仏教とスマートフォン
仏教はこの日本において最も栄えた宗教である。その仏教が過去の人々の生活においてどのような関係にあったのか、宗教が生活の延長線上にない現代の我々にはピンとこないのではないだろうか。
そんなことに考えている中で、一つの仮説に辿り着いた。
それは、
現代人におけるスマートフォン = 過去の人々における仏教
という、図式である。
現代の人々にとって、スマートフォンは無くてはならない必需品である。
近くでごはんを食べる時、スマートフォンでレストランを探すこともあれば、
欲しいものがあった時、商品を購入することもあるだろう。
道に迷った時には、地図アプリを開いて目的地を探索するし、人生に疑問を抱いた時にもスマートフォンで何かを検索して今後の指針に役立てることもあるかも知れない。
また、体になにか異変を感じたとしよう。
私たちはまずスマートフォンを手に取り、症状を検索するのではないだろうか。その結果からひとまずの安寧を得るかも知れないし、更に不安に駆られ即座に医師にかかる決意を強くするかもしれない。
一方スマートフォンがない時代、同じようなことがあった場合にはどうしたのであろうか。
特に近代以前の人々に想いを馳せてみることにしよう。
食事など、身近で単純な問題であれば、家族や近所の人々に頼る事で問題の解決を図ることができるだろう。
現代よりも人々の結びつきが強かったはずで、ここに異論の余地はない。
しかし、深刻な問題に突き当たった時はどうするのだろうか。
ここで神様・仏様が登場するのである。
特に鎌倉時代以降、急速に庶民に広まった浄土思想においては無阿弥陀仏と唱えることで、明るい来世が約束される。
この、南無阿弥陀仏という名号こそ、過去の人々にとってのスマートフォンにあたるのではないだろうか。
深刻な悩みを抱えた時、南無阿弥陀仏を唱えることで問題の解決を図り、重い病気に罹った時にも、南無阿弥陀仏と唱えることで何とか病気を追い払おうとした。
南無阿弥陀仏
これは謂わば全知全能の仏へと繋がるインターフェースとして機能していた。
他力本願とも言われるこの思想であるが、多くの人が宗教を捨てた現代日本においても形を変えて今尚残り続けている。
それは、インターネットという集合知に対して依存しきった状態を指している。
現代の人々も、集合知であるインターネット依存し、そこに繋がるスマートフォンというインターフェースを通してあらゆる問題の解決を図ろうとする。
このインターフェースとしての南無阿弥陀仏、そしてスマートフォンは次のように書くことができる。
ここから言えることは、人はいつの時代にも他力本願であるということである。
浄土系の思想の変遷においても、時代が進むと共にインターフェースとしての念仏はより身近なものとなっていき、念仏を口に出さなくても頭の中で唱えるだけでよくなり、ついには踊り念仏というようなものまで出てきたのである。
これを改めてスマートフォンに置き換えると、インターネットという現代の神とも言える存在に対し、より身近でより自然で負荷の少ないインターフェースの構築が必要なのであり、そのようなものだけが人々に支持され受け継がれていくのである。
人はいつの時代も他力本願なのだから。
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