孤独死の話
俺の暮らしているマンションで孤独死があった。
といっても
俺のものではなく
老いた両親の持ち家である。
昨年離婚して以来
両親の家の仏間に居候している。
亡くなったのは老人ということだが
男性なのか女性なのかはわからない。
ところで俺はこの「孤独死」という言葉を聞くたびに
妙な違和感を感じてしまう。
すべての死は「孤独」なものではなかろうか?
四畳半のアパートで死のうと
大病院の個室で死のうと
一人きりで死のうと
大勢の家族に看取られながら死のうと
すべての死は孤独なものではなかろうか。
すべての生が孤独なものであるように。
人は心という個室の中で生涯を生き
心という個室の中でひとりきり死んでいくものなのではなかろうか。
われわれは
価値観、利害、文化的な背景や宗教観、道徳観、または性癖などという
窓ガラス越しにお互いを覗き見ることはできるが
けっして自分の心という個室から外へ出ることはないし
そこに他者を招き入れることもできない。
あるいはその窓ガラスは
ときに愛や友情と呼ばれるものであるかもしれない。
だが、そこに薄く冷たい一枚の窓ガラスがあることは
なにひとつ変わらない。
ゴールデンウィークのテーマパークの雑踏の中で
恋人と手を繋いで歩いているときも
われわれは心という個室の中にいる。
そしてその個室の中で死んでいく。
生の明かりが消えるとき
その部屋にいるのは
いつでも誰であっても
ただ一人なのだ。
すべての死は
孤独死である。