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死際の大花火【旅先ショート⑩】

今回の舞台は愛知県新城市長篠城より


お化け屋敷に入って一番安心する瞬間は、緑色に光るピクトグラムを見た時だ。小さな頃は、非常口のドラノブに手を掛けたこともあったが、励まされる度にドアノブを離して前を向いてきた。それは、出口で待っている達成感が『若者』を待っていたからである。

それに、いざドアノブをひねろうとすると、案外怖気づくものだ。

人は類まれな生存本能でできているから。

夜が怖いなら火を灯せばいい。マンモスと出会ってしまったのなら、知恵を使えばいい。襲い掛かってくる騎馬武者が怖いなら、銃を使えばいい。

誰だって、暗闇でも走り続ける術を確かに持っているのである。

だが、人はその制御を失ってしまうこともある。その制御を失ってしまえば、簡単にドアノブをひねってしまう。


ーー今の『若者』のように


『若者』が目を覚ますと、そこは間違いなく長篠城址だった。さっきまで見ていた景色に、筆先の、から水を一滴垂らしたようなぼやけた世界。何かが違う、その違和感がぬぐえないまま体を起こした。

「俺は、この滝壺に飛び降りたはず……」

 『若者』は自分が身を投げ入れたはずの滝壺を見下ろした。長篠城に防衛に使用されていたとされる碁石川が目下に流れている。かつては天然の堀として使用されていたこの川は、『若者』の命を奪うのには十分な高さと岩肌を持っていたはずだった。

「まともに死ぬことすらもできないのか、俺は……」

 死に場所を探していた『若者』が立ち寄ったのは、‘‘長篠の戦い‘‘で有名な、長篠城址である。長篠城の入口には大きな立て看板があり、そこには磔にされた人間が描かれていた。その磔にされた男が持つ‘‘死‘‘のエネルギーが『若者』の心を誘ったのである。

『若者』は今生きている事実に落胆し、その場を後にした。

こうして生きていても達成感の一つもありやしない。それならさっさと死んでしまいたかったのに、神様はそうさせてくれなかった。『若者』は「ドアノブをひねることも正当な権利だろう」と呟き、雲の上にいるだろう神様に唾を吐いた。もちろん重力に下った唾が、自分に返ってくることは百も承知である。

唾が乾いた匂いが、わずかに漂った。間違いなく自分への罰に相応しい、愚かな行為であることは確かだ。死を簡単に選んでしまった自分が不甲斐ない。そういう気持ちは確かに心の中にある。それに、心の中で渦を巻く自責の念とともに、「生き延びたい」という生命の灯が、泥団子みたいに真っ黒な心の中で確かに輝き続けていた。
ーー磨けば輝くことを知っていながら、無気力な『若者』は死を選んだ。

長篠城址を出た『若者』は道を横断してお寺に入る。これもまた、どこか不思議な死のエネルギーを感じての行動だった。今の若者にとって『死』というのは希望であり、生きる理由だ。自らに与えてくれる言い訳が、少しでも自責の念を減らしてくれれば、天国に登れる気がしたのである。

きれいに整った石の階段を登っていくと、こじんまりとしたお寺が見えてくる。丁寧に手入れされているだろう植木がお寺を囲み、参道以外の足場には、真っ白な石が敷き詰められている。真っ白な海に浮かんだ参道の先に、本堂があった。

「なんだ? あれは……」

 不思議だったのは、本堂の縁側に甲冑を来た武士が4人座っていたこと。
お猪口を手に、「ガハハハ」と笑い合っている。その様子を目にした瞬間、世界が音を取り戻し、4人の武士が騒ぐ声が『若者』の耳を支配した。

『若者』は、ぼんやりとだが死後の世界であることを悟った。

「おい、そこの若いの。こんなところで何をしている!」
 右に座っていた武士が声を荒げる。

「いえ、特に何も」

「なら、お前さんもこっちにこい! 一緒に酒を飲もうじゃないかぁ」
左に座っていた武士が、陽気な声を荒げて若者に手招きをする。武士たちは明らかに酔っぱらっていた。提案に背いて刀を抜かれるのも悪くなかったが、断るのも面倒だった『若者』は、大人しく従い縁側の中心に腰掛けた。

「お前さん、どこから来た? 見かけない顔じゃな」
 真ん中にいた武士が言った。

「えーっと……江戸です」

「江戸って、武蔵の江戸かぁ?」

「ああ、そうです。武蔵の江戸です」
 会話が奇跡的に噛み合っている。生きる時代が400年違っても、死後の世界でならこんな会話もできるのだと、正直感心していた。

「おいおい、江戸の兄ちゃんよ、武田の『ババ』ちゅう名前は聞いたことあるかね?」
 右にいた武士が、『若者』の肩を叩いてそう言った。

「お前さんの名前なんて誰も知らんだろうよ。それよりも、武田の『ヤマガタ』だろう?」

「いやいや、武田の『ナイトウ』だ」

「馬鹿かお前らは、武田の『ツチヤ』だ」

他の3人の武将が立て続けに叫んだ。「自分のことを知っているか?」という質問だと察することはできたものの、肝心の名前が『若者』の頭の中でヒットすることは無かった。

「えーっと、皆さんの名前は知りません」

『若者』がそう言うと、縁側には一瞬の静寂が訪れる。
4人の武士たちは互いに見つめ合い、息ぴったりのタイミングで笑い出した。「ガハハハ」と、がらがらの声が響き渡った。

