか、堤防上の道は、散歩する人、ランニングする人が多く、下のグラウンドからは、草野球の声も聞こえる。

優樹が話し始める。
「この間は僕がわるかった。あれから、よく考えたんだ。」

美愛「何を?」

優樹「後2年したら、僕も就職するし、そしたら一緒になろう。」

美愛、驚いて、歩みを止める。

美愛「一緒になるって?」

優樹「結婚しよう。」

美愛「…。そんな急に言われても…。」

優樹「まだ学生だから直ぐには無理だけど。卒業したら。」

美愛「…。」

優樹「今度、ご両親にご挨拶に行くよ。」

美愛「…。」

美絵は、立ち止まり涙ぐんでた。優樹にはそう見えた。

6月末の気まずい別れから、優樹はそれまでの自分の身勝手さと連絡する事に躊躇していた自分を恥じた。
そこで初めて彼女の気持ちを考えた。
美愛は何故自分と付き合っているのか?
どんな気持ちで東京まで逢いに来るのか?
そんなことさえ、気づかなかった、考えなかった自分の愚かさを呪いたかった。
美愛には「結婚しよう。」と言ったが、本当はプロとして自信が付いてから結婚と考えていた。
が、それが逆でも、良いかなと思い始めていた。

優樹は美愛と初めて会ったときに、不思議なことに、自分はこの娘と一緒に成るような、予感がした。
それまで付き合ったガールフレンド達にそんな気はおきなかったで、不思議だった。だが、今ではそれを受け入れようとしていた。

問題は、それぞれの親への説得だろう。半人前の自分たちが、そんなに簡単に結婚を許してもらえるとは、思えなかった。
だが、少しずつ進んで行くしか無い。それが、二人にとって、困難な道だとしてもだ。
二人は堤防を歩いたあと、駅前の喫茶店で、これからのことを話し合った。

美愛は、急に結婚という言葉を言い出した優樹の変化に驚いたが、彼がそういうなら、それはそれで良いと思った。元から彼には好意以上の気持ちがあったし、初めてキスした相手と、結婚しても良いと思った。
中学、高校、短大とミッション系の女子学校だったから、男子には縁が無かった。だから今までボーイフレンドと呼べる付き合いも無かった。
優樹と付き合いだし、2度目のデートでエレベーターに二人きりに成った時に、抱かれて唇を合わせたのが、ファーストキスだった。余りに突然で、驚いて緊張してしまった。エレベーターが1階に着いて、ドアが開いても歩くことが出来なかった。
だから、優樹がこれから変わり、自分を大切にし守ってくれるなら、彼に賭けても良いと思った。
両親にきちんと挨拶して、これから真剣に付き合ってくれるなら、自分も彼を守って同じ道を歩んで行きたいと思った。

それが1978年7月上旬の出来事だった。


6/横浜・ホテルニューグランド



外は夏の直射日光が厳しいが、現場事務所の製図室のクーラーの効いた部屋は快適だった。

同じ研究室の有村昌が紹介してくれた、小田急線新百合ヶ丘駅前の土地区画整理事務所のバイトは、基本計画図の色塗りだが、涼しい部屋での作業というだけで、良かった。
1978年頃、今のようにエアコンは普及していなかった。
家庭にも1台あれば、良い方で、優樹の部屋にも勿論無かった。
だから日中、涼しい部屋でバイトが出来るのは、嬉しかった。

計画図の色塗りをしながら、優樹は昨日の事を思い出していた。
案の定、美愛のご両親へのご挨拶は、余り歓迎されて無かった。
特に木工所を経営する父親は無愛想な対応だったし、母親とは、二言三言の会話で、その内容も余り記憶に無い。
脇で、美愛は心配そうに、時々援護射撃をしてくれるのだが。
最後は「又来ます」と言って、ほうほうの体で逃げ帰るように美愛の家を出た。今思い出しても、冷や汗がでる。

9月には、優樹の実家に、美愛を連れていく番だった。
事前に母親には、事情を説明し、頑固な父親に、下話を頼んではいたが、旨く行く確信は無かった。
優樹はやはり、自分達の漠然とした気持ちと将来像だけでは無理だと、美愛の両親への訪問で分かった。
明確な将来像や決意が必要だと、痛感した。

卒業後すぐに結婚ではなく、ある程度社会人としてやっていける目安が付いたら、という風に持って行くのが、上策だろうと考えた。
美愛にも、そう話をした。美愛はどう考えているのか聞いたら、最後は自分たちで決めれば良いのよ、と平然としていた。
やはり、こういう時は、女の方が度胸があるのだ、と優樹は美愛を見直した。

来週は、美愛が湘南に行きたいと言う。
最近、中古のホンダ車を買った美愛は、運転が面白くなってきたようだ。
どうも親に借金をしたらしい、毎月少しずつ返していると言っていた。
事故以来ペーパードライバーの優樹は、茨城から南台の桃花荘まで自動車で来るという、美愛の度胸に驚いた。

7月の末の土曜日の早朝、南台の桃花荘前に、美愛の赤いシビックが止まった。
4時に石岡の家を出て、今着いたという。
まだ常磐自動車道は工事中である。
国道6号、環七を来たと言う。
優樹はいそいそと助手席に乗り込み、道路地図を見始めた。
環七から246,第三京浜を行く、最初は混んでなかったが、戸塚あたりから渋滞が厳しくなる。
それでも10時過ぎには、湘南海岸につく。

水着に着替えた美愛は素敵だった。思わず暫く見とれてしまった。

「何みてんの。」微笑みながら恥ずかしそうに言う美愛。

「いや、別に。」と視線をそらす優樹。

でも日に焼けると言って、素肌を露わにはしないのが、残念だ。
二人で砂浜に座り、たまに水際で膝まで海水に浸かった。
唯それだけで楽しかった。

「予約しておいたね。」優樹が言う。

「有難う。」

「大変だった。お母さんにお願いして、お父さんを説得して貰ったの。」

「大丈夫だったの。」

「お母さんは、分かってくれたけど、お父さんはね、それから話もしないの。」

その晩、優樹が予約していた横浜のホテルニューグランドに泊まった。有名な建築家・渡辺仁が設計した戦前の面影が残る重厚なホテルは、チャップリンや著名人が宿泊したことでも、知られる。優樹は何処かで調べてきたらしい。
初めての夜は、特別な時、特別な場所にし、ふたりの記憶にしたかった。そう優樹は思っていたし、美愛はそんな優樹の優しさが嬉しかった。

