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風が連れる一瞬の光、忘れがたい蒼。真冬のフェロー諸島への旅 。

大西洋の北のほう、スコットランドとアイスランドの間にポツンと浮かぶ島々、フェロー諸島。1月の終わり、観光客は皆無。寒々と風が吹き荒れる場所へ12日間の旅をしてきた。

フェロー諸島:18の島々からなる火山島、5.3万人が暮らしている。デンマーク領でありながら自治権をもっており、独自言語のフェロー語もある。漁業がGDPの約90%を占める。

旅の準備、リスボンでフリースを買う

海へ出るならば、風に吹かれるなら、機能性のある服が必要だ。旅立ちの前日、フリースでも買おうと思ってリスボンで古着屋さんをいくつかまわった。ほとんどのお店ではフリースがなくて、なんとか見つけだしたColumbiaの水色のフリースジャケットを買った。あったかい、軽い。またすこし極地生存力があがった。
道中で安くなっていたスカートも買ってしまった。5€。リスボンの古着屋は結構ツボをおさえてくる。

世界の端っこの、小さな“フォルケホイスコーレ”へ

フライトは朝5:00発。それなら空港で一眠りすればいいと思い、23:00頃、リスボンの空港に着く。
わたしたちは丸い地球を24分割して時間を分けているが、ポルトガルとフェロー諸島は同じUTC+0の標準時間に位置する。つまり、北に進めば着くということ。それなのに家から宿までは24時間近くかけて行くことになってしまった。
リスボン→ アムステルダム→コペンハーゲン→ソルバグール(フェロー諸島)と3本の飛行機を乗り継いだ。航空券を取るタイミングが遅かったし、予算的にもこれが最善ルートだった。ヨーロッパ内なら航空券ぐらい割と直前でも問題ないだろう、と思いきや冬のソルバグール行きは少ないらしいのだ。
夜8時ごろに予定通り着陸して空港に吐き出された乗客は、自家用車に乗ったのかタクシーに乗ったのか知らないが、トースハウンの市街へ行く大型バスには私しか乗っていなかった。静かな旅の始まり。

今回訪ねた“わたるん”は去年の夏から半年間、「フォルケホイスコーレ(参考リンク載せます)」という日本から見るとかなりネオな学校に留学している。旅立った先は、びっくりするぐらい世界の端っこだった。
僻地かつ諸島ってところにも魅力を感じたし、フォルケに滞在してクラスに参加したりしたかった。いつか参加するかも、と思って2年前にもコペンハーゲンのそばの学校を1日見学したことがあった。結局わたしが選んだのはポルトガルでの野良猫的な滞在だったけど、実はまだ少しだけ可能性を信じているから、わたるんが居るうちにと思い旅程を組んだ。

規模が小さなアート系のフォルケで、生徒は8人。グリーンランドやフェロー、デンマーク本島、ガーナ、日本…などバックグラウンドは多様で、20代がマジョリティのようだが17歳もいれば70歳の方もいた。これがフォルケホイスコーレの面白いところだよなあ。
特に70歳でデンマーク本島から来たおばちゃんがムードメーカー的存在で、彼女がいなければ、またこのクラス内の雰囲気も変わっていたのではないかと思う。

みんなでご飯を食べたりヨガしたりプール行ったり

フォルケホイスコーレは全寮制であることが特徴的で、今回わたしも11泊をこの寮の空き部屋で滞在させてもらった。食事は3食すべて学食で食べる。毎食だれかと一緒に食べるというのは、ヨーロッパでの生活が始まってからほとんどなかったことで、ご飯の時間にひとりじゃないってすごくいい。13:30のランチのあと17:30にディナーという詰め込みっぷりで若干の無理はありつつ…。ゲストにも食事を与えてくれるのだから文句垂れる筋合いはない。なんといっても北欧圏は外食文化がなく、レストランや町で食事をすると4000−5000円使うことになるので、本当にありがたかった。

