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映画「赦し」と刑事罰問題

DVDレンタルで映画「赦し DECEMBER」を観ました。

一度観た限りではよくわかりませんでした。主にわからなかったのは次の三点です。

1.タイトルにある「赦し」とは何か

2.ポスターの振り返る受刑者からは何を訴えたかったのか

3.副題にある「DECEMBER」とは何か


Wikipediaにあればたいてい解説があり、あらすじも最後まで書いてあるのですが、公開から日が浅いためなのか残念ながらまだ載っていないようです。

Webレビュー(主に映画.com)に助けを求めましたが、あまり参考にはなりませんでした。仕方なく二度目を観て、こうなんじゃないかということを考察とともにこのブログに書きたいと思います。


なおラストまで含めて書いていますので、「ネタバレが嫌」という方は以降読まない方がよいかもしれません。ただこの映画「赦し」は「サスペンスフルなヒューマンドラマ」と銘打っているものの、ミステリーではないので、ネタバレしても作品の質には影響がないように思うのですが、いずれにせよ個々人の判断にお任せします。


ストーリー

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7年前に娘を殺害されたのち離婚し酒びたりの生活に陥っていた被害者遺族の父のもとに、裁判所からの通知が届く。懲役20年の刑に服している受刑者に再審の機会が与えられたという。ひとり娘の命を奪った受刑者を憎み続ける父は元妻とともに法廷に赴く。しかし受刑者の釈放を阻止するために証言台に立つ父と、つらい過去に見切りをつけたい元妻の感情はすれ違う。やがて法廷では受刑者の口から彼女が殺人に至った動機が明かされる。

(ここまでほぼ公式サイトまま、以下ネタバレ)

殺害の動機とは、育児放棄され学校でいじめを受けていた受刑者が、耐え切れずいじめのリーダー格であった被害者を殺害した、というものだった。受刑者の望みで元妻と面会したと聞いた父は、復讐を目論み面会を要望する。ガラス片を隠しつつ面会するが結局何もできなかった。父と元妻は証人を降り、再審は懲役1年で結審した。

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「赦し」とは

タイトルにある「赦し」とは何でしょうか。

Webによると、「「許す」はこれから行う行為を認めること、「赦す」はすでに行った行為の失敗を責めないこと(もりのこどもえんだより:許しと赦し)」、とあります。なるほど、だから「許し」ではなく「赦し」なのですね。


いちばん単純で表面的に解釈すると、裁判所が懲役20年から1年に変えたことが「赦し」である、とみてよいでしょう。もちろんそれは表面的、ではタイトルの「赦し」に込められた思いとは何でしょうか。

一つは、元妻と父が裁判の検察側証人を降りたことから、受刑者を「もういいよ」と赦した、とみることができます。ただ、父は受刑者を本当に赦したのか、そのあたりはあいまいに描かれています。

もう一つは、加害者と被害者の逆転です。

受刑者が被害者を殺したのは事実なので受刑者は当然「加害者」なのですが、いじめの首謀者は殺された被害者であり、その意味では受刑者は「被害者」でもあります。

言い方を変えると、いじめの実態を明らかにすることにより「オマエの娘こそが加害者だったんだぞ、本当に謝罪すべきはオマエらなんだ」と告発した形になっています。

その事実に元妻も父も何も言えなくなるのですが、元妻や父には真摯に反省する受刑者が「でもオマエの娘を赦してやるよ」と言っているようにも思える。それがタイトルにいう「赦し」ではないでしょうか。


ポスターにある振り返る受刑者

最後の方に受刑者が振り返る2~3秒ほどの長いシーンがあります。ポスターにもなっているこのシーンで、監督が何かを訴えたかったのは明白だと思うのですが、でもそれが何かわからず、考えていました。


裁判終了後、父が部屋を出、廊下からある部屋の小窓を覗きます。その部屋では受刑者が刑務官から手錠を外されていました。ふと視線を感じた受刑者は振り返る。そのシーンです。受刑者は何を思っていたのでしょうか。

おそらく「被害者遺族の父が見ている。父は今でも恨んでいるのではないか」ひいては「釈放されても、被害者遺族の父に殺されるのではないか」と思っていたのでは、と想像します。

ただ、「被害者遺族の父に殺されるのは嫌だ」とは思ってはいなかったとも思います。むしろ「殺されても仕方がない」と思っていたのではないかと。もっと踏み込むと、「被害者遺族の父は今でも赦してくれていないのでは」だから「このまま釈放されてよいのだろうか」とすら思っていたのではと思います。