部屋に入ると美愛は母親に電話をしていたが、優樹に変われと言う。
電話口の母親は「お願いします。」とだけ言って電話を切った。
美愛「なんて言ってた?」
優樹「特に。」
美愛「ふーん…。」

優樹は、美愛が初めてだったことを、その時知った。バスタオルを下に敷いてほしいと美愛が言う。
終わるとそのピンクの染みが付いたタオルを恥ずかしそうに、洗面所に持って行く美愛がとても愛おしく思えた。

美愛は洗面所でタオルを洗いながら、自分が大きな川を渡ったと思っていた。これで良かったのだろうか。まだ一抹の不安はある。
まだ学生の彼に、今はまだ自分の将来を完全に託すことは出来ない。
でも、自分に結婚しようと言ってくれた、初めての人とこうなった事に将来の幸せを託してみたい。
誰からか言われた幸せでなく、自分たちで選んだ幸せにを二人で進んで行きたい。
彼だけに頼るのではなく、彼に支えて貰いながら、彼を支えながら、これから歩いて行きたいと。

それが、1978年の7月末の出来事だった。


7/優樹の実家にて



美愛を優樹の実家へ、連れて行くのは、9月初旬になった。
8月は盆月だから、駄目だという父親の意向だった。
どこまでも、昔気質の親だった。そんな、親が簡単に、この結婚を認めるとは思えなかったが、そこは乗り越えないと、美愛と一緒になれない。
これも試練だと思った。

優樹の実家は、常磐線で上野駅から1時間強だが、昼間の時間帯の運行本数は1時間に2本しか無かった。
親に会いに行くこの日、いつもの駅は、どこかの知らない駅のように思えた。
通い慣れた実家への道も、美愛と一緒に歩くと、初めてのように感じた。

家に着くと、いつもの和室では無く、応接間と言われていた洋室に通された。
美愛も事故で入院していた時に両親に会ってはいたが、さすがに緊張していた。

優樹はこれからのこと、どうしていきたいのかを両親に話した。
両親は黙って聞いていた。その場では、どうこう言う話は、無かった。

帰る時、玄関での挨拶は、普通だったので、少し安心した。

隣町の喫茶店に二人で行った。緊張が解けた二人は、ほっとするというより、これからのことを考えると、不安にもなった。が、もう二人の道は一つしか無いのだ。

中野区南台の桃花荘に帰り、自宅に電話すると、母親が出た。

母親「あれから、おとうさんと話したけど、やっぱりまだ学生だし、卒業してからに、したら。」と、言われ両親が反対しているのでは無いと分かり、優樹はほっとした。
母親「良い子だと思うよ。優樹にしたら上出来よ。」と言われ、何かこみ上げてきた。
母親「あんたが、しっかりしないとね。」と最後は、締めてきた。

これで、二人の親に将来の話はした、後は自分が社会人になり、一緒暮らせるようになれなければ、と自分の肩に掛かってくるその重さを意識せずにはいられなかった。

これも、後で分かったことだが、母は、20年前に優樹の妹となるはずだった女の子を流産で無くしていた。だから、実の娘のようにも思える美愛にそんなに悪い気持ちは持っていなかった。

それが、1978年9月初旬の出来事だった。


8 /スペイン坂



二人の実家にそれぞれ挨拶に行ってからは、また元の平穏な生活に戻った。両家とも、予想してたよりもきついリアクションは無かったので、ふたりともホットしている。
内心ではいろいろと有るのだろうが、表だって反対されていないので、地道にそれぞれの評価ポイントを積み重ねて行くしか無いとふたり話した。
まっ、それが一番大変なんだが…。

9月になり大学が期末試験を終え、後期に入ると優樹は、研究室の先輩から紹介された設計事務所にバイトに行きだした。
その事務所は、渋谷・道玄坂の途中にあり、授業が終わるとバイトに行った。
初めての設計事務所は緊張もしたが、スタッフたちは親切でいろいろ気を遣ってくれるのが、分かった。
実は、設計事務所という業界も含め、バイトは初めてだった。
大学に入っても、学業優先で良いからと周囲に言われていたので、積極的にしていなかった。
八王子郊外という、足の便が悪い所にいたせいもあると思うが。
それに、美愛との将来を考えると、働く=稼ぐ=美愛との生活 という、3段論法が生活のメインになってきた。
今までの学業優先は実は、生活優先と表裏一体だったと言うことが、初めて実感された。

10日も過ぎたある日、所長が優樹のところに来て、いろいろと質問した。
世間話と思った優樹は、へらへら答えていたが、後でそれが面接試験だったと言われた。
世の中は油断できない事を痛感した。

後期の設計製図の課題は'Mini Plaza'だった。
ハーバード大のDコース出の講師が指導教官となり、難しい課題に取り組む事になった。
通常の課題の敷地は与えられる整形され平坦な条件が一般的だが、今回は実際の敷地を自分で探しだし、その問題点やメリットに対し自分の視点で解決策や提案を盛り込んだ設計をするという、レベルの高い課題だった。

バイト先の先輩に相談すると、宇田川町から東急ハンズへ抜ける近道に面白い坂があると教えてくれた。
車が入れない道路幅で、緩やかな登り坂で最後はクランクカーブで先は見えず、階段になっている道で、細い道の割に人通りは多い。
だが、面する店舗や建物は、その道に関係ないポテンシャルが低い物ばかりだった。
しかも階段を上がった左角には、ラブホテルまであった。
先輩には、ラブホテルの入り口は、こういう角にあると、自然に入りやすいので、それはセオリーだと教えられた。はぁ~。

