モラトリアム


「随分と寝ていたね」

 僕が仮眠に入った時とコマ送りの様に変わらない姿勢のまま、彼は小さく呟いた。
その目はしつこく流れ続けるパソコンの文字列から逸らされないままだ。そんな無表情の彼の顔がぼんやりと薄青い電子光に照らし出されているものだから、僕は一瞬幽霊にでも会ったかと考えてそれを打ち消した。
まだ寝惚けている頭を振り、先ず質問を投げ掛ける。寂雷、今何時?午前二時五十分だけれど。この会話の間も、彼がデスクの画面から目を逸らすことはない。ねえ、その仕事はそんなに面白い?

「君は流石だよ。普通の人間は上司が匙を投げた仕事を一晩ではこなせないだろう」
「まあ、簡単な仕事だったし……。ていうか、それ前言ってた医療会社からの報告書?」
「ああ、難病治験の件だよ。この薬の実用性を証明出来れば、以降数千万人規模の救済が可能になると言っていた。喜ばしいことだ」

 その口調は深夜にそぐわない滑らかで起伏のあるもので、冷静沈着な彼らしくないというよりは、ほんの少しだけ昔の彼に似ていた。
 もっと具体的に言うなら、頻繁に酒を口にしては酔いに敗北していた彼のものだ。ゆっくりと視線を滑らせて辿ると、彼は酔った時のようには髪を後ろに梳き上げていないし、以前は徹夜でよく腫れていた目もしっかりと開いている。彼は僕を出会った時から変わったと評するけれど、僕からすれば変わったのは彼の方だった。

 しかしそれでも、彼は彼だ。他の人間ならばいざ知らず、僕は彼の内情をそれなりに知っている。今は医者として社会に従事する彼の本来の夢が、世界中の人間を不条理の軛から解放することだと知る人間が、この世に何人いる?
 死にも打ち克って、世界の隅にまで届く腕など存在しない。彼はただ現実を知って、妥協を手に入れただけなのだ。

「目は醒めたかい?そもそも、どうして君はわざわざこの病院で仕事をしようと考えたのかな」
「え〜、何その言い方。僕、明日は朝からシンジュクでプレゼンがあるんだよね。だからここでご飯も食べてく!いいでしょ?」
「……好きにしなさい。サプリメントもエナジードリンクもやめろと言ったところで、君は聞かないのだろうね」

 けれど、彼は頑なに夢の中途実現を諦めなかった。争いを嫌う自分の信条さえ曲げて、妥協を重ねる彼は不可思議で興味深かった。それに他の仲間も悪くないから、僕もずっとDirty Dawgに身を置いている。
 僕自身は刺激的な空間さえあればそれで良い。現状肯定力の高い自分にとって、概ね状況は悪いものではなかった。

 カシャンと無機質な音を立て、缶のプルタブが上がる。思えば女の子たちとのデート以外できちんとした食事を最後に摂ったのはいつだったか。懐古趣味でもないのに、今夜は益体のないことばかり思い出す。過去は事実の記録以上の意味を持たない。そんなものに縋って生きるくらいなら、机上で新たな空論を創り出す方がまだマシだった。彼に対してだって、僕はずっとそうしてきたのに。
 
“そんな食生活はやめろと言っているだろう!?身体に良くないから”
 ラップバトルにも慣れ、酒も控えて世間擦れした彼は、もう僕に対して怒ることは無くなってしまった。部下にも軽い叱責のみのようだ。理由なんて分かりもしないけど、そんな事はもう今更である。

「看護師の彼女はもう帰っちゃったの?」
 互いに無言のまま、僕が缶の中身を一口とクッキーバーを1本消費した頃、彼に向かって再び口を開いた。
「そうだね。いくらあちらが手伝いに意欲的でも、あまり夜半まで残しては帰り道も危ないだろう。可愛い女の子が恋しいかい?何処かのヒロインの真似でもしようか」
「やだよ〜。遠慮しとく」
 仕事を続けながら僕に声を掛ける彼の表情は凪いでいる。機嫌だって、ジョークを口にするくらいには良いようだった。けれどそれは僕ではなく、彼の取引先の芳しい研究成果に向けられたものだ。

 僕はもうずっと、あの奇妙な空間に留まり続けている。始めは4人きりだったDirty Dawgには一人二人とフォロワーがやって来て、遂には一郎の幼かった弟が出入りする歳になった。
どうして彼が夢を半端に捨て切らなかったかは結局わからなかった。この世界は確かにつまらないけれど、目まぐるしく進化し続けているし、それなりに思いのままになる。
どうせなら現状を楽しみながら、反旗を翻した方が面白いに決まっているのに。

 でも、想像はできる。僕と違って、彼は理想から程遠いこの世界を許容できないのだろう。n×0がゼロなら、n÷0もゼロだ。僕らは同じものに手を伸ばしていながら、理想への道筋は真逆だった。不条理だと寂雷が嘆き憎むものを、僕は障害だとは思えないのだ。
神宮寺寂雷がDirty Dawgに配置されたのは奇跡の采配だった。僕と違って彼には破壊の才能が無かった。夢を追う為の妥協と詭弁、結局は彼だって、目的の前には手段を問わないことを許容してあの席に着いたのだ。

