書きたいだけ書く日記 2022/02/15
調子悪し、ひでえ演奏、フリックは入力は光明、とどまらない「みざわ」シリーズ考察、など。
2022/02/15 さむみざわ
調子悪し。これが私の普通なのだけど、悪いものは悪いと感じる基準は健やかであり、だからこそ悪さが際立ち、病む。他の人は戦わなくてもいいものと無駄に戦っている心地。戦いたくもないけれど、戦わされているというか、だとしたらコロッセウムで戦わされる剣闘士奴隷と同じ。などと馬鹿なことを考える。
今朝もオリンピックのライブの中継が始まったら、何でもいいからそれにして、音を絞ってつけっぱなし。音はずーっと前に息子1のピアノの先生からお勧めされ、断りきれずに買った、バッハのインベンション/シンフォニアのCDをつけてみるも断念。長く聞いてないものだった。なにかバッハを聴きたい、と思い立って、もしかしたら少しぐらいはいい演奏だったかも、と取り出して聞いてみたものの、やっぱりほんにつまらん演奏だった。模範演奏として渡されたものだからと思うけれど、ひどい。無味乾燥。こんなのが模範になるのか、私は今も疑問。当時息子は勝手に検索して自分の好きな演奏家を見つけて聞いていたもの。
結局イライラして何も聞けなくなって無音でやる。自分が色々聞いたら何も出来なくになる人間であることを忘れていた。
noteの日記の補足をスマホからしていて、書く道具によって感じ方や感覚は変わってくるなーと思う。フリック入力にちょっと光明を感じた。フリックはスマホのみで、長くてもLINEのメッセージか書き物や短歌のヒントぐらいしか文章は作らない。ふと、これで長いものを書いたらいつもと違うものが出来るのでは、と思ったのだ。
書く道具は創作に随分と関わると思う。私は物を書き始めた最初から、親戚が贈ってくれたワープロを使っていたせいか、もはや手では書けない。手では遅すぎて考えていたことを忘れたり、書いているうちに思考が滞る。結構なスピードでいけるフリックは新しい世界を見られるのでは、と思った。少し試してみようとも思う。
夕方、電気もつけずまたしても読書耽溺している私のところに来た息子1が「寒いな、さむみざわ」と言ったので、「新しいな、古いけど」と言ってエアコンを付けた。「~みざわ」シリーズはそんなに新しくないと思う。「うまみざわ」とか「やばみざわ」とかバリエーションが無限で、目新しくないのになかなか死なない。形容詞の語幹に接尾語の「み」をつけて名詞化、まではわかるけれど、「ざわ」はどこから来たのだろう。あれか、「高い」の形容詞の語幹に「み」をつけてるように感じられる「高見沢」とかに乗っちゃったのかしら、「やばたにえん」みたいに。