「わしらの名前まだ武蔵には届いてないのかぁ」
 ババと言った武士がそう言って、お猪口を口にする。

「だが、この兄ちゃんも、明日明後日には私らの名前を聞くことになるだろうなぁ……」
 ヤマガタと言った武士がそう言った。

その後も四人は楽しそうに会話を弾ませる。誘ったのは4人のはずなのに、『若者』を蚊帳の外にしておしゃべりを続けていた。他人が入る余地がないぐらい仲良しの4人を見ていると、友達と呼べる人間がいないことに虚しさが募った。

「あの、4人はどんな関係で、どうしてこんな場所で宴会を開いてるんですか?」
 一瞬の会話のひずみに、喉元に溜まっていた疑問が飛び出してしまった。

「ーーわしらは、武士としての死装束を整えてる最中や」
 ナイトウと言った武士が答えた。

「あなたたちは死ぬんですか?」

「その様子だと、今の状況を何も分かっていないのだな。兄ちゃん、あっちを見てみろ」
 ツチヤと言った武士が、お寺の向こうに見える山に指を差す。その先には、無数の黒煙が空に向かって伸びていた。

ツチヤが言うには、明日には、多くの人が命を落とす大きな戦が始まるのだそうだ。「ーーそれに、私たちは敗北するだろう」と嘆息を漏らした。なにやらお偉いさんらしい4人は、命を失うことを確信しているらしい。だから最後に、このお寺で宴会を催していたのであった。いわゆる最後の晩餐だ。

それでも尚、4人は笑い合う。

『若者』は不思議に思う。どうして死ぬ間際にこんなに笑っていられるのだろう。自分の価値観から遠く、理解が及ばない。死に逃げるか、死から逃げるのか。それが人間なのだと思っていた。

「武士たるもの、死際が大事なのじゃ。派手に敵陣に切り込んで、一人でも多くの敵兵を切る。それで御屋形様を守れるのなら、美しい死に方に違いあるまい」

「武士としての生き様を見せつけなきゃな」

「未来でわしらの名前が残るぐらい戦ってやるわ」

「どうせ死ぬなら、最後まで抗ってやりましょう」

4人は目配せをして、お猪口に口を付けた。雰囲気が一変し、肌がヒリヒリするような空気に包まれる。4人の目には、確かな命の炎が宿っていた。今にも引火してしまうほど、強く燃え盛っている。8つの目が、一斉に向こうの山に向けられて、空に向かう黒煙を凝視していた。
ーー彼らは死を悟ってはいても、負けることは微塵も考えていない。
死際に大花火を打ち上げるつもりだ。
きっと、それは美しく、心に焼き付く花火に違いない。

『若者』は思い立ったように立ち上がり、参道を引き返す。


「おい、兄ちゃん。わしらと戦わんか? 義勇兵なら募集中だ」
 ババが大きな声で叫び、『若者』は振り返る。

「俺も、最後まで抗ってから死のうかと。美しい死に方ってやつを探しに行こうと思います」

「そうかぁ、兄ちゃんにも戦う場所があるんじゃのぉ」
 ナイトウがとろけた声で言う。 さっきまで殺気立っていた縁側は和やかさを取り戻し、ただの酔っ払いおじさんたちが戻ってきている。

「明日は、武蔵の兄ちゃんに知られるぐらい暴れてやらんとなぁ」
 ヤマガタが刀を振る仕草を繰り返しながら叫んだ。

「皆さんの名前、憶えておきますから」

「わしらの名前を未来永劫語り継いでおくれよ」
 ツチヤが笑って手を振ってくる。

「さようなら」

『若者』は挨拶を済ませると、振り返ることなく階段を下った。
4人の笑い声は、お寺を離れても止むことは無かった。


冷たい水の感覚で目が覚める。
全身が強烈な痛みに犯されて、息をするのも精いっぱい。目線の先に流れる川の水は、血を吸って赤く染まっている。途切れることなく血を運ぶ川の水が、死と結びつく無数の赤い糸のように見えた。

「もう少し、もう少しだけ」

『若者』はなんとか立ち上がり、自らの手で赤い糸を断ち切る。泥と血にまみれた体を軽く拭って、木々に覆われた頭上を見上げた。

「あんな高いところから落ちて来たのか……」

もう一度、目線を落として血だらけの体を眺める。死に際の大花火はこんな真っ赤な色がいい。

『若者』はこの状況を脱するために知恵を振り絞る。『若者』は口角を上げて笑った。

さぁ、どこから上まで戻ろうか。



今回は長篠城と大通寺が舞台でした。大通寺は、長篠の戦い前夜に武田家家臣であった馬場信春、内藤昌豊、山形昌景、土屋昌次が水盃を交わした井戸があります。4人の覚悟は後世にまで伝わっております。というのを書きたかっただけです。

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