『ゼルダの伝説』について

 繰り返される秩序の創造について書きます。

 古い時代、デュルケームの表現を引いて社会がそのまま宗教であったと表現できるような時代にあっては、人々は定期的に開かれる祝祭を通じて、自身が身を置く世界の有様を確かめていました。エリアーデいわく、人々は祝祭のなかで、神話における世界の創造を模倣し、それによって世界の秩序を新たに定位しなおしました。秩序のない混沌にあっては、人々はなんのために、なにをして生きていけばよいのかが分かりません。神話における聖なる世界、あるいは聖なる秩序の創造は、人々に彼らが生きる世界の始まりを示し、彼らに生きることの動機付けと方向付けを与えました。それはいわば、人々に対して、始原における秩序創造の動機付けを感染させたということです。この神話の余韻はしかし、時間とともに退潮していきます。人々は世界がどのように始まったのかという、その最初の動機の実感を忘れていってしまうのです。そこで人々は定期的な祝祭を通して、始原の創造を模倣し、これによって自身が身を置く秩序の価値、生きる意味について繰り返し経験しなおしていたのです。

 『ゼルダの伝説』シリーズには新しさと古さとが絶妙に混ざっています。主にシステム面については、常に新しい遊びの在り方が模索され続けていますが、反面シナリオについては古くからの王道の筋書きが踏襲され続けています。侵略者の登場によるハイラル王国の危機に際して、作中で語り継がれる伝説の通り、勇者が姫と力を合わせてこれを打ち払い、王国の平和をふたたび打ち立てる、という範型は、シリーズ作品の多くで採用されています。

 このような筋書は上述の祝祭と重なります。王国の秩序は一度成立したからといって永続するものではなく、長い時間のなかで幾度も危機を迎え、そのたびに、つまりシリーズ各作品ごとに新しく打ち立てられます。その際に勇者と姫は、各作品の作中でも同様に語られる同型の伝説=神話をなぞるようにしてこれを成し遂げます。すなわち、シリーズの各作品はそれぞれがハイラルにおける祝祭なのです。

 シリーズを愛好するプレイヤーであれば、シリーズ作品の新作をプレイしたとしても、その筋書きに新鮮さを感じることは少ないでしょう。シリーズ作品の多くは、まったく予定調和のうちにハイラルの平和が取り戻されることになります。しかしプレイヤーはそのことを退屈に感じるわけではありません。繰り返される伝説は始原の模倣です。すなわちプレイヤーはハイラルを救うたびに、何年あるいは何十年も前に経験したシリーズ初プレイの感動を、あるいは、シリーズのプレイを重ねるなかで自身のうちに神話として刻印されるに至った範型としての「ゼルダの伝説」を、新たに経験することになるのです。


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