『輪るピングドラム』について

 ピングドラムとはなにかについて書きます。

 ピングドラムとはなにかについての一番シンプルな答えは、桃果の日記だろうと思います。プリンセスオブザクリスタルは引き裂かれた桃果の片割れであり、ふたたび暗躍し始めた眞悧の野望をくじくため日記を必要としています。よって、プリンセスオブザクリスタルが昌馬と冠葉に探させているピングドラムとはあの日記であると考えることに違和感はありません。

 ここで問題になるのは、最終話にて昌馬から陽毬、陽毬から冠葉に、「ピングドラムだ」として手渡されたあの果物です。あの謎の果物もまたピングドラムと呼ばれている以上、ピングドラムとは単に日記のことだけを指すわけではないようです。以上がこの問題の前提です。

 ここでいったん作品の内容から離れて、贈与という言葉について書いていきます。なお、以下の贈与論は、近内悠太さんの『世界は贈与でできている』という本をおおいに参考にしています。

 贈与とはタダで何かを渡すことです。ここで重要な点は、「タダで」なにかを渡すということの意味をしっかりと考えていくと、贈与というものが、生きがい、生きる意味になりうる、ということです。

 まず、贈与が厳密な意味で贈与と呼ばれるためにはどんな条件が求められるか考えてみます。贈与をする側は反対になにかを受け取ってはなりません。ここで、単にモノや料金を受け取らなかったとしても、それだけで贈与とはならない場合があります。例えば、AさんがBさんにご飯をごちそうしたとしましょう。ここでBさんは、代金こそ払わなかったとしても、Aさんが奢ってくれた理由を忖度し、Aさんとの関係においてなんらかの暗黙裡のプレッシャーを負う場合があります。ふたりの関係が恋愛であったりビジネスであったり、場合によってそのプレッシャーの内容は様々かもしれません。とにかく、いつ誰が何を渡したのかがはっきりしている場合、客観的な反対給付はなかったとしても、目に見えないなんらかが支払われるということは起こりうるわけです。

 贈与が贈与であるためには、贈与を受ける側がなにも返しえないことが求められます。一番極端な例は、贈与を受けた側がその時点では贈与に気づいていない場合です。また贈与をする側が匿名で行う場合も、受ける側は何も返すことが出来ません。その他にも、受ける側がなんらかの窮地にあり、なにも返せないことが両者にとってはっきりしている場合なども、贈与が贈与たりえるでしょう。とにかく、「贈与をする側が、明らかに、受ける側からなにも返してもらえないと分かっていた」ということが大事になってくるわけです。

 次に、そのような贈与がどんな影響を与えるかについて考えます。贈与が原理的になにも返せないものである以上、これを受けた側は、ありがたさと同時に後ろめたさを覚えます。「とてもお返しすることができない、分不相応なものを受け取ってしまった…」という感覚です。そして、ここからがこの贈与論の核心なのですが、この後ろめたさは、次の贈与への動機を生む可能性があります。これはすなわち、「自分は身に余るものを受け取って助けられてしまったのだから、せめていつか自分も他の誰かに」という思考の流れです。そして、このように次なる贈与に内発的に動機づけられた被贈与者が、いつか他の誰かに贈与を果たしたとき、そこで得られる充足感は多大なものとなります。内発的な動機に支えられた目的とその達成は、生きる意味たりえるのです。

 以上の議論をふまえて改めて『輪るピングドラム』の内容を見ていきます。結論から言ってしまうと、ピングドラムとは上記の贈与そのものを意味しています。

 ピングドラムとは日記のことも指すと書きました。正確に言うと重要なのは日記ではなく、日記に書かれた運命を乗り換える呪文、「運命の果実を一緒に食べよう」です。ここで想起されるのは最終回での回想シーン、昌馬と冠葉が檻に閉じ込められているシーンです。あのシーンにおいて、昌馬の檻にはなにひとつ返せるものがないことは二人ともはっきり分かっていましたが、それでも冠葉は昌馬に果物を分け与えました。これは典型的な贈与のあり方です。運命の果実が分け与えられたとき、運命、すなわちその人の生きる道は乗り換えられるのです。

 さらなる本題に入ります。上記贈与論を前提にすると、この物語の主人公は他の誰でもなく陽毬となります。この全24話の物語は、陽毬の贈与の達成として捉えうるのです。

 物語の冒頭、陽毬は仮死状態に陥ります。そして、そんな彼女の「生存戦略」として掲げられた課題が「ピングドラムを探す」ことでした。すなわち、ピングドラムとは陽毬の生存に不可欠ななんらかであるわけです。

 そして第19話のクライマックス、ここが物語の構造上の決定的な転換点にあたるのですが、陽毬は「自分の運命の人は昌馬だったのだ」と気づきます。ここでの運命の人とは「運命の果実を分け与えてくれた人」を指します。重要な点は、「運命の人は昌馬だった」という表現が過去時制であるということです。つまり、運命の果実を受け取ったその当時、陽毬は昌馬から運命の果実を受け取っていることに気づいていなかった。ここから、昌馬はなんの見返りも求めていなかったのだということが明らかになってくるわけです。この瞬間が陽毬の被贈与の自覚の瞬間です。被贈与の自覚は生きるための動機を生みます。ピングドラムを探すという陽毬の生存戦略は、いったんここで達成されるわけです。

 第20話から最終話にかけては、次なる贈与に向けて動機付けられた陽毬が実際に贈与を達成する姿が描かれます。両親の幻影に翻弄され窮地に陥る冠葉の救済がこれに当たります。以上の流れを取っているからこそ、最終話において、昌馬から陽毬へ、陽毬から冠葉へと分け与えられた果実がピングドラムだと名指されるのです。

 ピングドラム=運命の果実=贈与は、それを受け取っていたと自覚できたときに次なる贈与への動機が生み出されます。そして、動機とその達成は生きる喜びを生むと同時に、それ自体が贈与として、さらに次なる贈与への動機も生み出します。ピングドラムはリレーのバトンのように人から人へと巡っていく、だから「輪るピングドラム」なのです。

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