宗教としてのオタクについて その1

 宗教としてのオタクについて書きます。

 オタク趣味が宗教に例えられることはよくあります。また、神、布教、信者、聖地巡礼など、オタクが自分たちにまつわる概念に対して宗教の用語を転用することも多い。オタクは自分たちの性質についてむやみに大げさに表現して面白がるところがあります。しかしそれを差し引いても、彼らの感覚として、自分たちの状態を表現するために宗教の用語をあてはめることがどこかしっくりくるからこそ、このような言葉が使われているのでしょう。また、最近は「推し」という表現が使われることも多いですが、例えばアイドルにハマるオタクについて言うなら、そもそもアイドルという言葉が偶像からきている以上、宗教的な要素がまったくないと考える方が不自然と言えます。ではオタク趣味は、ここでは特に推しにハマるという形のオタク趣味は、いったいどれほど本当に宗教的だと言えるでしょうか。

 オタク趣味がどれほど宗教的と言えるかを考えるにあたって、まず宗教とはそもそも何かという問題から整理しましょう。この問題は極めて難しいですが、ここではまず宗教学者ルードルフ・オットーの説から見ていきます。『聖なるもの』においてオットーは、宗教なるものの核心を、彼が「ヌミノーゼ」と呼ぶものについての経験に見ています。

 ヌミノーゼとは、「聖なる」という言葉で表現される種々の意味内容のうち、かっちりとした合理的な概念では捉えきれない、名状しがたい非合理的な要素を指します。神的ななにかに畏怖しながら同時に魅惑されるような、なんとも言葉にしがたい感情がヌミノーゼな感情です。そしてこの感情こそが、オットーの考える宗教の本質です。

 では、推しに対してオタクが持つ感情はヌミノーゼな感情と言えるでしょうか? 推しを前にしたオタクを想像してみましょう。わけの分からない嬌声を上げるオタク、あるいはぎゅっと目を閉じて肩をかき抱き「尊い…」ともらすオタク。人の心について論理的に断定することは難しいですが、彼らが胸に抱えている感情は確かに、言葉にしがたく尋常でないなにかであるように思われます。

 オットーはヌミノーゼについて、畏怖を覚えると同時に魅惑されるようなものと表現しています。オタクの感情について考えるなら、魅惑の部分については納得がしやすいでしょう。間違いなくオタクは推しに強く魅惑されています。しかしながら畏怖はどうでしょうか? 畏怖という言葉が持つニュアンスのうち、例えば畏れ多く感じるだとか、畏まってうやまうといった要素は、オタクが推しに対して感じていると言ってもいいかもしれません。しかし畏怖という言葉は、恐怖するだとか、戦慄されられるといったニュアンスもまた持っており、これらについてはオタクの感情としてはどうもそぐわないように思われます。

 ヌミノーゼな感情は様々なニュアンスが混在したものですが、このうち恐怖や戦慄、あるいは不気味さといった部分については、オタクには当てはまらないようです。この当てはまらない部分についてもう少し考えてみます。ここでは、哲学者ジョルジョ・バタイユの議論を参考にします。

 『エロティシズム』にてバタイユもまた、聖なるものの二面性、すなわち恐怖と誘惑について書いています。この議論におけるキーワードは「禁止」と「侵犯」です。禁止とは私たちが生きていくための諸々の規則や制約であり、具体的には暴力の禁止、浪費の禁止、淫行の禁止などの形をとります。禁止は私たちの、少しでも長く命が存続してほしいという不安から生じるものです。侵犯とはこれらの禁止を破ること、すなわち暴力であり浪費であり淫行です。これらは宗教的な供儀や祝祭の場で実行されます。禁止は生への固執であり、侵犯は死への接近です。ゆえに侵犯には恐怖が伴いますが、しかし同時に私たちは侵犯に魅惑されます。不安に裏打ちされた禁止は私たちの命を維持するのですが、禁止のうちにいる間は私たちはこの不安に苛まれ続けます。私たちは侵犯を通して聖なるもの≒神的なものを経験し、この経験は禁止を発生されていた不安、生きることへの不安から私たちを解放するのです。

 オタクが推しにハマるという行為には、バタイユ的な禁止と侵犯は見受けれれません。推しはただ魅力的であるだけで、それにハマることはタブーでもなければ反社会的でもありません。よってオタクは推しに恐怖や戦慄を覚えることはない。この意味で、オタク趣味はオットーやバタイユの想定していた古典的な宗教とは異なります。しかしこの恐怖心の不在には、ある現代的な意義も見出せるのです。社会学者ジグムント・バウマンの議論を見てみましょう。

 『コミュニティ』にてバウマンは、現代を「液状化した社会」と捉えています。近代以前までは社会および共同体は強固なものであり、その抑圧や制約も厳しいものでしたが、反面人々は、なにかあった時も仲間に助けてもらえるという安心や、人生についての長期的な展望を抱きやすい状況にありました。現代では生活の基盤としての社会は不安定化し、人々は自由を手に入れましたが、同時に他人を頼れず、競争を勝ち抜き、自分の力だけで生きていかなければならないという不安にさらされることになりました。

 このことを前提にして、禁止と侵犯の話を振り返ります。以前であれば社会は堅牢な檻のように感じられており、そこから力強く脱出していくことだけが専ら問題となっていました。しかし社会が液状化し不安定なものとなった現在、事態はより一層ややこしくなっています。すなわち、社会からの包摂を失った私たちは強い不安に苛まれるあまり社会にしがみつこうとしてしまい、脱社会的な侵犯を為す勇気をくじかれてしまっているのです。このことは例えば、ネットでの炎上騒ぎなどにおける、社会的な逸脱への強烈でアレルギー的な反発にも見られる姿です。しかしながら社会の中に閉じこもっているうちは、バタイユが問題にした不安、生きることへの不安は、以前と同じように募っていくのです。

 このような現状を踏まえると、オタクが感じている聖性に不気味さ・恐ろしさの要素が見受けられない点について、積極的な意義を見出すことができます。ここでの恐ろしさとはすなわち、「今まさに社会の則を踏み越えているのだ」という自覚に伴う恐怖です。現代の私たちはこのような、社会からの自覚的な脱出をなかなか達成できません。言い換えれば、私たちが必要とする聖性への糸口は無自覚的なもの、「そんなつもりはなかったのに気付いたら社会の外に出ていた」というような形をとるものです。

 オタクが何かを推すことは、法的にも倫理的にも特段問題はありません。オタクはそれに際してなんら恐ろしさを感じる必要がない。にもかかわらずオタクが聖性に開かれているのだとすれば、それはオタク趣味が社会的に禁止されてもいないが、奨励されてもいないからでしょう。アイドルにハマることがキャリアの形成に有利に働くということは通常考えられません。将来値上がりすることを見込んで投機的にグッズを買う人をオタクとは呼ばない。「将来に備えよ」「競争に勝て」と強迫的に求められるこの社会において、「別にダメじゃないけどそんなこと特に意味はないよ」と目されている何かに特別な価値を見出し、そこに熱中するとき、オタクは社会を相対的に捉えられる視座、すなわち聖性を経験するのです。

 宗教の本質を聖なるものの経験に見た場合、オタクが経験しているそれは伝統的な宗教が想定したものとは性質的に異なっていました。しかしそれは、液状化した現代社会、侵犯という脱出がより難しくなってしまった現代社会において、それでも私たちに達成可能であるためのものであるというのがここでの結論です。推しの聖性はオタクに、中世の神々がそうしたように、生きることの不安を忘れさせてくれます。この意味でオタクは確かに、この現代において宗教的であるのです。

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