休みの日に、美愛と二人で、渋谷駅から宇田川町のその坂に行ってみた。登り切った左角には、そのラブホがあった。

それを見た瞬間、美愛に睨まれた。そこへ連れて行かれると思ったらしい。みるみる美愛の顔が不機嫌に変わってきた。

優樹「いやいや、そうじゃないから」と必死に弁解する。

美愛「ふん!」

優樹「東急ハンズで模型材料を見たいんだよ。」

美愛「あら、そう。ほんとかどうか、怪しいもんだわ。私は、公園通りでウインドウショッピングしよう。」

しょうがなく、1時間後渋谷公会堂前で待ち合わせとなる。横浜ホテルニューグランド以来、何故かガードは元の堅さに戻っている。本当に、女心は分からない。

それから、丹下健三先生が設計した代々木体育館を見たいという優樹の希望で、体育館を一周し、代々木公園を歩き、原宿へ行った。

まるで、お上りさんである。と言ったら
美愛「お上りさんの何処が悪いの?」と…。

最近、どうも美愛の方が強気である。というか、その尻に敷かれているようにさえ、感じてきた。おかしいな、こんなはずでは….。と優樹は思っていた。

課題だが、ラブホの敷地に、その坂に関連付けたステージを持つ広場と、スパイラルな構造を持つショップをデザインし、提出した。

講師からは、好評で初めて80点を取り、みんなの前でプレゼンし、講評を受けた。いろいろと質問され、それに対し返答するという体験を初めてし、設計の奥深さを知った。益々設計への興味が増した。

それをきっかけにいよいよデザインの道へ進むことになったが、美愛に説明しても、
「ふーん、そうなんだ。」という返事しか無かった。ここでも、相手に考えていることを伝えるという難しさを痛感している。

ところで、宇田川町の坂は、今スペイン坂と呼ばれ、ラブホテルはwww というライブハウスになっている。

それが、1978年10月下旬の出来事だった。


9/初めてのクリスマス・イブ...



この年の日本シリーズは、ヤクルトスワローズの初優勝で終わった。
優樹はヤクルトスワローズファンなので、神宮球場に2度ほど美愛を連れて行った。
プロ野球を見るのは、初めてだったこともあり、彼女は熱心に観戦していた。ライトスタンドで傘を持ち、東京音頭を歌いながら応援するのが面白くなったようで、又来たいと言っていた。

ナイターの球場に爽やかな風が流れる。だが今日の雰囲気はいつもと違う、リーグ優勝が掛かったこの試合にヤクルトスワローズが勝てば、日本シリーズ進出である。
ヤクルトは試合に勝ち、ファンは喜びの余り、最後はグラウンドまで雪崩れ込んだ。広岡監督が円陣になったファンに挨拶するのを、聞きながら。
優樹はその時は、仕事で来られなかった美愛のことを思っていた。

ここに美愛が一緒に居てくれたら、良かったのにと思った。

12月に入ると、美愛と一緒にクリスマス・イブは過ごせるのかが、気になってしょうがなかった。
週2,3回は電話で話していたが、どうしてもその件は、直接尋ねにくかった。
夏、横浜に外泊したことで、父親と気まずい関係になったと後で聞かされていたからだ。

中旬に美愛が南台桃花荘に来たときに、
「クリスマス・イブはここで過ごすからね。掃除しておいてよね。」と言う。
「えっ、大丈夫なの。」と優樹。
「もうお父さんも諦めたみたい。」と美愛が苦笑いしながら言う。
「そう…。」と何気ない返事をしつつ、優樹は心の中で「やったぜー!」と叫んでいた。

イブの日、二人新宿タカノフルーツパーラーで、クリスマスケーキを買い、そのころまだ珍しかった、ケンタッキーフライドチキンで初めてチキンを買った。
歩道を歩いているときは、気にならなかったが、方南町行きの地下鉄車両に乗り込むと、優樹が抱えたフライドチキンの匂いが徐々に車内に充満していった、近くの乗客は怪訝な顔をしていた。
二人は顔を見合わせて、笑いを堪えていた。

その晩は横浜以来の甘い夜となるはずだった…
二人で、ユーミンのアルバム「流線型'80」を聴きながら、シャンパンを開け、ケンタッキーやケーキも食べて、いざこれからという時に…。

下階の玄関から、どやどやと足音がするや否や鍵の掛かった部屋のドアをドンドン叩き、
「福野!居るか!」「飲んでるかー!」と大声が…。

その声は聞き覚えがあった、もしかしてと思いつつ、ドアを開けると、そこには、同じ研究室でバイト仲間の上野と有村が、赤い顔して立っていた。
「あれ?誰かいるの?」と言いつつ、止める間もなく優樹を押しのけ部屋に乱入してきた。

「あれっ…。」瞬間、部屋の空気が凍り付いた。

突然、友人が来たと察した美愛は、
「どうぞ、どうぞ。」と立ち上がり、今まで自分たちがいた場所を空けようとした。
全てを察知した上野と有村は、顔を見合わせている。

「まー、座れば。」と優樹も美愛の対応に合わせて、二人を座らせた。
バツの悪そうに、しぶしぶ座る二人。

「紹介しなよ、優樹。」と上野に言われ、美愛を紹介する。

それから狭い部屋で、四人してシャンパンやウィスキーを飲み始める。
やがて、30分も話をしてたが、途切れたタイミングで、上野達は帰ると言いだした。
「それじゃー、お邪魔しました。優樹のことよろしくお願いします。良いやつなんで。」と有村が美愛に言う。
美愛は微笑みながら、うなずく。優樹は余計なことをと思いつつ、苦笑いする。
来た時と同じように、ドタドタと帰る二人。
桃花荘前で酔っ払い二人を見送る、優樹と美愛。
ほっとして顔を見合わせる。

