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僕の知ってる山本鈴美香

僕の知ってる山本鈴美香について書こうと思う。写真は私のアルバムにある中学生の時の山本鈴美香です。私の育った時代は戦後の団塊の世代で、入学した浦和市立上木崎小学校は8クラスか9クラスあった。1クラスは55人くらいいた。4年生になる時に、新たに針谷小学校というのが出来て私は自動的にそこに行くことになった。その4年生のクラスで一緒になったのが山本鈴美香だった。背の小さい目の大きな、とても可愛い、色の黒いおしゃれな女の子だった。住んでいたのは小学校の目の前に出来たばかりの立野公団アパート。その頃の公団住宅は2LDKのおしゃれなダイニングキッチンのある、文化住宅と呼ばれていた時代の先端だった。
今にしてみれば狭くて大したものではないが、その頃の貧しかった僕らの時代にはそれは、大層オシャレな団地族でした。小学校の校庭から見て一番右端の棟の4階の一番右端が鈴美香の家だった。
担任の先生は土屋豊先生、埼玉大学の教育学部を出たばかりの元気でバリバリ新任の先生で群馬県横川の田舎丸出しのユニークな先生だった。
教室で昆虫を飼い、蛇やトカゲやカナヘビを飼い、カエルを飼い、夏は短パンにランニングシャツで椅子にあぐらをかいて授業する先生でした。山本鈴美香は明るく元気で快活な子でしたから先生からも可愛がられたし、蛇とか全然平気で掴んでいた。その、土屋豊先生がクラスの中に理科部というのを作って、僕と、山本鈴美香とあと、数人がいたと思う。夏休み前にはその理科部は活動し始めていて、先生から与えられたテーマは蝶々の鱗粉転写というものでした。鱗粉転写とは一羽の蝶の羽の表と裏の標本を作る作業です。蝶をを捕まえて、それを三角紙という中に入れて1週間ぐらい保管して乾燥させてから羽を切り離して、薄めの画用紙を二つ折りして中にアラビアゴム糊を塗りその間に蝶の羽を挟みます。さらに1週間ほど乾燥させて、今度は、太陽に当てながらハサミで羽の外形を切り取ります。すると、蝶の羽の裏と表の鱗粉が綺麗に画用紙に転写されて、羽は透明の形で残ります。
その、転写された裏と表の羽を別な台紙に貼り付けて一羽の蝶の裏と表の標本を作る。ボディーは後から鉛筆で書く。こんな作業です。中の作業もありますが、標本としては肝心の蝶を出来るだけ沢山集めなければなりません。天気の良い日は補虫網を持って田畑や雑木林や野山を駆けずり回るのです。最初はみんなでやりましたが、夏休みになる頃は、僕と山本鈴美香と二人だけで毎日のように走り回っていました。お握りを持って水筒を襷掛けにして、彼女は時々サンドイッチだったかな?
蝶々には沢山の種類があります。モンシロチョウ、モンキチョウ、シジミチョウ、蛇の目チョウ、ゴマダラシジミ、アサギマダラ、ゴマダラ蝶、アゲハチョウ、黒アゲハ、キアゲハ、瑠璃アゲハ、オオ瑠璃アゲハ、ジャコウアゲハ、キタタテハ、瑠璃タテハ、オオムラサキ、天然記念物のギフチョウとか。
沢山の蝶がいるのに、春蝶と夏蝶は大きさが明らかに違う。オスとメスでも違う。
こうなると、珍しい蝶や見たこともない蝶に出会えばどこまでも追いかける。
だから、夕方に二人でクタクタになって帰ることも多かったし、途中木陰で休んだり、お昼を食べて寝てしまったこともあったような気がします。何を話したかは記憶にないけど、互いに知らないことは殆どなかった気がする。鈴美香の弟のこと、お父さんのことお母さんのこと田舎のこと。そして、互いの家を行き来して、小学校の4〜5年生はクラス替えもなかったのでそんな感じでした。独身の先生の下宿先の家にも遊びに行った。小学校6年の時はクラスは違ったけど、二人でよく遊んだ、その頃から二人で本をよく読んでいたし読後の感想を話したりした。意識はしなかったが互いにとても好きだったと思う。
中学はまた、一年生でクラスが一緒になり、僕は男3人の親友が出来、3人でクラシックギターを弾き始めた、その中に山本鈴美香は僕らのマスコットのように存在していた。その頃から、鈴美香からは大学ノートに書いた物語を渡されて、読んだ感想はどうだったか?しつこく聞かれた気がする、その、物語の空いた場所に挿絵が書かれていたのは記憶にある。そして、その物語りは毎回そうなのだが、登場人物は常に外国人の名前、トーマスとかジェフとかマルガリータとかウエンディーとかアンやジョンやマリーやデビッドやローズとかだった。
中学2年から3年にかけてはそれが、とても多くて読み終わると次が用意されていた。この頃には互いに好きな異性が別にいて互いにその相談が多かったかな?

