香港デモ 背景にあった法律・政治的矛盾と悲劇
きっかけは台湾で発生した香港人カップルに起こった殺人事件
事件の発端は2019年2月に香港人カップルが台湾に旅行に行った際に発生した殺人事件だった。旅行中、台北のホテルで香港人女性が恋人の香港人男性に殺害され、犯人の男性は遺体を遺棄したまま香港に帰ってしまった。
香港人が海外で別の香港人を殺害して香港に帰国した場合、香港で裁く事ができず、台湾の法律で裁かれることになる。ところが香港に逃げ帰った犯人の男性を、台湾に引き渡し台湾の刑法で裁こうとしても、台湾ー香港間には犯罪者の引渡条例が無い。
そこで引渡条例の制定を全面的に行おうと考えたのが、香港政府保安局である。ところが、この条例の適用範囲は台湾(中華民国)だけでなく中華人民共和国も対象に入っており、中華人民共和国政府の政敵に該当するような人物が中国に引き渡されるリスクが有る内容と解釈された。これに民主党ほか野党の議員は反対を唱えたのは言うまでもない。
条例に反対する民主派議員や市民によって3月に最初のデモが実行され、そこから半年経った10月に入っても収まるどころかますま活動が激化しているという状況なわけだ。
香港人同士の間での殺人事件を裁くことができない香港の法事情
台湾での殺人事件を話を聞いて、香港人が同香港人を殺害したのだから自国の法律で裁けるのでは?と思った人も多いだろう。実際日本では刑法三条では国外で犯罪を犯した人物を日本の刑法で裁けるとうたっているし、これが日本人同士の国外で起こった事件であれば同様の問題は無かったはずなのだ。しかし香港には国外で犯罪を犯した人物を裁ける根拠となる法律が存在しない。刑事事件はその事件が発生した主権国家によって裁かれるという「属地管轄」の原則から、香港は国外で発生した犯罪に対して自身の法律で裁けるような法制度がないのだ。ただし、児童ポルノに抵触する犯罪であれば香港外で発生した事件でも、香港人が帰香港後に裁けるという法制度があるので必ずしもその原則は一貫しているわけではないのも不思議な状態である。
今回の法改正の議論では、香港人の罪は香港の法で裁くという「港人港審」の原則に準じて刑法を変更するという提案がなされたが、受け入れられなかった。主な理由としては、刑法を変更したとしても、過去に発生した事案に遡ってその刑法を適用することができず、今回の台湾の殺人事件の解決には至らないからというものだ。
引渡条例改正の背景
上記のような経緯から、引渡条例の改正によって、犯人を香港から台湾に引き渡し、台湾の司法に裁かれるよう取り計らうことが最良の方法であると香港政府は判断した。
日本ではあまり知られていない事だが、香港は実に19か国との間で引渡条約を締結しており、同条約をたった2か国としか締結していない日本よりもはるかに多い。それなのに、隣の台湾との引渡条約が結ばれていないということには政治的歴史的な背景があった。
香港が英国統治下にあった頃、「華人移提回籍條例」という名の引渡条例が存在し、香港は中国本土との間で罪人の引渡を行う事が可能であった。しかし、その条例も香港が中国に返還された1997年に、基本法に合わない内容であるためということで廃止されてしまい、それ以降同様の条例が無い状態となった。また台湾(中華民国)はそもそも主権国家として認めていないという立場から、台湾政府との引渡条例締結を検討することもできなかった。それが故に香港で過去に犯罪を犯して住めなくなった人物が台湾に身を隠すという事が過去に発生していた。
真面目に政策実行を行おうとしたキャリーラムの悲劇
2019年2月3月に起こった条例改正の議論はそんな歴史的背景から残っていた法の抜け穴をふさぎ、香港が逃亡犯の隠れ蓑とならないよう改善をしたいというキャリーラムの純粋な政治家としての使命として起こったと考えられる。立法会での議論の中では、今回の殺人事件の解決策として、一次性を持つ引渡措置を台湾政府との間で実施することを提案した議員もいたが、キャリーラムや保安局は条例の全面改正に踏み切ったのである。
ところがこれが香港全土にわたる反対運動に発展し、殺人事件の被害者を救うための法改正という議論よりも、中国政府による司法の独立の形骸化を懸念するデモ運動へと発展してしまった。もともと殺人事件の解決のために法案を議論していたのであれば、引渡条例の改正という大きなテーマで議論をするよりも、事件の解決のための措置について議論されるべきだったのである。
なぜ一次的な特別措置としての台湾への引渡を検討しなかったか、なぜ敢えて香港の世論の反対に遭うような法改正の議論に固執してしまったのだろうか。ここにも、香港、台湾、中国の複雑な政治関係が関わってくる。特例措置として台湾と香港の間で単独引渡を行うことは、中国が主権国家として認めない政府との協議・交渉を行う事となり(中国政府と台湾政府が対等な立場にあることを意味してしまうこととなり)、香港特別行政区の政府としてそれを実施することは中央政府の意向に背くという判断が当時のキャリーラムには有った。それが故に、人道的な立場での政策実行と人民の憂慮と中央政府の方針との間を上手く調整する事が難しかっただろう。
自分が選択の余地があったならば、すぐにでも行政長官の座を退いていた、という彼女の自白から難局を上手く切り抜けられず苦しんだであろう彼女の心中が分かるようだ。