年明け、研究室でその話に尾鰭が付いて、優樹が凄い美人と結婚するという噂話が流れた。そんな事になるとはまだ知らなかった。

それが、1978年のクリスマス・イブの出来事だった。


10/阿字ヶ浦海岸の初日の出



波乱のクリスマス・イブから三日後、優樹は実家に帰った。
今年は、いつもと違い、そそくさと帰省した。こんなに心躍る帰省は初めてだ。
美愛には仕事納めが終わらないと会えないが、実家での年末恒例の餅つきやら正月飾り付けの手伝いも、手早く終わらせた。
母は「年始に美愛ちゃん、呼べば。」と言いながらおせち料理のお重を作っている。
「うーん、聞いてみるよ。」と優樹。
父は黙っている。
「大晦日の晩は、初日の出見に行くから、居ないよ」と優樹。
「どこまで行くの?」と母。
「大洗海岸かな。」と優樹。
「ご両親は知っているのか?」と父。
「話してある。」と優樹。

美愛の赤いシビックは阿字ヶ浦海岸を目指して夜明け前の国道を走っている。
「何処で見るの?」と美愛が聞く。
「秘密の場所を知ってるんだ。案内するから。」と優樹。
優樹は高校2年の夏、男友達と泊まりがけで、阿字ヶ浦海水浴場に来たことがあり、その時にその場所を知った。
そこは数年前に米軍から返還された、元射爆場跡地で、今は放置されて、唯の砂丘になっていた。

海水浴場の突き当たりの道に車を停めて、二人は懐中電灯を持ちながら潮騒のする方へ歩いていった。
東の空は、徐々に茜色に染まってきている。
そろそろ夜明けになるが、浜風は強く、ダウンジャケットを着ていても、寒さが身にしみる。美愛は優樹の腕に身を寄せて歩いている。

跡地は有刺鉄線で囲われているが、途切れている箇所があり、そこから二人は入り込んだ。
砂丘をいくつか越えて行くと、海辺に出た。水平線と暁の空の境がまだ分からない。
他には誰も居ない。
ふたり並んで砂丘の上に座る。

美愛、優樹の肩に頭を乗せる。
優樹、美愛のあごを上げて、唇を合わせる。
頬は冷たく、美愛の唇も冷たかったが、重ねた唇だけ、かすかに暖かい。
暫くして、美愛が顔を離す。
美愛「もうすぐ、夜が明けるわよ。」
優樹振り返り、東の空を見ると、水平線の上が微かに明るくなってきた。
ふたり、黙って、少しずつ茜色に変わる空を見ている。
太陽が水平線の上に現れて、周辺が明るくなり始める。
突然、一筋の光線があたりを照らし始めた。
美愛の顔にも光が当たっている。
穏やかな顔をしている。
美愛の視線と合う。
美愛「今年が良い年でありますように。ゆーちゃん。」
優樹「みきにとって、素晴らしい年になるように。」
ふたり長いキスをする。

もう一度水平線上の朝日を見ながら、優樹は、これから毎年、美愛とこういうふうに新年の挨拶をするようになるのだろうと、思った。
それはとても大切な事だと思った。

その射爆場跡地は、当時何もない広大な砂浜だったが、その年から工事が始まり、その13年後ネモフィラやコキアが咲き誇り、観光客が押し寄せる国営ひたち海浜公園になった。

それが、1979年の始まりだった。


11/暑い夏とふたりの思惑



優樹は、着慣れないリクルートスーツにB2サイズの図面ケースと鞄を両手に持ち、秋葉原の裏通りを歩いていた。
頭上には、真夏の太陽が容赦なく輝いて、道行くアスファルトを焼いていた。

今日は、就活で設計事務所を訪問していた。7月に解禁された就職活動は、なかなか手強く、苦戦していた。設計が希望だったので、大学の就職相談室で見た求人先で職種に建築設計とあった会社や事務所を訪問していた。

さっき訪問した設計事務所で言われた事が、まだ引っかかていた。
面接した事務所スタッフに
「君はパース屋になりたいの?」
優樹が、インキングで描いたフランク・ロイド・ライトの住宅のパースを見せたときに、そう言われた。
は?と思った。この事務所は求人する気は無いなと。

昨日のマンション販売会社では、うちは企画はするが、設計はしないよ。と言われた。

まだ、スタートしたばかりの就活だが、その手強さを感じていた。

美愛とは、月に2,3回は会っていた。先日は、上野の西洋美術館にモネを見に行った。コルビュジエの設計が、こうなんだと。知ってる感じで、説明したが、「ふーん。」と気のない返事ばかり返ってくる。
「じゃー、隣の動物園に行こうか?」と言うと、
「そうね、パンダ見に行こう。」
と、急に乗り気になり、先に歩き出した。
「早く、早く。」と急かせる美愛。
まだまだ、先は長いなと…思った。
結局、その日はキリンやライオン、カバそしてパンダの顔を拝んで終わりになった。
最近、どうも美愛のペースに載せされているように感じる。

大学は、前期で必要単位は修得出来そうで、後はグループで進めている卒業研究と来年1月に個人で提出するの卒業設計で、目出度く卒業となる。
卒業し、就職すれば、晴れて美愛と一緒になれる。
最近では、プロになるんだという意識よりも、美愛と一緒になれるという気持ちが勝ってきて、本当にそれで良いのだろうかと、ふと思うときがある。
プロになることと結婚することが、まだしっくり馴染んでない自分の中の雑然さが、気になる。
まー、段々馴染んでくるんだろうと、自分を納得させているが。

それにしても、卒業研究のグループ活動も一筋縄ではいかない。先週も、テーマ設定で、なかなか意見が纏まらず、最後はKG法まで使って、絞り込んだ。仲の良い上野や有村とグループを組んだが、それでもである。こんな状態で、これから纏めていけるのだろうか?これも心配である。

だから以前のように、美愛と会うことが出来なくなった。就活に卒業研究のグループ活動が入ったからだ、事情は説明しているので、美愛も分かってくれているらしく、会うときは上京してくれるケースが多い。前回の上野の西洋美術館ならぬ上野動物園デートはそういうことだった。
上京してくれるのは有りがたいのだが、いまいち優樹のフラストレーションは解消されなかった。若きウェルテルの悩み ならぬ若き優樹の悩みである。