朝はヨーグルトにナッツとか軽めのシリアルとか入れて、アボガドと卵とミニトマトとか。デンマーク流のうっすい板チョコ pålæg chokolade(ポーレイチョコ)やルバーブジャムなどもあって、パンはいつも2〜3種ある。
ランチはどでかいままのサーモンにレモンを乗せてオーブンで焼いたようなびっくりする料理とか、ボロネーゼ的なやつ、チキンカレーなどなど。。。
基本メニューはオープンサンドイッチ:Smørrebrød (スモーブロー)形式。デンマーク流で、ローストビーフ・スモークサーモンなどやパテ、タルタルクリーム的なものを好きなように乗せて食べる。メイン系のものが1〜2品あって、「もっと食べたきゃパン食べな」的な発想に思えた。薄く切って食べるライ麦の黒いパンは、慣れるとハマる。
小さなタルトパイにクリームシチューをいれるTartelet(タルトレット)が出た日はみんな大喜びしてた。これ、また食べたい。
それらをみんなでバクバクと食べてぺちゃぺちゃ喋る。なんだかんだで陸前高田で体験していたフォルケホイスコーレ的なことに慣れてしまっていたが、改めてみると、先生たちも一緒にご飯を食べるのはおもしろい。とにかく毎食バイキング形式だったので、お腹いっぱいに食べすぎてしまった。

ある晩、ガーナの青年を筆頭に「日本語っておもしろいよねえ〜」という話になり、70歳のおばちゃんがわたるんに「日本語でわたしをけなす言葉を言ってみて!w」と頼み、わたるんは「う〜〜〜〜〜〜〜〜ん」と悩んで少し躊躇しながら「クソババア!」と言った。「シットなオールドウーマン」って意味だよの説明で、みな笑い転げる。みんなが「KUSO BABA」という音を繰り返すよくわからない夜。違う文化や言語が面白いっていうだけで笑い合えるのだからなんて幸せなんだろう。

クラスのある平日は毎朝9時からヨガ。ヨガの先生も来てくれる形式で、朝起きて棟内にある小さな体育館的なところに降りていけばいいだけでヨガを受けられる。最高の環境。
毎週水曜は午後のクラスが早めに終わるので、行きたいメンツでプール&サウナ施設に行く習慣もあった。ひさしぶりにサウナ→キンキンの水風呂というのをやって、温水ジャクジーに浸かり、お風呂好きのプライドを取り戻した。15mの飛び込み台とか、スライダーも、フィットネスゾーンもあった。飛び込みは怖くて出来なかったけどスライダーは楽しんだ。

フェローホイスコーレ

この手はシャッターを押すためだけじゃないよ!

ここのフォルケホイスコーレはアート系の学校。わたるんに聞くと、陶芸からガラスアート、木工、絵、製本…とか本当にいろんなことをやったみたいだ。楽しそうでいいなあ。やっぱり通ってみたいかも。

そんななかで、わたしが滞在した期間では通常のクラスを止めてZINE制作のワークショップクラスが行われていて、まるまる参加させてもらうことになった。セメスターごとの恒例行事のようだった。みんなで1冊をつくりあげるわけだが、各々ページの中身は自由。それぞれ思い出深かった日のことをエッセイにしたり、みんなのポートレートを描いたり、雑誌の切り抜きコラージュをしたり、言語について研究インタビュー的なことをしたり⋯。
わたしは、みんなに「あなたにとって海をひとことで表現すると何?」という質問をして、ちょっとしたイラストなどを交えて1ページにまとめるということをやってみた。

とにかく楽しかったのは、とってもアンティークなタイプライター、色とりどりのマーカーやインク、レシート用紙に印刷できるミニプリンター、好きに切り抜いていい古雑誌、ぎざぎざはさみ…とか、なんでも使ってやってみな!というほどたくさんのツールにあふれていたことだったと思う。

この頃のわたしはスマホ依存で、シャッターやキーボードを押すとか、機械と触れ合っている時間が多くて、複雑に動かすことを忘れた手になっていた。旅をしようと思い、モノを持たなくなればなるほど、紙とか糸とか、色とりどりのペンとか、そういうものから遠ざかっていた。ずっしり重いカメラとMacBook、服、洗面具だけでも10kg以上あるんだから、自由に使えるカラフルなペンや紙なんて贅沢品。
子どもに戻るように、下手くそとか関係なく、手を動かして、「こうかな?」いや「こっちかな?」とかってやるのが好きで、図工や美術の時間を思い出した。

