『Nice to meet you』から見るハヌマーンと山田亮一の音楽
突然ですが、ハヌマーンで一番好きな曲はなんですか?アパルトの中の恋人たち?Fever Believer Feedback?ワンナイト・アルカホリック?トラベルプランナー?若者のすべて?それともハイカラさんが通る?
僕がハヌマーンで一番好きな曲は『Nice to meet you』という曲です。自分で言うのもなんですけど、これはどちらかといえば少数派のチョイスというか、多分そこまで多い選択ではないと思います。けれどそれはこの曲の魅力が十分に理解されていないというだけで、先程挙げたような所謂ハヌマーンの人気曲達にも負けず劣らずの魅力を持っていると僕は思っています。
つまりこのNoteは、そんなハヌマーンの隠れた(そこまで隠れてはいない)名曲である『Nice to meet you』という曲の歌詞を追いながら、どうして僕がこの曲こそが一番だと思うのか、そして何がどういう意味なのか、ということを解説して『Nice to meet you』の評判をあげよう、ということを目的にしたものです。
ここに辿り着いている時点である程度ハヌマーンのファンであると思われるので、ハヌマーンというバンドや山田亮一という人物の基本的な諸々については申し訳ないですが割愛します。では見ていきましょう。
Nice to meet you / ハヌマーン 作詞作曲:山田亮一
『Nice to meet you』の歌詞
最初から歌詞が強い。 悲しい/そして眠れない という比較的ありふれた現実を描写した歌詞が、僕と早朝の新聞配達を通じたエピソードによって一気に具体性を増して立体的に展開されていく。正直このあたりは「山田亮一の真骨頂」という感じであまり解説しすぎるのもナンセンスという感じがします。
個人的な所感を述べるなら、日付を跨いでなお前日が引き伸ばされて未だに続いているような早朝の感じとか、徹夜明け特有の脳は上手く回っていないのに五感が妙に冴えている感じとか、そういう共感性の高い歌詞が、新聞屋と僕の秀逸な対比で表現されていて最高ですね。
詳しくは長くなるので後で触れます。ただこの時点ではここの歌詞はかなり抽象的で、できるだけ大きな音で、できるだけ素敵なことを届けようとしている「夢でさえも会えない人」とは一体誰のことなのかがイマイチ分かりません。
「夢」とか「会えない」というところから、ぼんやりと色々なことを想像することはできると思うのですが、その後の歌詞も含めてまず第一には『Nice to meet you』を通じて流れる寂寞と優しさみたいなものを感じます。
夢でさえ会えない人、に対しての記述は終わり、『ご覧 世界中に』に促されて視点を外へ向けると、具体的にくたびれた様子が目に浮かぶような人々・動物達の様子の羅列と「見慣れた街の鉛色の あらゆる弱者を巻き込んで」という歌詞が連ねられていきます。
ここでやっと、聞き手である僕達はどうやらこの曲は「弱者」について歌っているんだな、みたいなことがぼんやりと分かってきます。
曲全体で大きな意味を持っている訳では無いですが、悲しくて眠れなかった僕、が少しの時を経てくたびれながらもやっと眠りにつけた(けれどおそらく半ば気絶するような形で)事が表現されているのとか、ちょっとした移ろいみたいなものを感じられてうれしいですよね。そしてここからのコーラスが本当に、本当に……
「あらゆる弱者を巻き込んで鳴るミュージック」
その前の歌詞を考えてもこの『Nice to meet you』という曲そのものを指していると考えていいでしょう。
悲しくて眠れない僕、新聞屋、夢でさえ会えない人、くたびれて眠る僕、当たり障りなく笑うあなた、帰らない人を待つ貴婦人、etc.(ハヌマーン最強キャラランキング?) あらゆる弱者と、それらを巻き込んで鳴るミュージック。
そして
「包囲された今、世界の何処にも逃げ場はない」
字面だけでいえば攻撃的な印象を感じますが、僕はむしろこの歌詞にこそ山田亮一の優しさとこの曲の真価が詰まっていると考えています。