美愛も彼女自身で悩みはある。
銀行の話を優樹にしても、分かって貰えないだろうと、余り話していない。どうでも良いような、話題は話せるが。
このまま優樹と結婚して、彼の給料だけで東京の生活は難しいだろう、そうなると暫くは共稼ぎになるだろうし、そうなると家事は手伝って貰わないと…。
そう考えると、少しブルーになる。大体、優樹は東京で就活しており、茨城に帰ってくる気配は全くない。そうなると、自分が東京へ行くことになるのか?まー、それはそれで、一度は東京に住んでみたかったという気持ちもあるので、興味はあった。
幸いなことに美愛の務める銀行は、東京都内にも支店が数店舗有り、美愛は東京支店への転勤願いを出そうと思っていた。

来年の3月は優樹は卒業だし、真剣に、将来の生活の事を考えていかなければと思っていた。美愛は優樹よりも、遥かに大人であった。

それが1979年7月の出来事だった


12/晩秋の痛い朝



明け方、優樹は急に右胸に刺すような痛を感じ、目が覚めた。また、あれだと思った。

優樹は「自然気胸」という持病を持っていた。最初に発病したのは高校1年の前期中間試験の直前で、親に仮病だと疑われたが、総合病院でレントゲンを撮ると右の気泡が収縮していた。自然気胸という病気だった。肺の気泡にピンホール大の穴が開き、肺が収縮する。肺活量は半分になるから、少し動くと息切れがし、無理すると肺炎になり重症化する場合もある。安静にしていれば、自然治癒で10日もすれば、直るが、再発するケースもある。優樹もすでに2回発病しているので、次再発した場合は開胸手術した方が良いと、医者から言われていた。

美愛と付き合い始めてからは、落ち着いていたので油断をしていたが、やはり再発したかと落ち込んだ。桃花荘で一人で安静にして寝ている訳にもいかず、また肺炎になると面倒なので実家に帰ることにした。一人痛む胸を抱えながら、バス、山の手線、常磐線を乗り継ぎ帰省する時間は長かった。

その夜、実家から美愛に電話し、持病の再発を説明した。
美愛「えっ、それで大丈夫なの?」
優樹「明日病院へ行くけど、多分手術になると思う。」
美愛「えっ、手術…。…どんな手術なの?」
優樹「そんなに難しくないって、医者は言ってる。」
受話器の向こうで、美愛が涙ぐんでいるのが分かる。
美愛「…そしたら、毎日見舞いに行くね…。…付き添いはいらないの…。」
優樹「今の病院は完全看護なので、付き添いは無いよ。」
安心させるために、その後10分は説明した。美愛は少し落ち着いた。
美愛「綺麗な看護婦さんに手を出しちゃ駄目よ。」
優樹「そんな元気ないよ。」

翌日、大学病院の専門医の診断は、やはり手術だった。このままでは、また再発するので、患部を切除した方が、良い。そうすれば再発する確率は下がるという。
但し術後1ヶ月の入院は必要とのことだった。
そうなると、今上野達と進めている卒業研究は、出来なくなる。その日に、上野に連絡を入れて、状況を説明し、謝る。
「それならしょうがない。卒研は有村と進めるよ。」と上野。持つべきものは友である。この時ほど、友人の大切さを痛感したことは無かった。

翌日、美愛が実家に見舞いに来た。寝ている和室の枕元へ案内する母の声が聞こえる。廊下の方を見ると、美愛の足がそこにあった。

美愛「どうなの、痛くないの?」
優樹「痛いのは、卒研が出来ないことだけど、上野たちがやってくれるって言ってる。」
美愛「そう。手術はいつ頃になりそう。」
優樹「10月の下旬で、入院は1ヶ月になりそう。」
美愛「私、毎日病院へ行くね。」
優樹「良いよ、そんなに来なくて。」
美愛「だって、心配だもん。ゆーちゃんが、看護婦さんに手を出さないように、監視してなきゃ。」
優樹「ばかだなー、ははっ。痛てて、笑わせるなよ、笑うと痛いんだよ。」
美愛「ごめんなさい。」
思ったよりも、元気そうな優樹を見て、美愛は少し安心した。昨晩電話で病気と言われてから、気持ちが沈んでいたのだ。

優樹と話した後、美愛は茶の間で母親としばらく話をしてから帰ったようだった。この頃は、母親とだいぶ仲良くなっているみたいだった。二人の相性は良いのだろう、どうせ二人で優樹の悪口でも言ってるんだろうが…。

優樹の手術は、無事に終わり、1ヶ月の入院生活後、11月下旬に退院した。
美愛は言ったとおり、ほぼ毎日病院通いをして、看護婦達を驚かせた。
優樹は、美愛にまた借りが出来たなと思った。だが、美愛が通ったのは、他にも理由があったが、それは後に分かる。

退院はしたが、1ヶ月以上ベットに寝ていたので、体力はかなり落ちていた。少しの散歩でも、疲れてしまう。
それにしても、この間のブランクは優樹の卒業設計に暗雲をもたらした。卒業設計の提出期限は1980年1月31日12時である。1秒でも遅れたら、卒業延期である。それまでに、この体であのタフな卒業設計が出来るか?残された期間は約2ヶ月…。

それが、1979年11月の出来事だった。


13/入谷の助っ人



優樹は台東区入谷の上野成文の家で図面を描いていた。1980年1月10日である。

自然気胸の術後、1ヶ月の自宅療養から漸く、南台の桃花荘に戻ったのが、年が明けた1月8日だった。すると卒業研究グループの上野から電話があった。暇そうならちょっと卒業設計のエスキースを見てくれないかという。
上野の家は、三社祭で有名な、台東区入谷にある。場所が分からないというと、鴬台駅の改札口に3年の小川真知子を迎えに行かせるという。卒業研究では、自分の不在の穴を補い、提出して貰った恩義もあり、断れず、のこのこ鶯谷駅まで行った。
改札口には小川嬢が待っていた。並んで、駅前のラブホテルが乱立する路地を歩く。
優樹「凄いところだね。少し休んでいこうか?」
小川「せんぱい!そんなこと言って良いんですか?私聞いてますよ、美愛さんっていう、凄い美人のフィアンセがいて、来年結婚するって、上野先輩、言ってました。」
優樹「うっ、まー。」
小川「早く帰りましょ。上野先輩、首を長くして待ってますよ。」