 僕は自らの希望が潰えることの遣る瀬なさを知っている。他の誰にも知られないところで、自分の目指してきたものが共有者に崩されるのは、腹立たしいし虚しいことだ。
 生憎、僕が彼と共に目指してきた夢は、皮肉にも彼とは共有できないものだった。彼ならば、先頭に立って世界を『面白く』できたかも知れないのに。

「ねえ寂雷」
「どうしたんだい」
「大人になるってどんな気持ち?」
「二十四にもなって何を言っているんだ、君は…」
はいはいと首を竦めてスケッチブックを開く。殺風景な診察室で異彩を放つそれの中に詰まっているのは、僕がこれまでに創った服飾品のすべてだ。
 世界変革の理解者は消えた、でもそれが何?僕と彼の大人の定義は違う。

 彼が病の根絶などという悪魔の証明的命題でなく、医療の発展に従事することを選んだのは合理的な判断だった。世の中は対義語の選択問題のようには出来ていない。だから責めも笑いもしない。彼は例えば郷に入りては郷に従えという諺のように、場違いな事が不似合いな人間なのだ。

「……大人とは成人の事だ。感慨なんて無いよ」
「うわあ、つまんない答え。寂雷どうしちゃったの?僕、君に質問してるんだけど」
「それは…悪かったね。考え事は苦手だ」
「ウソばっかり」
何かを取り違えたままの会話が進んで行く。勝手に彼に失望する僕も、勝手に僕に期待する彼もバカみたいだ。
 でも、それを糺せる人間はここには居ない。直截的なミゼラブルハッピーエンドを享受できないなら、この診察室に息をする場所はないのだ。彼がそれに気づいているかどうかは別として。

 ふと時計を見れば三時をとうに過ぎていて、それなのに彼の御大層な仕事熱心には些かの翳りも無い様だった。
 キーボードを叩く音のペースは僕が仮眠から起きた時と一定のままで、きっと僕が眠っている間もそれは同じことだったのだろう。
そう思っただけで何故だか無性に心が苛立って、僕はクッキーバーの残りを喉奥に押し込んだ。表面に緑の爪痕が大きく印字されたエナジードリンクは半分も減っていない。今夜はもうこれ以上、何か生産的な事が出来るとは思えなかった。

「僕はもう1回寝ることにするから。仕事が終わったら声かけてくれない?」
 拗ねたような口調になっている事を自覚しながらデスクの方へ声を掛けると、何を勘違いしたのか彼は「まだ眠いのかい?」などとお門違いの事を訊いて来た。

「きみはチームに不可欠な戦力なのだから。体を労わる事をいい加減覚えなさい」

 きっと何の気なしの台詞だったのだろう、あくまで同盟相手への域を離れない彼の反応は、僕個人には最早関心も無いことを密かに示していた。それが音も立てずに自分の心に引っ掻き傷を残す。
僕は盲じゃない。彼ほど莫迦でもない。
他人の考える事くらい、きちんと察せる大人だ。
 だから、何処までも僕の勝手な期待を裏切ってくれる彼に、八つ当たりのような悪戯心が芽生えたのは仕方の無いことだ、と心の中で弁明をしながら、僕はある行動を起こす決心をした。

 僕は左を見て、右を見て、お目当てのものを探す。一口飲んだだけのエナジードリンク——炭酸飲料水だ。彼は相変わらず執念く目線をデスクに固定したままである。
それを今夜初めて都合がいいと思いながら、僕は缶に炭酸を閉じ込めておける栓をして、音のしない程度に激しく振った。
 まるで反抗期の餓鬼のようなしっぺ返しだと自分でも呆れながら、心持ち張り詰めた缶を栓付きのまま彼に差し出す。

「なんだい?」
「エナジードリンク。勧められたから買ったけど、キライな味だったんだよね」
「ああ……」
生返事のまま受け取り、栓に手をかけた彼をわくわくしながら見守る。
 自分の中に、こんなくだらない事で気持ちを上げる機能がまだ生きていたのか、と思うと複雑な気持ちだったけれど、それはそれだ。抜かりなくじりじりと彼から距離を取りながら、その時を待つ。

 そして、プシュッ!と音を立てながら栓が緩まった途端、爆発寸前だったエナジードリンクが隙間から勢い良く溢れ出した。
 流石の彼も目を丸くして、濡らせない備品から距離を取る。自分としてはもっと派手な戦果を期待していたのだけれど、即席にしては及第点だろう。

「…あのねえ」
暫くハンカチで周りを拭いていた彼が、溜息混じりに口を開く。
「なあに?寂雷」
 僕は漠然とした期待感を持って彼を見返す。遂に仕事の手を止めた彼は、濡れた缶を片手に困った様に訪ねた。