この曲を聞いている時は誰もが音楽だけに包囲されていて、その点で完全に平等。インタビューではライブハウスと書かれていますが、家でも外でもライブハウスでも、この音楽を聞いている時、その点において皆平等である、と受け取ってもいいと個人的には思います。
これで、取り敢えず一通り歌詞について部分部分での解釈を示しました。ですがこれだけではまだ完全にこの曲の主張や魅力について理解することはできないと思います。なのでより理解を深めるために、次に『Nice to meet you』というタイトルについて考えてみましょう。
『Nice to meet you』というタイトル
これらの引用を見たら分かるようにこの『Nice to meet you』という曲は、優しいけれどひねくれている『Re Distortion』というアルバムを、ハヌマーンというバンドを、山田亮一という人間の音楽を、代表して「はじめまして、よろしく(≒Nice to meet you)」ということを伝える意図で作られた曲、ということです。つまり曲の中で畳み掛けるように歌われる「あらゆる弱者を巻き込んで鳴るミュージック」も「包囲された今、世界の何処にも逃げ場はない」も、それが指しているのは『Nice to meet you』という曲だけではなく、山田亮一が作る音楽全てが「そう」なんだぞ、ということを意味しているのです。
だから『傑作のジョーク』と『Nice to meet you』に「鬱病の道化師」が登場するのは、この2つの曲が、この2つの曲だけの特別で具体的な繋がりがあるからではなく、
『敗北代理人』で再び「ライブハウス(≒轟音の水槽)の爆音の中では条件はみんな一緒」という先程のインタビューと似たような表現が行われているのも、『Nice to meet you』で描かれる「弱者と、その音楽と、それを聞くあなた」こそが山田亮一の音楽の本質だからです。全ての曲がそれぞれのオリジナリティを持っていて、それでもその全てが「あらゆる弱者を巻き込んで鳴るミュージック」。
弱者である僕の些細な生活の一端を描き、鉛色の街に住む弱者を描き、それを聞く客を描き、その全てに山田亮一の音楽を代表して『Nice to meet you』と名付けられたこの曲。
最後に唯一曖昧なまま解釈を放棄した部分について今一度考えてみましょう。
『夢でさえも会えない人』とは一体誰なのか?
①山田亮一の母親?
「夢でさえも会えない人」とは一体誰のことを指しているのか。
実はこれについては無難に考えれば一つの正解と思わしきものが存在しています。それは、山田亮一の母親です。
というのも、このように幸福のしっぽという曲にも「夢でさえ会えない存在」が登場しているんですよね。そして幸福のしっぽという曲は、山田亮一が日々の憂鬱と伝えられなかった思いを亡くなった母親へ歌う曲で、その中に登場する「あなた」はおそらく母親のことを指しているということが推測できます。
なので、幸福のしっぽからそのまま考えを繋げて、「夢でさえも会えない人」は山田亮一の母親である、とすることはできます。
ただ僕はこの場で、少なくとも『Nice to meet you』の「夢でさえ会えない人」は山田亮一の母親ではない、とする説を提唱しようと思います。
Nice to meet youという曲は散々書いてきたように、「はじめまして、このバンドはあらゆる弱者について歌っています」ということを伝えるための曲です。
そして上記のインタビューで山田亮一は『Nice to meet you』の歌詞を「不特定多数に向けて」作っていると発言しており、それはNice to meet you(≒はじめまして)というタイトルの性質上、不特定多数の見知らぬ誰かのためのものである必要があるので当然のことでしょう。
しかしそれを考えると、『幸福のしっぽ』は母親に宛てられた曲という側面が強いので『夢でさえ会えないあなた』が母親を指していることに何の問題もないのに対して、『Nice to meet you』は「ハヌマーンを初めて聞く彼、彼女」のための曲であるので幸福のしっぽとは少し事情が異なってくるのではないか?という疑問に突き当たります。
つまり、『Nice to meet you』の中で唐突に「夢でさえも会えない人」≒母親に向けて歌う、という展開は個人的に少しだけ違和感を覚えてしまうのです。