父は裁判で「(一度目の判決である懲役20年よりもっと長く)一生刑に服してほしい」と言っていました。これを受けて受刑者は「これから釈放されるけど、このままずっと刑に服すべきではないか」とも思っていたのかもしれません。


タイトルこそ「赦し」であるものの、「本当に赦されてよいのだろうか」と疑問や困惑、迷いの表情を浮かべている。ポスターからはそう読み取れるように思います。


副題にある「DECEMBER」とは

映画「赦し」の副題は「DECEMBER」・・・なぜ12月なのでしょう。

どこにも書いていないのでわかりませんが、私は「年の終わり」と「赦し」とを重ね合わせたのではと思います。つまり長い一年が終わりようやく新しい年がやってくるように、長い刑期を終え新たな人生を踏み出すときが来た、という意味ではないかと思います。

裁判を機に、刑に服させられた受刑者の状況だけでなく、娘を亡くした被害者遺族の哀しみも、ようやく解消されるときが来た、というのも含んだ「年の終わり」だったのではないでしょうか。


ただし、自動的に最後の月が終わって晴れ晴れしく新たな年がやってくるかというと、そういうわけでもないことを匂わせるストーリーになっているように思います。


被害者遺族の父は、受刑者と面会した後、元妻に向かって「俺が間違っていたよ」と言います。そのとき復縁を打診するも断られます。その後場面が変わって最後の判決シーンになりますが、結審後、父は何かに迷うようにうつむきながら歩き、その後を元妻が距離をとりつつ足音を響かせながらついていくシーンのまま終幕します。

これらのシーンは何を意味しているのでしょうか。

私の解釈ですが、「元妻の気が変わり復縁を受け入れようとしていた」のではもちろんなく、父が”思い切った行動”に出るのを見張る/阻止するために付いていったのではないでしょうか。

”思い切った行動”とは、ひとつは釈放された受刑者の殺害、もうひとつは自殺。復縁を断られたことも「俺の人生は終わった」と思い詰めるのに十分だったのではないでしょうか。

そう考えるとけっこう緊張感が漂ったラストシーンだったように思います。


固定イメージ

今年(2024年)1月1日、能登半島地震が起きました。富山在住の私は他人事とは思えなかったのですが、甚大な被害に遭ったにも拘わらず、三ヶ月経った今も一向に復旧も進んでいません。ところが奇妙なことに、報道では被災者が支援にきた人に助けられ感謝するシーンやコメントばかり伝えられています。ウソとは思いませんがホントかなと首を傾げてしまいます。

どこか、被災者=かわいそうな人(弱者)、支援者=助ける人(強者)とし、支援者が被災者を助けるシーンを見せることで“いい話”にしようとする思惑が透けてみえるように思えてなりません。


犯罪の被害者加害者もどこか似ています。

被害者=かわいそうな人(弱者)で加害者=極悪非道な人(強者)とし、加害者は刑務所にぶち込んでいくべきだ、いや殺すべきだ、とされる一方、被害者はいつまでも哀しみに沈んでいるべきだ、いつまでも加害者への罰を要求し続けるべきだ、とされます。


この映画は、本当にそうか、それでよいのかと問題提起する作品だと思います。


先に「加害者と被害者の逆転」と書きましたが、加害者は事件の前も加害者であった/事件の後も変わらず加害者であるわけではないし、被害者もずっと被害者ではありません。裁判は事件という一瞬を切り取って被害者加害者を判定するので、その一瞬のときどちらにいたかによって大きく変わります。この映画での裁判でもその点を争ってはいませんが、事件の前は、被害者加害者は逆転していたのです。

「わかるけど映画(=物語、フィクション)としてはイマイチかな」と思った人も多いと思います。でも公式サイトに「本作はあくまでオリジナルのフィクションだが、実際の少年事件からもインスピレーションを得た」とあるように、私にはかなり現実に即した映画ではないかと考えています。


私たちは被害者加害者の固定イメージを、少年事件だけでなくより広く刑事事件の多くでもっているのではないでしょうか。それどころか、そのイメージを当事者に押しつけていないでしょうか。

「受刑者は笑ってはいけない」「被害者遺族は哀しみ続けなくてはいけない/受刑者を憎み続けなくてはいけない」と思ってしまい、そこから外れると「反省していない」「哀しみ/憎み続けていないなんて非人間的」と思ってはいないでしょうか。

