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目立ちたがり屋の素

中学生になり、吹奏楽部に入った。
パーカッション(打楽器)パートになった。
そこで、いわゆる鬼コーチに出会った。髪はベリーショートで、レッスン前は毎回机の上に、お茶と鉛筆と「しばき棒」と呼ばれる5本の棒を準備しなければならない、20代にも50代にも見える超小柄な女性の講師だった。

中1の私は本当に芋臭くて垢抜けなくて、しっかりメガネもかけていて、自他共に認めるどんくささも持ち合わせていた。ただ不器用ではなかったので細かいことは得意だった。渡される担当パートはどれも優先順位で言うと最下位で、余り物のようなパートばかりだった。先輩も沢山いる下積みの立場としては何もおかしくない譜割りだった。
怒られるのが怖くて、本当に頑張った。
中2、中3と月日が経ち、しっかりとしたパートが与えられるようになった。でもリーダーの座はたった1人の同期に取られた。取られたというか、どう考えても彼女が務めて当然だった。オールバックのポニーテールで、勉強も運動もそこそこ出来て、芯があって逞しくて、人気者だった。私は、これまた自他共に認めるスーパーサブとなり、その子の陰でちょこまか働いた。私たち2人の中ではお互いを相棒と思っていたが、周りから見たら完全に1番手と2番手だった。
鬼コーチも保護者会も、ずっと彼女をこのパートの顔として扱った。保護者会が私のことを褒めたのは、卒業式の後だった。

高校は、この鬼コーチがいる高校を選んだ。ポニーテールの同期は、中学卒業を機に海外へ移住した。私は、今度こそ鬼コーチに褒めてもらいたくて意気込んでいた。
高1の段階では、複数いる同期の中で唯一鬼コーチ免疫のあった私の動きの良さが抜きん出ていた。打楽器の技術的にというよりは、レッスン中の、あれ取ってこいこれが無いぞへの対応の速さや、あらゆるトラブルに対する予防スキルの方であったが。
鬼コーチはずっと、私の知っている色んな学生の名前を出し、私と比較して私がいかに劣っているか焚き付けてきた。私はまんまと燃え続けた。
高3になり、リーダーという名前はもらえたものの、パート割りとしては決して花形ではない立ち位置だった。特定の楽器に秀でて得意な同期に比べ、どれも何となく触れたためだ。どれも中途半端ということだから、何の自慢にもならない。
粘りに粘って、大学入試を最短で終え、卒業間近まで大会に出続けたが、結果はどれも振るわなかった。信じられないくらい泣いた冬だった。
鬼コーチからはようやく、鉄子というあだ名をもらった。私に向けて言ったのではなく、他校の先生に私を紹介するときに、こいつは鉄の女やと笑いながら言ってくれた。私は気付かれないようにまた泣いた。

大学では、もう鬼コーチと接する機会はなかった。鬼コーチになりたいとまで思った時期があり、音楽大学を目指そうとしたが、鬼コーチ本人に止められ諦めた。西田敏行ではないが、もしもピアノが弾けたなら、諦めるのはもう少し先送りに出来たはずだ。
大学入学当初から、実力の差を感じざるを得ないスター級の同期がいた。学年が上がるとこいつは部のトップに就いたため、私がパートの長になった。依然、エースは彼のままだった。


ずっとずっとずーーーっと、私は歯がゆい。

あくまで私目線の私中心の私だけの描き方であるし、細かな具体的な事象は何も書いていないので、薄く浅く見えるだろうが、私にとっては全てが、キラキラ耀く青春の思い出であると同時に、ドロドロ暗い悔しさの塊でもあるのだ。


吹奏楽と同じ、数分間の本番のために長い時間努力し、舞台に上がって披露し拍手をもらって帰る、お笑いの世界を選んだ。各パート複数人いる管楽器と違い、どの楽器もソロな打楽器パートを選択していたことも、今ピン芸人を選択していることと通ずるのかもしれない。

1人で目立ちたい。評価されたい。
私なんて、ブラジャーをつけた承認欲求である。

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