上野の家には、小川の他にも3年生が2名居て、模型を作り始めていた。
上野が平面の説明をする。
上野「この展示室は、玄関ロビーから一番近く、トイレに行きやすい。それで、この講堂もロビーに近いから、トイレも近い。でレストランもトイレに近い….。」
優樹「要は、このプランはトイレを中心に展開しているんだ。」
上野「…うっ、そうとも言える。」
それから、1月31日の提出日まで、ろくに外出も出来ず、上野の妹の部屋を宛がわれ、泊まり込みになった。妹は親の部屋へ移動した。食事は、上野の家族と一緒に、風呂は近所の銭湯に行く生活である。
勿論、美愛には事情を話し、桃花荘には居ないけど、決して怪しいことはしていないからと、説明はした。
美愛「そう、大変ね。直ったばかりなのに、体大丈夫?」
優樹「図面描いて、動かず、三度三度食べてるんで、太りそうだよ。」
美愛「そう、少し太ったゆーちゃんでも良いかな。」
優樹「…。」
美愛は、優樹の手術が無事終わり、元の生活に戻ったので、明るくなったみたいだ。

31日11時に西新宿校舎の11階の製図室に、上野と図面を持って行った。あと1時間だというので、製図室はてんてこ舞いだった。挙げ句の果てに、まだ終わっていない、図面を次から次と手伝う羽目になった。

12時になり、図面の受け取りが締め切られ、受付をしていた助手達は準備室に図面の山を入れて、ドアが閉ざされた。
その瞬間、優樹の留年が確定した。後1年、大学に居ることになった。受ける授業も無く、提出する課題も無い。何か、宙ぶらりんな、感覚を覚えながら、南台の桃花荘へ一人戻った。

美愛は、昨年11月に優樹から病気だと言われてから、心穏やかではなかった。もし、優樹がいなくなったら、どうしようとさえ、考えた。あれから、3ヶ月は長かった。術後の面会は、毎日のように病院へ通った。職場から車で、病院まで1時間、往復2時間は掛かる。でも、優樹の顔を見ないと、心配でたまらなかった。美人の看護婦が多いのも気になっていたが…。

優樹から卒業設計の提出は無理なので、卒業は1年延期になると聞いた。それもしょうがないと思った。ただ、一緒になれるのが、1年伸びるのは、少し残念だった。だが、これも試練だと覚悟を決めた。神様は私たちがそう簡単に、一緒になることをまだ許してくれないんだと思った。どうも私たちふたりには、超えなければならないものは、まだまだ有りそうだと知った。

それが、1980年1月の出来事だった。


14/初台のアトリエ



美愛と優樹は、鎌倉の材木座海岸に来ていた。
まだ春先で、天気は良かったが、海風は冷たかった。
今朝も南台の桃花荘前に、美愛の赤のシビックが停まると、大家のおばあちゃんが出てきて、美愛と何か話している。最近では、顔見知りになり、親しげである。

久しぶりのドライブで、相変わらず、優樹は助手席である。一昨年の湘南海岸から比べたら、美愛の運転も大分上達した。安心して乗って居られる。
カースレオからは、イーグルスのホテルカリフォルニアが流れている。美愛はユーミンや日本の歌手が好きだったが、最近は優樹の影響かウエストコーストも聴くようになった。
優樹「イーグルスは湘南や鎌倉に会うね。」
美愛「風は冷たくて、気持ちが良いわ。」

運転する美愛の横顔には、昨年末からの優樹の入院騒ぎの憔悴から、漸く元の明るさが戻ってきた。やはり、健康は大切である。自分が病気になると、美愛にまで、影響が及ぶことを痛いほど知った。
今日は、美愛が優樹の快気祝いのつもりなのか、鎌倉八幡宮にお参りしたいと言う。その前に、材木座海岸で休憩している。ふたり、遠くの水平線を見ている。
優樹「事故や病気でいつも、美愛には迷惑掛けてすまない。」
美愛「ゆーちゃん、急にどうしたの。事故も病気も好き好んでしてる訳じゃないんだから、気にしないで。」
優樹「…。」
優樹「教授が、3月から初台のアトリエでバイトしないかと言ってくれたんだ。」
美愛「アトリエ?」
優樹「小さな設計事務所だよ。」
美愛「良いじゃない。どうせ遊んでいるんだし。」
優樹「まー、桃花荘から近いし。9時、5時だっていうし。」
美愛「9時、5時?当たり前じゃない。」
優樹「いや、設計事務所って、夜遅くまで仕事するんだよ、銀行とは違うよ。」
美愛「銀行だって、残業するときはあります!月末なんか、忙しいし、合わないと、合うまで計算するし。」
優樹「へー、そうなんだ。」
美愛「残業もするんなら、お給料も良いの?」
優樹「設計事務所って、零細で、給料も安いし、残業代もでないし、後々自分で独立できるメリットしか無いって、先輩から聞いたことがあるけど。」
美愛「じゃー、ゆーちゃんも将来自分の事務所で社長ね。」
優樹「そんなに簡単じゃないよ。駄目そうなら、何処かの会社に入るよ。」
美愛「駄目よ、最初から諦めちゃ。」
最近では、美愛の方が、優樹を指導しているような場面が増えてきた。
旗色が悪くなった優樹は、「じゃー、そろそろ八幡宮さんへ行こうか。隣の近代美術館も寄って良いかな。坂倉準三ていう有名な建築家が設計したんだ。」と美愛を促した。

優樹が、退院まもなく上野の手伝いをしていたのを、指導教授の村田藤吾が知り、優樹に事務所でリハビリを兼ねてアルバイトしないかと、言ってきた。教授のアトリエのレベルは高いことで知られており、来いと言われることも滅多にないので、研究室の他のメンバーから羨ましがれた。

教授のアトリエは、スタッフも2名しか居なかった。出社した日は、ちょうど八王子校舎に教授が設計した大学図書館の竣工式を翌日にひかえて、そのオープニングの準備に、同行させられた。