「…これは君の仕事の実験なのかい?私には君の言うお洒落が、一欠片も理解できないのだけれど」

 考えるよりも先に口から鋭い吐息が漏れる。今彼は実験と言ったのか。それなら服を濡らされたことを怒りもしない?
 頭では昼の安いドラマの様な台詞を幾つも思い浮かべながら、しかし運のいい事に口を衝いて出た言葉は全く別のものだった。

「小さい頃か悪戯されたことも無いわけ、寂雷は」
「私の周りにそんな幼稚な子はいなかったよ。ああ、友人の雰囲気は三郎くんに似ていたかもしれないね。内面は別としてだが…」
「……ああ、一郎んとこの、外面良い方の弟ね」
Dirty Dawgで親交がある一郎の、弟である三郎とは何度も顔を合わせた事こそあったものの、私的な会話をした記憶は一度もない。
 小学生だか中学生だかと一郎が言っていたが、そうは見えない他人行儀な話し方をする彼はいつも一郎の隣に立って、していることをただ見ていた。

 もう大人に近くなって来た最近は手伝いもしているようだけど、態度は初見の時からあまり大差ない。ときに兄に熱の篭った目を向けながら、兄の望む通りに利口な口を開く少年。
僕は少しばかり三郎が不快で、不得手だった。

(ああでも君の友人とやらだって、君の嫌味な白衣をぐちゃぐちゃにしてやりたいと思ってたに決まってるよ)
何事も無かったかのように予備のワイシャツに着替え、仕事を再開しようとしている彼を横目で睨みながら、僕は残った缶の中身を煽った。
(こんなことじゃ、足は止められても彼の興味は一ミリも動かない)

 彼は知る由もないだろうけれど、僕がここに居続けたのは彼がここにいたからだ。一郎も左馬刻も個性的だし楽しいが、それは遊び友達の域を出ない。
 
 寂雷の、目に映る世界の色を知りたかったから。僕は刺激的なものが好きなのだ。近くに引き寄せて、触れてみたいと思った。それは、僕が期待したものとは違う種類のものだったようだけれど。
僕はあと一歩で、致命的な言葉を発してしまいそうになった。ねえ、昔の夢はもう諦めた?その仕事はそんなに大事な物なの。けれど、それを言った瞬間、今の状態が崩れてしまうことも理解していた。

 彼は、既に妥協をしてここに居る。僕がそれに触れてしまえば、彼はDirty Dawgから居なくなってしまうかもしれない。僕からあの場所を壊してしまうのは何となく嫌だった。 場違いなスタンディングオベーションを送る観客は退場札を出されてしまう。そんなことくらいは、僕でも弁えているつもりだ。

「それで?君は寝るのかい?寝るなら上着は脱いで、ソファで寝たらどうかな」
声を掛けられて渋々向き直った時にはもう、彼はまたデスク作業に戻ってしまった後だった。つまんないなあ、本当に。
 言われた通りにするのもなんだか癪で、僕は上着を身につけたまま、デスク脇のソファに腰を下ろした。

「看護師の彼女が来るまでには起こすからね。君の寝起きは本当に悪過ぎる」
「うーん……善処するよ」
 僕は最高潮に不機嫌な声で返事をして、デスクとは逆の方向に寝返りを打った。

 ふと目を開けるとそこは自宅ではなく病院で、そう言えば昨日は残業がてら泊まり込んだのだと記憶を蘇らせる。
 ひとりきりでない手前、寝まいと思っていたものの結局眠り込んでしまったようで、不自然な姿勢に凝り固まった首や肩が酷い音を立てた。

 頭も漸く冴えてきたところで立ち上がり、横を見る。結局寝落ちたらしい彼の寝顔が目に入り、少し愉快な気持ちになった。
 そろそろ看護師が一人か二人やって来てもおかしくはないけれど、そっとしておいてあげようと決めて備え付けのブランケットを掛けてやる。彼は普段から睡眠時間が不定期なようなので、きちんと寝ているかが心配だった。
まあ、眼前で寝てくれるくらいには信用してくれていると思っても良いのだろうか?
 彼の考えている事は理解できるようでできないけれど、他のふたりを含めた四人での交流を得難く思っていることが伝わっていればいい、と思う。

「あ」
思慮に耽っていた所に突然、彼でも自分でもない声がして、驚きながら振り返ると扉の横には看護師が立っていた。時刻は八時。まあ保った方だろう。

「おはようございます」
 上司以外の先客がいるとは夢にも思わなかっただろう彼女は困惑したようにこちらを見、彼を見て、もう一度こちらを見た。
 それはどのような感情の発露なんだろうか?
取るべき行動に困り、間を空けてから挨拶を返す。
「おはよう。その……、彼はまだ眠っているようだから」

 優秀な部下は、言わんとすることを瞬時に悟ってくれたらしい。鞄をきちんと持ち直し、彼女は一礼して踵を返した。
「それでは私は待合室の掃除をしていますね。お客さん、もてなしてあげてください。神宮寺先生」


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