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幸せの定義について考える。

これからの多種多様な世界で生きていくうえで、自分の「幸せ」をどう定義するか。
その人が抱く「幸せ」イメージが違えば、「成功」も「失敗」の定義も異なります。
だからこそ、「自分にとっての幸せ」を誰でもなく、自分自身の為に整理しておきます。

自分は幸せを「満足」だと思っています。
字のごとく「満ち足りている状態」。

では、どういう状態が満ち足りている状態なのか。
それを探るために、一旦過去のことから整理していきます。

不幸に憧れていた時代

自分は今まで不幸に憧れていました。

そんなはずないだろ。
って感じですが、それはたぶん10代の頃は映画監督や作家になる事に憧れていたからです。
(別に確固たる理由があったわけでなく、たぶん何者かになりたかった)

当時、映画のシナリオや小説を書く時に一番強いのは自分の不幸を書くことだと思っていたんです。
だから、大して不幸な経験がない自分はある意味絶望したし、必死に不幸な経験。絶望した時の思い出。その時の感情を探ってました。

妙ですが、そうやって自分の不幸な経験(あくまで主観的にそう感じた体験)を客観的に捉えようとしながらも、どんどん不幸を意識して、暗い先行きをイメージするようになってしまった気がします。

何者かになることを止めて、幸せについて考える

細かい話は省略しますが、映像系の専門学校に通った後、映像系の仕事をしますが、身体を壊し、辞めます。

そこで、心身ともにボロボロで無職になった自分は必死に背伸びして、何者かになろうとするのをやめ、今できることを探していきました。

家の近くにあるカフェで働き始め、そこから飲食店の会社に正社員として入社して、手探りで何かを得ようとしていました。
別に仕事は何でもよかったんです。
とにかく、お金を得て、ある程度不自由ない生活を送る。

それが、その時の目標でした。
そして社員として入社した会社では店長になり、新しく出来た業態をどう成長させていくか、日々の営業をこなしながら考えていきます。

一か月に300時間ほど働いていたと思いますが、業績が右肩上がりの時は忙しくても充実感もありましたし、忙しいのが良いことだと思っていたので、多少の満足感があったと思います。

たぶん、それから自分は「自分の幸せ」を考えたことがないままに、幸せを追い求めていました。

自分の「好き」が分からない

ある時から、ずっと自分の「好き」が分からなくなってました。
何がやりたいのか分からないし、立ち止まって考えたことがない。
とりあえず、目の前の仕事をガムシャラにこなしているうちに自分の「好き」がより明確に見えてくる。そう思っていました。

これは今でも半分はそう思います。
若い時から自分の「好き」が明確に分かっている人のほうが少数で、大概はとにかく手を動かしているうちに、とにかく色んな経験をしているうちに、より自分の「好き」が分かっていくのだと思います。

ただ、この仕事を終えてから。
ある程度まとまったお金を貯めてから。
そうして、色んなことを先延ばしにしているうちに、いつの間にか自分の「好き」が分からない。
という状態になっていました。

本当の意味で自分が何をしたいか分からない。
休みの日に自分が何をしたいか分からない。
だからこそ、とにかく暇がないように仕事を見つける。
ずっとそういう状態が続いていました。

コロナの影響での自粛

そんな中、コロナの影響もあり2週間の自粛生活を送ることになります。
2週間ものまとまった休日をとるのはいつぶりだったでしょうか。
まるで学生時代の夏休みのような
「明日から何しよう」
という気持ちを持ちながら、何もせずダラダラ昼寝したり、散歩したり。
のんびりとした日々を過ごしました。

朝起きて、近くの公園を散歩したり、豆からコーヒーをいれたり、昼寝しながら読書したり、まさに今まで自分ができていなくて、やりたかったこと。
をしました。
それは「暇」を過ごすこと。
「暇」を楽しむことだったのかもしれません。

これは自分にとって大きな発見でした。
10代の頃は「暇」と「退屈」をもっとも恐れていたからです。
しかし、分かったことは「暇」は決して退屈なんかでなく、自分にとって世界を(少し大げさな表現かもしれませんが)まったくの無味乾燥なものから、手触りのあるもの変えてくれるものでした。

そういう生活を送っていると、自分が生活に満足しているのが実感できました。
公園を散歩しているとき。
コーヒーを豆からいれているとき。
昼寝しながら読書しているとき。

ただ、それだけなんですが、本当になんとも言えない充実感があって、人生で何を達成したいか。何を求めてるか。
と聞かれたら「余生を過ごしたい」
と言うかもしれません(笑)

我ながらすごくおじいちゃんっぽいことを言うなぁ。と思いますし、20代だった時の自分が聞いたらびっくりすると思いますが、でもそれが今の実感です。

これは暇を恐れていた、何者にもなれないことを恐れていた自分へのエール。
そして、たとえ自分を見失いそうになっても、決して自分自身の感情に目をつぶらないように、未来の自分へのメッセージです。

決して何者かになっていなくても、何をしているわけでなくても、価値がある。
そう思って生きていきたいです。

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