アトリエのレベルは高かった。それまでの腰掛けのバイトは違い、実務レベルの下書きや、雑務を担当した。3ヶ月もすると、簡単な図面も描いたが、やはりプロのレベルは違うことを痛感した。

そのままアトリエで働くことも出来たかもしれないが、事務所の仕事量を知るにつけ、卒業設計の準備があるという理由で、10月に辞めた。

それが1980年10月の事だった。


15/卒業設計ウィドー



今日は1月30日。あと少しで、卒業設計が完成する。

この2ヶ月は苦しかった。クリスマスも正月も全てのものを返上し、桃花荘に籠もって 取り組んだ卒業設計も明日提出である。
他の人達は、皆後輩に手伝って貰うが、留年した自分はその後輩が居ないので、全て自分でやらざる得なかった。頼んだのは、模型写真を知り合いに撮影して貰っただけだった。

だから美愛にも、会ってないし、来るのを止めて貰った。来ればどうせ、求めてしまうのが、自分で分かっていたからだ。折角組んだスケジュールは、変更になり、自己嫌悪になるのは、分かっていた。
自分たちはそれで一度失敗しているので、今回はその点は慎重にした。だから美愛も来るとは言わなかった。

建築学科の計画系の学生にとって、卒業設計は一大イベントである。掛ける費用も10から20万と言われていた。優樹もそれまでのバイト代から工面した。要した期間は、3ヶ月。11月に資料収集、事例研究をした。12月でエスキースを纏め、1月に本チャンの図面と模型を一人で完成させた。正直、助っ人無しで、淡々と進めた方が効率が良いと、途中で気がついた。が、毎日睡眠時間は6時間と決め、規則正しく、生活パターンを作った。昨年持病で手術している自分にとって無理は禁物である。

大体卒業しなければ、美愛との将来も無いし、就職もこれに掛かっているからだ。第一志望の設計事務所から卒業設計を持ってくるように言われていたからだ。つまり、その内容が良ければ、内定を出すという意味だった。
そんなプレッシャーもあったが、優樹は卒業設計を楽しんでいた。多分、自分で好き勝手に思う存分、考え、デザインし、描けるのは、これが最後だと思っていた。自分の世界で、自由に考え、思い、描けるのは、幸せだった。この仕事を選んで良かったと思った。将来の事は分からないが…。

美愛は、この2ヶ月間、優樹に会えないので少し寂しい思いをしていた。別に優樹が他の女性に熱を入れているわけでも無いのに、自分以外のものに夢中になっている優樹に、すこし腹を立てていた。それが、筋違いな事と分かっているが。どうも最近、優樹を独占しないと満足しない自分が居るのを知り、すこし変だと思った。もし優樹が浮気をしたら、絶対許さないと思った。子供が居たら絶対子供に走るだろうなと思った。

それにしても、これが終われば、優樹も就職する。多分東京の設計事務所になるだろう、そしたらどうしようか。これも秘密だが、早く優樹と一緒に暮らしたいと思っている。場所が何処であれ、行くつもりだ。銀行に東京支店への転勤願いを出して、たまたま産休が出た、新宿支店になりそうだ、今の職場に未練は無い。東京で優樹とアーバンライフを楽しみたいと思っている。
優樹は設計業界も大変だと言っているが、なんやかんや楽しそうだ。事実、この2,3ヶ月、私を放り出し、卒業設計に熱を上げている。これでは、建築ウィドーになりそうだ。大体すでに卒業設計ウィドーだし、と一人悩む美愛だった。

それが、1981年1月の出来事だった。


16/豊島園で修行



全力で取り組んだ卒業設計は、銅賞を獲得した。例年、金・銀無しの銅賞なので、健闘したと思う。先日、賞状とメダルを受け取りに行った。
美愛に知らせたら、とても喜んでした。今度見せてねと電話口の向こうの声は弾んでいた。

その3日後、優樹はG計画研究所の応接間で面接を受けていた。
黙って優樹の卒業設計を見ていた藤田所長が口を開いた。
「今、追い込みの案件があるので、明日から来てくれますか。」
優樹「…はっ、はい。」
暫くは、のんびりしたいと思っていた優樹は、不意を突かれ思わずそう返事をした。

優樹は毎朝、西武池袋線の分線の豊島園駅で下車する。殆どの乗客は子供連れかカップルで正面の豊島園のゲートに向かって楽しそうに歩いて行くが、優樹は右側へ曲がり、東の方へ歩いて行く。都道を横断し、細い坂道を下って100m程行くと、左に大木が茂った一角があり、その門をくぐる。そこは、目白駅前にある女子大理事長の邸宅だったところで、今は建築設計事務所になっている。
内定を貰った設計事務所は、G計画研究所といった。スタッフが20名位の中規模事務所だった。その位で中規模なので、世間の感覚とは大きく異なる。
公共建築、特に地方の集合住宅のパイオニアとして、注目を集めていた。茨城・水戸市内にもいくつか設計した集合住宅があり、学生時代見学した優樹は、従来の箱形とは一線を画したデザインに惚れて、一昨年も面接に来たが、その時は藤田裕也所長に「卒業設計が出来たら、もう一度見せに来てください。」と言われた。

翌日優樹はG計画研究所へ出勤した。付いたチーフはT芸大卒の厳しい人だった。その日から、帰宅は11時過ぎだった。当然終電は無く、最初はタクシーで帰宅したが、それも禁止された。週に2,3晩は事務所に泊まりになった。学生時代から寝袋で大学の製図室に泊まっていたので、それは平気だったが、やはり無理をすると、胸の古傷が痛んだ。

