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上半期ベスト映画

さて上半期も終わりみなさんいかがお過ごしでしょうか。自分は毎日Youtubeを観ています。選択による疲弊からの自由を担保し、私と言う個人のために最適化されたパーソナルに心地の良いコンテンツを流し続けるこの悪魔をどうして退ける必要がありましょう。一緒にこの快楽に溺れてしまえば悪魔も私もwin-winと言うわけなのです。7月も中盤に差し掛かったところで突然にこのようなイントロで半年ぶりにnoteを更新するに至っている訳は、暇を持て余しインプット過多になった脳味噌が何らかのアウトプットを作業として要求しているからに他ならず、本来はこのような形でブログ形式にして上半期の映画を発表する予定はなかったものの、せっかくなら余計に作業を面倒にしてしまえと、内なる声が叫んでいるのでこのような形式になりました。文章、書くのは嫌いじゃないけどやらされないと書くところまで行かないぐらいの立ち位置にあり、Twitterで上半期ベスト出すと宣言し、反応をもらってようやく重い腰があがるなど。と言う趣旨の企画です。3ヶ月も劇場に足を運ばなかったのは映画館に頻繁に通うようになった高校1年生以来と言うもので、久しぶりに映画館で観た『AKIRA 4K』ではオープニングから訳もわからず泣いた。何年か前からiTunes北米アカウントを使って海外の映画を観ている立場で、最近は配信限定の映画もあるし、年々新作映画とそうでない映画の境目は曖昧になっており、独断で選ぶ新作っぽい映画の中から選出する運びになっていることを先にお断りした上で本題に入ります。


とても良かった他の新作映画たち
『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ 』『ペイン・アンド・グローリー』『最高に素晴らしいこと』『ミッドサマー』


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『The Beach Bum』  ハーモニー・コリン


フロリダ映画好きを勝手に自認する立場から言わせてもらえれば、数あるフロリダ映画の中でもハーモニー・コリンが撮るフロリダこそが至高であり、そこに議論の余地はないよねと言うぐらいにこの人の撮るフロリダの描写はずば抜けている。日本公開の目処もあまり立っていなさそうなので映画の概要をぱっちり説明するとほぼ本人役で出てくるマシュー・マコノヒー演じる作家/詩人が、莫大な資産を失ってタイトル通りフロリダのビーチを流浪する様を描くというもの。いけ好かない成金リッチのジョナ・ヒルや日の丸ハチマキを巻いたザック・エフロン、怪しいにも程があるボートツアーで船長を務めるマーティン・ローレンス等のクレイジーな面々が旅路を彩るロードムービー的な味わいがあり、物書きを生業とする主人公は超アナログなタイプライターを担いでこの流浪に繰り出すわけだが、その物理的な重みが、フロリダ式デカダンスの愉しみにのせたこの映画のヒューマニズムを支えているのではなかろうか。ありとあらゆる唐突な出来事に見舞われる主人公の体験が血となり肉となって、新たな彼自身の象を作り上げているということ、それを彼がフィジカルな感覚として受け止め、文字通り肉体を動かしてタイプライターが起こしだす作品へと還っていくというこの流れの中にあたたかい何かを見とらずにはいられないのだ。

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『1917』   サム・メンデス


兎にも角にも今年のアカデミー賞映画は優れたものが多かった。単に優れているというだけでなく、観てちゃんと面白い映画が多いというのも素晴らしい。アカデミー賞はどうあるべきか云々ということをこの場で語り散らかすつもりは毛頭ないのだが、年々スノッブなブルジョワの祭典と化しとしてマスへの訴求力を欠きつつあったアカデミー賞が今年は大衆娯楽としての映画を盛大に祝福する場となったこと。そうした作品群の中から最有力であった『1917』ではなく『パラサイト』が受賞を果たしたということの意味は大きいだろう。最もそこにはノミネートを許されなかった多数の優れたインディ映画の影がちらついているわけではあるのだが....何はともあれ『1917』である。映画は長く回せばというものでもないという指摘は最もだが、少なくともそこに至るまでの技術的な挑戦と野心が称賛に値するものであることは作品の出来栄えとりわけトーマス・ニューマンのスコアと並べて中盤の酩酊状態を引き起こすような「街」のシーンを見れば明らかであるように思う。リアルで過酷な戦場のドキュメントという方向づけではなく、戦士の観ている光景は一筋のロマンチシズムを生み出しえないだろうかという問いにチャレンジしているようにも映るメンデスの試み自体に倫理的な禁忌を覚えこそすれ、実際にそれが映し出す画の力にどれだけの人が抗えるというのか。その恐るべき光景が、魅了する光景へと引っくり返る瞬間へのアプローチ、その達成に自分はただ拍手を送るしかないのである。

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『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』 アリス・ウー