ZINE制作とは関係なく、1970年とかの雑誌をしばし読みふけてみたり、船の写真、フェリーや郵便局の広告を切り取ったりしてコラージュをつくった。蛍光オレンジの紙に青いインクで落書きした。
こんなに楽しいんだった。学校ってすごい。手を動かす楽しみを思い出す時間は本当に幸福だった。
わたしは小学校の頃みんなが持っていたあの水挿しや絵の具セットをいつかのタイミングで捨ててしまったし、高校の頃のアクリル絵の具もどこかにいった。「絵を書くことなんてないだろう」と思ってた。最近は、どうやったら荷物を減らせるかばかりを考えていたけど、いっときは諦めて編み物とか、落書きとか、特に製本をやりたい。ipadやデジタルではない選択肢を探そう。

私設水族館までフィールドワーク

トースハウンの港もよう

このフォルケホイスコーレの寮は2万人ほどが暮らす首都・トースハウンにある。
北欧特有の暗い赤褐色の家、カラフルな家。過度な装飾はなく剛健だけど、色だけが目立ってなんかかわいい。そして、伝統的であるという草屋根。日本でいう茅葺き屋根のようで、自然の中で生活をつくってきた歴史がうかがえる。

港が一番低いところにあり、まわりの家々や街から港に下りていくような地形。大きな造船所もあり、港には無数の漁船・ボート・ヨットが係留されていた。家のカラフルさに応じて、船もパステルな水色をあしらったようなものもある。
寮の部屋の窓からも港が見え、アイスランドへ就航する大型フェリーが停泊しているのがよく見えた。夏にはたくさんの豪華客船も代わる代わる寄港するようだ。
太陽に愛される南欧ポルトガルから来ると、すべてのコントラストが面白い。太陽が高く登らず控えめにのぼって沈んでいくことも、背筋が伸びるような寒さも、人々の表情も、全然違う。

トースハウンの港

海と生きる、を深ぼっていくための旅の練習

この1年のヨーロッパ旅全体のテーマは「海と生きる」を深ぼっていくことだ。これがいまのわたしが本当にしたいこと。
いまだに有象無象なのだけれど、とにかく海のそばにいて素材を集めているところ。いまは素材を集めたり、人と出会ったりということをしていて、出会う→素材を集める→〇〇→〇〇という次の段階はこれからということになりそうだ。

ことフェロー諸島では、独立精神が強く、誇り高い文化・伝統を守っていこうという気概を強く感じた。1970年の古雑誌にあった「フェロー人は魚をパンに変える」という見出し。火山島であり年間降雨日数も多いここでは、野菜・果物・穀物をたくさん育てられる環境なく、多くは輸入に頼っているため、この見出しのような現状は今も続いている。
魚に限らずイルカ・クジラ漁もしてきた彼らには、海とのつながりにおいて強いアイデンティティがある。
ということで、今回2人の漁師さんに取材をさせていただくことができた。

気さくでフレンドリーな冒険家漁師

フェローに到着した次の日に、インスタから連絡をとっていたトォリクさんという漁師に「着いたやで!いつか会いに行けるかしらん?」と連絡したら「明日なら天気がいいよ、ボートトリップに行こう!」と言ってくれた。なんだそれ!泣けるほど最高じゃん。でも正直なところ、めっちゃ緊張したし、心配なことだらけだった。

①会ったことない人の船にひとりで乗りに行く!?
②めっちゃ寒いよね!?
③英語どのぐらい通じる!?
④船酔いする !?
⑤てか公共交通の先の足がない!
というように、明日!?ちょっと待てぇ!?と思ったが、ここでの滞在は限られているし、この真冬に晴れで風の少ない日はかなり少ない。明日しかない。明日決行。
首都トースハウンから1時間ほどで隣の島に行ける。バス停から彼の港の近くへの移動が問題だった。もう、頼むしかなかった。「ごめん、まじですみません、バス停まで迎えに来てくれません?タクシーでそこまで行くのは高すぎる、車は運転できない、無計画やねん、あかんなごめんな…」と頼むと、彼はバスの時間に合わせてわたしをピックアップしてくれ、港までいざなってくれた…。
ここまで書いていて、今までだったら全部信じられない。こんなことしたことない。その一部始終のやり取りの横でわたるんに「ねえ、まじでどうしよう〜〜わたるんも来て〜〜うえ〜〜ん、迎え頼むのやばいかな!?やばいよね・・・」と泣き寝入りしていた。