美愛に仕事の話をすると、驚いていたが、土日に桃花荘に遊びに来た。近くの代々木公園や吉祥寺の井の頭公園に二人で遊びに行った。
美愛「仕事きつそうね。」
優樹「こんなもんだよ、事務所は。通勤に便利な所へ越そうと思うんだ。」
美愛「前から思っていたんだけど、あたし東京へ来ようかな。」
優樹「いいのか、ご両親は?」
美愛「おかあさんは大丈夫だけど、お父さんがね…。」
優樹「銀行はどうするの?」
美愛「東京支店もあるから、転勤願いだしてみる。」
優樹「転勤できるの?」
美愛「わからない。でも、駄目だったら、転職しても良い。ゆーちゃん、と東京で住むのもいいな。」
優樹「そんなに甘くないよ。」
美愛「何処へ引っ越すの。」
優樹「そうだね、事務所の傍か、池袋線沿いだね。」
美愛「豊島園か、いつでも行けるね。」
優樹「近いと意外に行かないものだよ。」
美愛「そうかなー。」

翌週、二人は練馬駅前の不動産屋で、物件探しをしていた。店に入ると、女性担当者が対応してくれた。
担当者「お二人でお住まいになられます?」
優樹「…えっ、えっ、まー」
美愛「はい、そうなんです。2DKくらいが良いかな。」
優樹「職場が、豊島園傍なんで、歩いて15分位のところで探しているんです。」
美愛「鉄筋コンクリートが良いな。」
優樹「高いよ。」
担当者、物件ノートをめくって探してる。「そうですね。2,3件ご案内しますね。」

いくつか下見にいったが、結局練馬駅から4駅先の石神井公園駅から10分程の、2階建ての2DKに決めた。
そのうちに、美愛も引っ越してくるので、広めにしたが、家賃は高かった。
美愛は、住む気満々だった。

優樹「すいません、ちょっと二人で相談したいので、五分ほど外で待っていて貰っていいですか。」と担当者に言う。
担当者「はぁ、分かりました。」と怪訝そうに外へ出る。
彼が玄関のドアを閉める音がする。

優樹「これ。」鞄から小さな箱を取り出す。
美愛「何?…えっ…」
優樹「美愛、僕と結婚してください。」
美愛「…。」
優樹「なかなか、渡すタイミングが難しく…今になったけど。」
美愛「…。」
優樹「ダメ?」
美愛「そんなわけ、ないでしょ。嬉しい、有難う。」
美愛、優樹に抱きつく。二人、唇を合わせる。

玄関ドアの向こうから、担当者の呼ぶ声がする。
「あのー、まだですかー」

それが、1981年3月の出来事だった。


17・最終回/石神井でのスタート




石神井公園に程近い優樹のマンションの前に、引っ越しトラックが停まる。玄関から出てくる、優樹と美愛。
とうとう、美愛が上京し、彼女の荷物をマンションに運び入れている。
タンスや化粧台などが運び込まれる。

家具や山と積まれた段ボールで一杯になったリビングで、困り切った様子の優樹。
優樹「こんなに一杯、入るかな。」
美愛「これでも、少なくしてきたんだけど…。」
優樹「大きな物から、片づけよう、化粧台は何処に置く?」
美愛「寝室でいい?」
優樹「僕の製図板は、処分するよ。」
美愛「いいの?」
優樹「家では、もう図面描かないからね。」

その1ヶ月前に優樹は3年間慣れ親しんだ南台・桃花荘から石神井公園へ引っ越してきていた。
そして、ゴールデンウィークの初日の今日、美愛が引っ越して来たのである。結局、美愛の父親はしぶしぶ認めての上京だった。
それにしても、出会いから3年半経ち、漸く一緒に生活することになった。ここまで来るのは長く、険しい道程だった。次から次へと湧きおきる困難な問題をふたりで乗り越えてきた。

明日、区役所に二人で婚姻届を出しに行く。
美愛は希望通り、新宿支店に転勤となった。まだまだ、退職して子供を産んで子育て出来る余裕は無い。
なにせ優樹の給料だけでは、ここの家賃で消えてしまう。余裕が出来るまで、子供も我慢するしかないと、覚悟はしている。
優樹も初めての仕事が大変で、週1日は事務所で徹夜をしている。改めて設計という仕事の大変さを痛感している。
だから、土日の休日は、二人で石神井公園だけでなく、都内の美術館や博物館に出かける。優樹はそういうのが好きらしい、美優も田舎にはそういう文化施設は少ないので、そういう意味では都会生活を楽しんでいる。
優樹はあの取手の土手の上での約束をきちんと守ってくれている。美愛は大切にして貰っていると感じる。
仕事で忙しいしのに、休日や朝は料理や洗濯もやってくれる。その上、2級建築士の勉強も始めたようだ。独学で受験するみたいだ。仕事は、岐阜の住宅地計画をしていると言っていたが、美愛にはよく分からない。

石神井での最初の夜に、二人で話したことがあった。子供のことで、話があるとベットの中で優樹が切り出した。
優樹「美愛ちゃん、これは相談だけど、子供を持つのは、あと3,4年先にしないか?僕は25だし、美愛ちゃんは24。ここで作らなくてもまだ時間はある。もし、もし、もしもだよ、子供がいて、別れるということになったら、一番可哀想なのは、子供だよね。だから、もう少し後でいいと思うんだ。」
美愛「ゆーちゃんは、別れると思っているの?」
優樹「いや、思ってもいないよ。」
美愛「でも、その可能性が有ると思っているんでしょ。」
優樹「強いて言えば、そうだね、3%かな。」
美愛「…。」
優樹「実際、経済的にも難しいけどね。」
美愛「3%あると思っているんだ。」
優樹「…。」
美愛「分かった、そうしよう。その方が、いいと私も思う。」
優樹「ありがとう。」

翌日、美愛は母に手紙を書いた。

お母さん
美愛は今幸せです。
今まで育ててくれて本当にありがとうございました。
そしてゆーちゃんを信じて良かった。信じた自分を褒めてあげたい。
お父さんは、まだ完全に許してくれていないが、あと少しだと思う。
私たちに、時間はある、ゆっくり二人で歩いて行きます。
だから、こどもはまだ作りません。
急がず、焦らず、穏やかに、健やかに。問題があれば、二人で話して、相談します、二人なんだから。そして時々おかあさんも相談に乗ってください。
落ち着いたら、鎌倉八幡宮さんへお礼参りにも行きたい。
八月には、帰ります。お父さんに、よろしく。

それが1981年5月の出来事だった。






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