『犬王』について

 「表現する個人」の挫折とその供養について書きます。

 『犬王』はまずアイデンティティの物語です。アイデンティティとはつまり、自分はどういう人間であり、何に価値を置き、どのように生きるのかという認識です。そしてこのアイデンティティは作中では名前に象徴されます。

 壇ノ浦の友魚は土着的なコミュニティの一員でした。友魚として生きるとは、殺された家族のうらみを背負い、これを晴らすために生きるということでした。友一と名を変える際に、友魚というアイデンティティは父の姿でこれを窘めたのです。お前は大切な家族のうらみを晴らすためにこそ生きているのではなかったのかと。しかし、友一として数年を過ごしたのちには、父の姿に象徴されるこのような動機付けはもはや消え入る寸前となっていました。

 友有とは個人としてのアイデンティティです。すなわち、土着的コミュニティの一員としての友魚でもなく、琵琶法師の一員としての友一でもなく、どんな所属からも自由なひとりの個人なのだという認識です。自分で決めた名前である個人としての友有は、自身の内なる声に耳を澄ませ、それを表現することを生きがいとしています。

 友有や犬王の表現の題材は、それまで語られてこなかった平家の物語でした。平家の亡霊たちは誰にも見届けられなかったことで成仏できずにいたのです。敗北の中で死んでいった彼らの亡霊は、自分たちはどんな価値を信じ、どのように生きそして死んだのかについて、せめて誰かに語られることで救われていくのです。犬王が彼らの物語を演じるごとに、犬王に取り憑いていた彼らの呪いは剥がれていきます。

 友有、あるいは犬王は、表現する個人としての生を謳歌しますが、最後には挫折を迎えます。「所詮は友魚だ!」という最期の言葉は、表現する個人としての生を貫ききれなかった友有の無念の表明です。そしてこの友有の無念も、600年の時を経た現代において『犬王』という作品で物語られることで成仏することになります。『犬王』は友有と犬王が互いにその名前を呼びあうことで、つまり互いに表現する個人として生きたことを確かめあうことで幕を閉じます。

 さて、それでは現代を生きる私たちにとっては、この作品はどのような意義を持つでしょうか。

 友有あるいは犬王が志した表現する個人としての生き方は、近代の私たちがまさしく夢見た姿でした。私たちは科学理論を積み上げ化石燃料を燃やすことで得た莫大なエネルギーを利用し、旧来の制約からの脱出を図りました。私たちはもはや生まれ落ちた故郷や古くからの宗教には縛られない本来の私たちとして、内なる声を表すように生きることを、それぞれが自分で決めたとおりに生きることを望んだのです。

 現代の私たちは、このように個人として生きることについてのある種の困難を迎えています。頼りにしていた化石燃料による環境への影響はいよいよ深刻なものであるように感じられます。それになにより、自由に生きることの負の側面が強く感じられ始めました。どこにも所属しない個人として生きることは、頼れるものがなく不安であることに加え、そもそも何を喜びとして生きればよいのかも分からなくなってしまうことが多かったのです。私たちをただ呪縛するだけのものとしてかつて捨て去ったコミュニティは、私たちに安心や生きがいをくれるものであったのかもしれません。

 犬王は、挫折し消えていった者たちを物語ることで慰めていきました。そして友有や犬王が夢見た生き方は、まさしく私たちが夢見た生き方でもあったのです。表現する個人としての生き方において挫折を迎え始めた私たちに向けて、『犬王』は、私たちがかつてどんな価値を信じ、どのように生きたのかについて物語ります。『犬王』は、ある生き方の終わりを迎えようとする私たちの無念を慰めるのです。

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