結果的には
①会ったことない人の船にひとりで乗りに行く→フレンドリーすぎてすぐ友達みたいになった。なんでそんなにフレンドリーなの?
②めっちゃ寒い → 船室のなかに入ればあったかい。ここでは船室をあたたかくする文化があるようだ。それと、アドレナリンで寒さをあまり感じなかった。
③英語どのぐらい通じるやろ→めっちゃ普通に英語で話せた。
④船酔いするかも →かなり揺れたし3時間ぐらい海にいたが、1錠だけ持っていたアネロンニスキャップ(船酔いの大定番薬)の勝利。漁師の友達が教えてくれたガム噛み戦法も安定。
⑤バス&迎えで行けた。往路は彼がトースハウンに行く用あるからと行って寮まで送ってくれた…

わたしのような「海の取材したいです!」と言いながら「車なくて港まで行けない。。。てゆうか船酔いするかも…てゆうかスニーカーしかない…準備不足で本当にすまん!!!」という感じの日本からノコノコやってきた女に寛容なのは、たぶん彼が鱈漁2ヶ月、休み2ヶ月というサイクルのうちの、休みの間でちょうど余裕がたくさんあったからだろう。

彼の話、ボートトリップはとてもおもしろかった。これからZINEか雑誌かの形でこの取材の内容はアウトプットしていくつもりなので楽しみにしておいてほしい。途中海で何人かの漁師の友達と挨拶を交わし、鱈を釣って帰ってきた。
彼は鳥の猟もするという。しかも崖だらけのフェロー諸島では船で射つのだという。アイスピッキングで氷の崖を登ったり、200Kg級のサメをひとりで釣ったりする人で、本当に刺激を受けた。「inspire」されるとはこのこと。

生まれ変わっても彼のようにモダン・ヴァイキングにはなれないだろうけど、自然のなかで生きている人の忙しさって本当に、いいな。ああ、きっとわたしこういう人に出会い続けていって、少しずつこっちのほうに進んでいくんだろうな。(※北欧ヴァイキングとは、北欧系の海洋民族)
岩手という土地との出会いから始まった海や山との付き合い方の原体験も、きっとこの先の人生で大切なことになっていくだろう。

そもそも寛容な方なのかもしれないが、少なくともこんなわたしをボートトリップに連れて行ってくれるフェローの漁師さん、本当に忘れられない出会いになった。

海面から見上げる島々のドラマ

うつくしい夫婦と海と空から、たくさんのことを教わった日

学校で陶芸ワークショップを催してくれているグウイの旦那さんが漁師さんということで、取材をさせていただけることになった。
旦那さんドウルはある国のコミュニズムから自由になりたく、国を出てバルセロナにいたとき、旅をしていたグウイと出会い、フェロー出身のグウイと暮らすことになって30年以上。(このあたりのことも、また別のアウトプットのときキャッチアップしてほしい!)

お話を聞かせてもらった翌日に、船に乗せてもらえることに。酔い止めがないと!やばい!ということで薬局で調達。
晴れ晴れとして気持ちがいい日曜日、トースハウンの港を出港した。いつものように遠くまで行くのではなく港からほど近いところでいつもどんな風に釣りをしているのか見せるね、と言ってワイヤーを下ろすと、ものの5分ほどでコッド(鱈)が釣れたので、氷を積んで早めに帰ることに。
1時間ぐらいの海上だったけれど、やっぱり海は見ているのとそこに出ていくのではまるで違う。たったの1時間なのに、身体の中が入れ替わるような気がした。

その日の午後は、地元住民で構成される「サンデーウォーキングクラブ」という、なんとまあ素晴らしい響きのグループでのトレッキングに参加させてもらった。なんと過去最高60人もの人出。グウイは15人ぐらいじゃない?と言っていたので、珍しく人が集まった日だったようだ。というのも、晴れ予報で風も少なそうで、真冬にしてはウォーキング日和だったから。ぞろぞろと出発し、途中何人かと言葉を交わす。

島の海岸線を這っていくコースで、ひたすらに壮大な海が広がるなかを転ばないように歩いた。地面は草が風になびいて横にながれ、ふかふかの芝生を敷いたみたいになっていた。晴れの予報で気持ちよく歩ける予定が、途中硬い雪がパラパラと何度も降った。雨よりは濡れないのでいいのだけど、顔に当たるとすこし痛いぐらいの硬い雪だった。

解散場所へ着き、各々帰っていくなかで、陶芸家のグウイが「tea ceremony」をしましょう!と言って日本茶の入った水筒と彼女のカップを出してくれる。何キロも歩くのに陶器のカップを持ってきて、ふるまってくれる心意気に尊敬の念。しかも日本茶!