一番好きな映画のジャンルは何かと尋ねられれば、意地の悪い自分はおそらくその答えが示唆する皮肉の相互作用も込みでラブコメと答えるだろう。Netflixにある青春ラブコメの類に目がなく皮肉抜きで『Kissing Booth』の続編を楽しみにしていることからもあながち嘘ではないので許してほしい。キッチュな遊びを本気で楽しめるというのも、生きていく上で重要な素質だと、そう思いませんか?とにかく本作が優れていると感じるのは、劇中での言及にも観られるその映画的素養の高さに支えられた筆致と合わせて、そうしたラブコメの遊びの部分を決して蔑ろにせず、舞台装置として機能させる意匠の部分にある。ラブレターの代筆という突拍子もない提案から始まる三角関係、というこれ以上ないジューシーなティーンラブコメのトループから、このニュアンスの物語を送り出せるということがアメリカティーン向け市場の表象文化の豊穣を物語っている。あの悶々とした恋愛感情は、結ばれた瞬間に消え去ってしまっていい類のものなのだろうか?駆け引きのゲームに終始したとして、果たしてそれが正しいと言えるのだろうか、その居処の取り留めなさを反芻していること、その景色の先には一体何があろうかということをこの映画は描いている。アリス・ウーが直々に作品に向けて綴った書簡もまた感動的なので是非読まれてほしい。
https://twitter.com/NetflixJP/status/1261629469585846272?s=20


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『ジョジョ・ラビット』 タイカ・ワイティティ


ワイティティはMCUマイベストのソー3作目を手掛けていることもあり、美的センスとコメディの部分にかけては信頼を寄せていた部分もあったが、これほどパワフルでエモーショナルな作品に仕上がっていようとは。というのが一番率直な最初の感想で、映画における反復(靴・踊り・ハグ)の卓越に感服したかと思えば、何よりも踊りという行為に託された大きな幸福感情の離散的なイメージの力にひれ伏してしまった。その祝福される身体感覚への揺り戻しに、自分が想定する「映画」を観ることがしばしばあり、そうした点で観賞そのものがパーソナルな体験に収束していったこと、が自分にとってこの映画を好きでいる唯一無二の理由になり得ているのではないかなと。映画の魅力そのものをキャラクターであるとか、撮影であるとか-それらはもちろん素晴らしく、初めに書き連ねた文章はそれを押し上げたものであったのだが−そういう他律的な問題として処理をすること自体が今こうしてここに書を記しながら物足りないと感じられたので、やや要領を得ない文体になっていることを承知しながら書き上げている。そういう不思議な体験をこの映画はもたらしたということになる、というのが自分にとってこの映画に送られる最上級の称賛であるということにしておく。

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『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』
グレタ・ガーウィグ


甘美で雄弁かつエフォートレス、グレタ・ガーウィグ女史を讃えよ。という他ない見事なお仕事で、劇中のジョーさながらガーウィグが新世代の巨匠への道をひた走っている。流れるように捉えられるローリーとのファーストエンカウンターから、意表を突く正面ショットの手紙朗読、時間軸を行き来する構成、一手一手の所作がこの物語が要求するままにかつ上品に従えられており、海辺のそれを初め豪勢なプロダクションに支えられたショットの雄弁な事といえば、筆舌に尽くしがたいものがある。ひたすら客体に徹する事で妖麗な魅力を放ち続けるティモシー・シャラメ、ルイ・ガレルの抗い難い立ち振る舞いを導き出すのもやはりこれまたガーウィグの監督としての卓越に他ならないのだが、極め付けはクリス・クーパー演じるミスターローレンスとベスのピアノを巡る一連のストーリーラインにある。ジョーの物語であるからして、物語の中心にあるとは言えないこちらの線にまで丁寧な注意が払われ、劇中の高みの一つへと到達せしめる運びが、劇中世界の実存性を高めている。そして更に言えばそのジョーが物を書く世界はガーウィグが映画を撮っているこの世界まで地続きであるということ。この醜悪な邦題を受け入れろというのは難しいがある意味で、若草物語を自身への物語と手繰り寄せるその勇気と達成がこの作品の何よりもの美点であるのかもしれないことは、アーティストの仕事として最も誇られるべきことであるように自分は思う。

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『フォードvsフェラーリ』 ジェームズ・マンゴールド

端的に言ってしまって自分が映画に求める類のプリミティブな快感がこの映画には完璧に詰まっている、というのが自分の評価で、正しく映画が運動を捉えるという時に、このカーレースほどの興奮は生み出し得ないかもしれないという確信が並び立ってしまうほどの衝撃があった。全身に鳥肌が走るような、胸が熱くなるようなこんな感覚が映画鑑賞を通じて得られるというその体験としての豊さを支えるありとあらゆる映画的な技巧がそこにはあって、それはアカデミー賞を獲得した編集・音響であったり、たらい回しにされる書類、サングラス、完璧なラップ、 7000RPM等のモチーフが反復される優れたシナリオ選択にあったりもするのだが、究極のところで正しく撮るという映画監督の職業倫理の問題であるような気がしていて、その点において、カウボーイなマット・デイモンの佇まい、父と息子の夕暮れ、ケンとマイルズの関係性、レースカーにしか持ち得ない運動の正体と言ったものを必死にカメラで捕まえようとしたその試みに結局のところ最も価値があるのだと思う。さすればそれは自然と観客の感情的な反応へと還ってくるものであるという、そのどっしりとした貫禄のある構えが『フォードvsフェラーリ』を自分にとっての上半期のベスト映画にしているような気がしてならない。




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