②「夢でさえも会えない人」
念には念を押すために一旦母親説を否定するとして、では母親でないなら「夢でさえも会えない人」とは誰のことなのでしょうか。その答えを出すために「夢でさえも会えない人」という言葉についてよく考えてみましょう。そして個人的には「夢でさえも会えない人」には2つのパターンが想定できると考えています。
①どうしようもないほど離れて、もう会えない人
まず一つは、かつては現実で会っていた/会うことができたが、今となっては夢で会えないほどにどうしようもなく離れてしまった人。
これは幸福のしっぽのインタビューなのですが、その受け答えを見ても分かるように、彼にとっての母親はこちら側に属する「あまりに離れすぎたせいで、夢でさえ会えなくなった存在」であるということが分かると思います。
②夢だろうが会いようがない人
そしてもう一つが、現実で会えないし夢でも会いようがない人です。現実でも夢でも会いようがない人。それはこの時点の山田亮一にとって現実でも会ったことのない「知らない人」のことです。当然、知らない人のことを夢で見ることは曖昧の上に曖昧を重ねるようなもので、不可能です。
何度も繰り返しますが、『Nice to meet you』は初めて会った時に使う挨拶で、本人もそういう意図を持った曲として作り、紹介しています。つまりこの時点の山田亮一にとって、その『Nice to meet you』の対象となる人は具体的な実態を持っていない、「知らない人達」なのです。
それを踏まえると、山田亮一ができるだけ大きな音で、できるだけ素敵なことを届けようしていたのは誰なのか、あらゆる弱者を巻き込んで鳴るミュージックを聞いて、世界のどこにも逃げ場がないのは誰なのか、
それに該当する「夢でさえ会えない人」とは『Nice to meet you』の聞き手である「あなた」しかいないのだ。お前やで。わかるよね?「お前」やぞ。(https://akuyou.exblog.jp/24386478/)
夢、も睡眠の夢だけでなく、当時の徐々に売れつつもまだ明確に将来のビジョンを描けなかった山田亮一が曖昧な理想やファン像を「夢」、と表現して彼らに「夢でさえも会えない人、その世界まで届くように」と歌った、という解釈することもできます。(或いはダブルミーニングとも)
勿論、幸福のしっぽ同様に「夢でさえも会えない人」は母親のことを指していて、彼女のいる世界まで届くように大きな音で素敵なことを歌おうとしている青年山田亮一、という解釈をしても十分筋が通るし、この曲の素晴らしさは損なわれないと思います。
結局解釈なんてロールシャッハテストみたいに無数の回答があっていいし、人生なんて騙し絵みたいなものなので自分の焦点が合う世界を信じてりゃいいんですよね、錯覚こそが上手く生きる術なので……。
それでも個人的には上記の論理に従って、「夢でさえも会えない人」は「俺」であり「あなた」である、ということを主張しようと思います。『Nice to meet you』の「you」とは、夢でさえも会えない人とは、かつてハヌマーンを初めて聞いた時の僕でありあなたであり、まだ山田亮一の音楽を知らない誰かであると。
長々と書きましたが、要するに『Nice to meet you』は「あなた」の為に捧げられた曲であり、ハヌマーンや山田亮一の音楽の代名詞的存在である、と言っても全く過言ではない楽曲だということです。「山田亮一の音楽の全て」とは言えないかもしれないけれど、間違いなくその核心を完璧に表現している。
だからハヌマーンも、バズマザーズも、何ならアショカビハーラやサニアラズやFDBも、まだ誰も知らない夢でさえ聞けない山田亮一の新曲も、その全てが「あらゆる弱者を巻き込んで鳴るミュージック」で、その音楽はいつも僕らを一番優しい形で包囲している。彼の音楽はたったそれだけのもので、でもそれ以上僕らにとって必要なことは何も無いと思います。
こんな長文に付き合っていただき、本当にありがとうございました。
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