メルカリの不思議さ、定点化するインターネット
メルカリで4000円で緑色のソファを買った。スマホの液晶上に写っていたソファが今自分の家にあるというのは何か違和感がある。スマホの向こうの世界には、自分の家の中とは断絶しているように見えたけど、それが今接続しているのだ。そのソファ、一点だけが、この家の中でどこでもドアのような時空の歪みとして、どこかにつながっているようにさえ思える。そもそも受け渡しにしたって、大阪のおしゃれなエリアの中心地のレトロなマンションの下でソファが置かれその近くに携帯をいじっている見ず知らずの男性が座っていて、そこへほぼ何の気の迷いもなく私が話しかけられること自体も、どこか不思議な感じがする。
「ソファの持ち主さんですか。○○(メルカリの自分のユーザーネーム)です」
見ず知らずの人に、こんにちはと話しかけることはあっても、いきなり「持ち主さんですか」などと本当にいきなり物事の内容から会話を始めることはない。当たり障りのない挨拶や世間話からではなく、いきなり内容に入る。デートとかいいからすぐホテルへ行くような最短距離で目的を果たす関係性に似ていると思った。過程はどうでもよく、即物的。
メルカリとかジモティーとか、CtoCといわれる消費者同士が繋がるシステムは、新たな公共圏を生むのだろうか。斎藤幸平の『人新世の「資本論」』を読んでいたら、メルカリについて言及していたかしていなかった忘れたが、地域住民や地元の協同組合的な「市民営」を提言していたが、メルカリもその一つになるのだろうか。
今のところ、そうなるとは思えない。
確かに、ソファを売ってくれたおじさんは着く何分か前からマンションの一室から地上の道路沿いまでソファをおろし待ってくれていて、車に積み込むのも手伝ってくれた朗らかないい人であるとは思った。だからといって、そのおじさんとこの先関係が続くわけでもない。アプリ上で好評価を押しておさらばだ。何の接点も今後生まれないだろう。
そのおじさんとの繋がりが持続しないのは、そのおじさんとの共通項がないからだろう。ソファ、しかない。そのソファも私の手元に渡った今、そのおじさんと私を結びつけるものは何もない。一方で斎藤が言った「市民営」なるものは、同じ地域に住むとか同じ職場だとかのやはり共同体たる結びつきがある。そして、住まいや仕事はそう簡単に変わるものではないから、互いの関係もある程度持続する。
だったら、ネットもそういう変わりにくいものを組み込んだら、持続的な関係を築けるのではないかと思う。じゃあ変わりにくいものは何かと言えば、やっぱりアドレスなんじゃないかと。これは@〜のやつではなく、もう少し概念的なものだ。例えば、ネットにご近所付き合い的なものを生み出せればそれは一つの公共圏になるんじゃないか。あ、もうあるんだろうか。
これまでのネットはあまりに移動が自由すぎる、というか流動性が激しい。誰とも繋がれるから、結局誰とも繋がれなかったり、繋がりが刹那的であったり即物的になってしまう。
宇野常寛は遅いインターネットと言っていたが、定点化するインターネットとでも言うべき何かが多分必要で、それは斎藤のいう「市民営」に近いものがネット発でできるきっかけになるのかもしれないと思った。