死刑が世界的に廃止されているのに日本は「死刑大国」とすら言われるのは、ひとえにこの固定イメージのためと思います。


ミスキャスト

ここまで映画「赦し」を持ち上げてきました。でも、確かに問題提起をし考えさせられる内容なのですが、観客/視聴者に伝わっていないのがすごく残念な点です。

私の読解力が足りないせいもあるでしょうからその点はゴメンナサイとしか言えませんが、Webレビューの一部を観た限り、監督が意図したであろう内容をコメントしている人はいませんでした。ゼロとは思えないものの、かなり少ないように思います。


なぜ観客に伝わっていないのか。映画評論家でもないのでわかりませんが、そのひとつにミスキャストがあるのではと邪推しています。

いや、キャストの演技がイマイチだったとは思いません、むしろ秀逸だったと思います。私が首を傾げるのは演技ではなく起用です。


ポスターに大写しになっている女優(松浦りょう氏、受刑者役)は日本人ですが、私はこのポスターでどこか韓国女性を彷彿させられました。ポスターの第一印象では「北朝鮮拉致問題を扱った映画かな」と思ったくらいです。また被害者遺族の父役(尚玄氏)もどこか中東出身の男性の印象がありました。まぁ簡単にいうと国際的なトラブルを匂わせている印象がありました。

偶然このキャストになったのかもしれませんし、裏の設定で「いじめに遭いやすいのは帰国子女だ」としていたのかもしれません、わかりませんが、印象からくるイメージと映画の主張とはかけ離れたものだったように思います。


このブログでタイトルの「赦し」やポスターで訴えていたものを考えてきましたが、私が長々と語ることなくもっと観客に伝わるものであって欲しかったと、わがままにも思っています。すごく大切な問題を提起していると思うだけに、残念でなりません。


修復的司法を

この映画のクライマックスはいじめ事件の真相暴露にありますが、もし事件後すぐいじめの実態が明らかになっていたのなら、被害者遺族は7年間も哀しみに溺れなくてよかったのでは、と思います(「いやそういう設定でしょ」と言われればそうなのですが)。

おそらく事件後すぐの裁判で受刑者が黙秘した結果そうなった(という設定)と思いますが、「殺人犯=悪」という固定イメージが受刑者を黙秘に追いやっているのではとも思います。もし受刑者が事件後すぐいじめの実態を訴えたとすると、逆に「人を殺しておいてでまかせ言うな」と叩かれ、同情する人はごく少なかったのではないでしょうか。


この映画では「この受刑者は心から反省している」として描かれています。

受刑者は自ら希望して、弁護士を通じて被害者遺族と対面しますが、ふつう被害者と加害者が会うこと自体許されていないとききます。受刑者が心から反省しても、被害者と会うことができないのであれば、被害者遺族はこの映画のように事件の真相を知ることはないのではないでしょうか。


あとこの映画では問題視されていませんが、犯罪被害者支援の問題もあります。

この映画では事件から7年後という設定で、その間被害者遺族はずっと哀しみを抱くか目を背けるしかなかったとしていました。おそらく現実も似たようなものだろうと思います。

最近(確か今年)被害者支援法だったかがようやく成立したそうで、私は内容をよく確認していませんが、それが仮に十分だったとしても、上に書いたような被害者加害者の固定イメージは全然崩れていないと思います。


だからこそ、やはり修復的司法が求められていると思います。

「修復的司法」とは、「被害者と加害者、犯罪の影響を受けた周囲の人々など、事件の当事者が主体的に集まり話し合うことで、事件によって引き起こされた害悪の解決をともに模索する取り組み」のことです(東京都人権啓発センターWebページより)。


最後に

邦画(日本映画)では刑事罰問題を取り扱ったものは少なく(「刑事事件」を扱ったものは多いのに)、もしかするとここまで真正面から向き合った映画はこれが唯一かもしれません。その意味で喝采を送りたいと思いますし、私もこれを機に考えていきたいと思います。

刑罰のある意味究極の形である死刑も、その廃止に向けて日本は世界的に立ち遅れています。それが私には少し恥ずかしくすらあるのですが、この映画が少しでも問題の改善を進展させる契機になればよいのにと祈っています。


評価は「4:もう一度観たい」。(基準・・・5:大絶賛! 4:もう一度観たい 3:まぁよかった 2:よくなかった 1:二度と観ない)


【参考】

映画「赦し」公式サイト


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