本当においしいものは、そこに至るまでのプロセスにすべてが詰まっていると、雄大な自然は教えてくれる。はあ、また言葉を超えた、ビヨンドマイマインド。ため息しかでない。
そのとき彼女が口にした「ここでは天気も雲も、ずっと同じじゃない。変わり続けている。いまを生きていないと簡単に美しい景色を見逃してしまうのよ」という言葉。ここで生まれ育った彼女が見てきたこの島もようを、わたしも胸に刻もうと必死に目の前の大海原を、カメラで捕まえようとした。

二人は、彼女が2018年に京都で展示会に参加した際に日本を旅したときのことをたくさん話してくれた。彼は日本をいたく気に入っていて、船に乗せてくれたときも「日本でたくさんの素晴らしい経験をしたからこうして僕もホスピタリティを返すんだよ」と言った。どこかのおもてなしの心をもった日本人、ありがとう。恩をつなぐ人間ってのは美しいよ。

トレッキング中に手あげて写真とった

ノルソイ島で島民たちとビール休憩

翌日に帰りの飛行機が迫った滞在最終日。首都トースハウンから少し離れた歴史エリアに足を運ぼうと思っていたが、当日にバスを調べたら昼から出て夕方に帰ってこれるような都合のいいバスはなかった。しっかりと僻地の洗礼。シティガールが抜けてない。
気を取り直して、滞在中ずっと向こう側に見えていたノルソイ島という離れ島に行くことにした。フェリーターミナルへ向かいながら、「観光するときは前日に計画して交通手段を調べること。家を何時にでるか決めておくこと」と心に刻む。いや、身体に刻め。

ノルソイ島は、200人ほどが住んでいる小さな島。トレッキングするのが楽しい島のようで、断崖絶壁と春夏の鳥鑑賞以外には観光客がすることは何もない。でも、フェリーに乗りたかったからとりあえず行ってみることにした。
時間より早くフェリーに乗船して写真を撮ったりしながら出港を待っていた。全然乗客いないなあと思っていた矢先、何やら騒がしい集団が乗ってきて「おい!ビールいるか!?乾杯するか!?」と海賊みたいなノリ。
ちゃっちいパーティー用のアイパッチをしていたりおもちゃのピストルを鳴らしたりしている20人ぐらいの海賊風集団。頭の中がハテナになりながらも、フェローのクラフトビールを飲みたかったので、快くいただくことにした。船でビール、うま。
「あなたたちは何者ですか?!何が起きているのですか!?」と聞くと、どうやらこのフェリーを島民のために無料化することが議会(?)で決まったようで、それを祝っているとのことだった。

島に着いた。とりあえず、トレッキングロードの入口ぐらいまで行って断崖絶壁を見る散歩。清々しいほど誰もいない。崖のそばに立って、深く深呼吸をする。ぽつんと置かれたベンチは強風で倒れていたが、起こせそうだったので起こして腰をかけてみた。

── この冒険をするべきだった。

今見返すと、ここで書き留めた言葉は論理から離れ、手癖のようだった。

途中、手を後ろにまわしてトボトボと歩く島民のおばーちゃんとすれ違う。
「どこから来たの?」
「日本です!」
「ああそう」
「まじで誰もおらんね、おばーちゃんここの人?」
「そうね、冬は平和ね、この先歩いたとこの家に住んどる、そんじゃね」
「よい一日をね」
「ほいほいあなたもね」
というスモールトーク。すれ違いざまにささやかなやり取りが生まれたことも、彼女が「ピースフル」だと言ったことも、またこの場所をいい場所にした。
フェリーに乗る前に、Googleマップでどうやらカフェが一軒あると調べていた。そこでぼーっとこの旅を振り返ったりしながら書き物でもしようと思っていた。しかし、着いてみたらマップの「営業中」とは裏腹に完全に冬季休業的雰囲気…。椅子はテーブルにあげられ、真っ暗だった。
さっき海賊たちが言っていた「島に行っても何も空いてないよ!でも、これからローカルパブを俺たちのために空けるからそこに来たらいいさ!」という言葉が思い出される。
本当に何も空いてない。しかし次にトースハウンに戻るフェリーは3時間後。。。フェリーターミナル的な建物もない。ターミナルのそばに小さなコンビニみたいなスーパーがあって、そこだけはあたたかく人影がある。しかし3時間スーパーに居座ることはできないため、民家突撃型で暖を取らせてもらう以外はそのローカルパブへ行くしかない。またGoogleマップを信じて裏切られちゃったなあ。

