『スペシャル』について
喪失感について書きます。
「喪の作業」とは、人がなにか大切なものを喪失した際に、それを受け入れるに至るまでの過程をモデルにしたものです。論者によってパターンはありますが、例えばボウルビィであれば、「情緒危機・抗議・断念・離脱」の四段階として設定されています。まず強いショックを受け呆然とし、次に喪失の事実を受け入れまいと抵抗し、抵抗も叶わないと観念し喪失の事実が受け入れられて初めて深い悲しみに沈み、それらを経てはじめて穏やかに前を向けるようになる、といったものです。ここでのポイントは、人は何が起こったのかを整理しそれを受け入れられるようになってはじめて、きちんと喪失を悲しむことができるようになる、という点です。
これを前提にして『スペシャル』の内容を見ます。この作品は前半と終盤の大きくふたつに分けられるでしょう。前半は、日常系と呼ぶにはやや不穏な雰囲気が見え隠れしていますが、まがりなりにも秩序だった舞台の上で話が進んでいきます。終盤はこの秩序が大きく崩れていくため、この意味でなんらかの喪失があったと言えるのですが、問題はこの終盤の展開のされ方にあります。
終盤の展開においては、主人公の葉野たちには何が起こっているのかが明らかにされません。わけがわからないけれども、事態がすごい勢いで、それも悪い方向に進んでいるのだという切迫感だけが与えられます。加えて、読者には葉野たちが暗黙のうちに了解しているらしい作品世界の背景についても、ほとんどなんの情報も与えられません。この意味で読者には二重の混乱が強いられることになります。
クライマックスはいよいよ極端です。葉野は、何が起こっているかは分からないけれど、とにかくすでに何かとりかえしのつかない事態に陥っており、今を最後にもう二度と伊賀には会えないのかもしれないと予感します。葉野は伊賀に対して最後にせめて何か伝えようとするのですが、自分は何が言いたいのか、何を伝えるべきなのかが上手くまとまりません。上手くまとまらないまま、ふたりの会話を引き裂くようにサイレンが鳴り、突き放すような最後のひとコマをもって作品は幕を閉じます。
さて、この終盤の展開は確かになんらかの喪失が描かれていました。しかしここでの展開について総じて言えることは、その喪失についての整理が徹底して拒絶されているということです。読者はこの喪失について、何が起こったのか、どういう事情があって起こったのか、あるいは葉野たちはどんなふうにそれを受け入れたのかといったような、整理のための糸口をなんら与えられないのです。
人は喪失に際し、出来事を整理し受け入れられて初めて、きちんと悲しむことが出来るようになるのでした。しかし『スペシャル』が読者に与えるのは、安易な整理を許さない喪失です。上手く形を捉えられず悲しむこともできず、ゆえに消化できないまま心に長く残る、ただ何かが失われてしまったのだという漠然とした感覚、これこそが『スペシャル』がその主題とした喪失感なのです。