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山本鈴美香は小学生の時とても可愛い子だったけど、だんだん普通になっていったかな?でも、彼女のことを好きな人は多かったと思う。中学3年の時には親にも言えない事件があって、それは彼女に来たラブレターだった。まだ幼い考えの僕には衝撃的で「貴方が好きです。貴方の汚れたパンティーをください」みたいな内容で、しかもそれがその時の同じ学年の生徒会長からのラブレターで、二人で読みながら、団地の棟と棟の間で途方に暮れていたのをなんとなく覚えてます。
高校生になると彼女はメガネを掛けて、暗い目立たない女の子になって行き、文化祭の時には必ず「鷹松君〜一緒にいてくれる〜」と連絡があった。彼女が好きな男の子が、僕の親友で彼は熱烈な恋愛をしていて、二人でテニスをしてるのを、僕らは屋上から眺めていた。彼女はPFC(=ペンフレンドクラブ)の部長で海外の人たちと文通していた。高校出てからは山本鈴美香とは年賀状だけの挨拶になり、全く疎遠で、あれからは一度も会っていない。
その後10年くらい前に小学校3〜4年の担任だった土屋豊先生が埼玉県校長会の会長になり退任された時、黄綬褒章かなにかの叙勲を受けて皆んなでお祝いした時があった。先生は山本鈴美香は元気かな〜と。誰もが彼女の消息や連絡方法を知らなかった。僕は彼女の田舎が山梨県の長坂でお父さんの家とお母さんの家は坂の上と下だったと記憶があり、たしか、どちらかが薬屋さんだったと・・・・・。
長坂の蕎麦屋、「翁」に行くついでに聞き込みをした。今は塩山に居ると、親戚筋の人から聞いいて、帰りに訪ねたが、宗教の閉鎖的な応対で、今は、集英社の編集長と年に一回会うだけで、あとは誰とも会わないそうですと・・・帰って来た。
僕の中では漫画家になってからの山本鈴美香は知らないので、私の記憶では小学生の頃から〜高校までの記憶のままです。
漫画「エースをねらえ」を読んだのは結婚して数年が経ってから。
実は本当に漫画家になっていたとは知らなかったのです。
読んでみて、「お蝶夫人」そうか、鈴美香らしいなと思った。
そう、実は山梨県の長坂は「オオムラサキの里」でもあります。
そして、鈴美香が好きだった親友の京郷は東堂!僕は、新聞部の部長?
「鷹」字が付いてチラッと出てきた。
埼玉県立西高は正門から校舎の感じはそのまま描かれている。
僕と走り回った見沼田んぼ、雑木林も描かれていたりする。
記憶の片隅にあるものを書き留めてみました。
(尚、前述の生徒会長はその後日本マクドナルドの店長から出世して、独身のまま早くに亡くなられたそうです。)

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