ローカルパブへ足を運ぶと、あの海賊集団がみな集まって飲んでいた。完全に場違いなのだが、仕方ない、お邪魔させてください。遠慮がちに入店すると、「おお来たか!」と言わんばかりにスープ飲みなさいよと、カップもりもりのスープをふるまっていただく。そして、ビールを頼んだら「今日はこのビールあげるよ」と2杯目のビールも授かる。本当にハッピーな日なんだな今日は…。
フェロイーズ(Faroese)は英語を話せる率が非常に高く、ここの酒場でもひとしきりおしゃべり。「俺、仕事でYOKOHAMAに船で行ったぜ、多分それ以外にも日本の色んな港行って、世界でいろいろ荷物運んだ」という海賊的おじさん。屈強な腕にはコンパスのタトュー。
ああ、こうして世界の端っこにはまた「あ、おれ、船でそこ行ったぜ」の人がいるのだ。これをすでにポルトガルでも日本でも体験したことがある。

ここは、ローカルパブでありつつミュージックバーのような感じで、突然はじまるセッション。ジャック・スパロウみたいに「ぐぅはっはっはっ」って笑うバーのオーナー。なにか冗談を言って笑い合ってることだけはわかる。
そうこうしてるうちに私も杯をあけてしまう。そして「マジっすか、いいんすか?」的なノリで3杯目も授かる。「BLACK SHEEP」という名前のフェローの醸造所のビール、うまい!

そんな風にして帰りのフェリーまでの時間は楽しく更けていった。本当の旅はGoogleマップに裏切られてから始まるのかも。みんな優しくしてくれてありがとう。ふわふわと楽しい足取りで島を後にした。

海賊たちのビール

忘れがたい蒼、一瞬の光

ここフェローで生まれ育ったグウルが言った「一瞬一瞬の今を生きなければ、見逃してしまうことばかりなのよ」という言葉。ほんとうに、そうだった。この滞在で何度もあった空、風、色、光にハッとするという体験。

わたしは船の上で、海面から雲に突き刺す無数の虹の足元を見た。
島々の岩肌がスポットライト的に部分的に陽に照らされているのを見つけ、そこに意味を探した。
陽が挿したと思えば、あられ雪が降き荒れ、気づいたらそれは雨になり、雲を呼び、そして虹になった。

ZINEのクラスで紙に向き合っていた夕方にふと顔をあげると、見たことのない、蒼い空だった。それはちょうど手にしていたインクの蒼と同じ、藍のような深く暗い蒼だった。

朝8時ごろの空もまた、わたしの知らない蒼い空だった。色鉛筆の「そらいろ」や水色ではない。深く深く闇を携えた蒼。そんな蒼は、きっと中緯度の日本やポルトガルとは太陽の動きが違うことによって生まれるのかも?そんなことをぼんやり思ったりしながら、朝を迎えた。

こんなに北まで来ると、日常がこんな色や光で満ちているのか。知らなかった。
世界は、まだまだ広がっている。好奇心の眼を生かしながらこの“地球を感じるような冒険”をまだしばらく続けたい、強く思った。

旅人への分け前

「ここはわたしたちの土地である」という意志をもった人たちが生活をしている場所は、どこもそれぞれに美しい。そのことを確かめるため、そこにいる人々の声を聞きたい。これは揺るぎないわたしの旅の信念になっていくだろう。

そして、彼らの土地から彼らが受け取っているものを、旅人であるわたしが分けてもらえることがなんてありがたいことなんだろう。取材をさせてもらった方々や学校の周りで、このフェローで紡がれてきたたくさんの物語を教えてもらった。

もらったものを返すために、ここに書き残し、誰かにこの旅のことを伝えていく。そして、形にしていこう。

たくさんの人にあたたかく迎えられ、わたしはとても勇気づけられた。
世界には、こんな風に自分を受け入れてくれる場所があり、人がいる。自分が世界に心を開いていれば、世界はどんどん開いていくんだ。ありがとう。

遅めの起床でも朝日に間に合う
美しい空を書き留めんとするわたるん(極寒)

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