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私の懺悔 蕩尽と奢侈する重要性と死 ジョルジュ・バタイユ 呪われた部分

19歳くらいから、わたしは止まっているように感じる。
大人になれたらもっとなにかすごい人になれると思っていて、その年齢がきたら自動的にスイッチが切り替わるようにオトナになれると勘違いしていた。


時間の中の性行為は、空間の中の虎と同じだ

この本における断言を目にして、考えさせられる。

性行為自体は現代社会において快楽のために行われることが多く、子を産むという本来の生産性がなくなった。
それはエネルギーの浪費を意味し、時間を奪う非合理的な行為として、わたしには奢侈(シャシ:身分不相応なくらしをすること。度をこえたおごり。ぜいたく。)であると考えていた。

目の前のやるべきことをこなし、富を集めることが合理的な正義であると思って過ごしていたが、その行為を終えた先を考えてはいなかった。

やりのこし

子どもがおやつを与えられないと、友人の家で出されたおやつを貪り食べてしまうこともあると聞く。
それは"こども"だからだと思っていた。
自制心が育っていないからそういった行動に出てしまうだけで、オトナになったらそんな感情はなくなるものだと私は勘違いしていた。
自動的にスイッチが切り替わるわけではなかったのだ。

遊園地でジェットコースターにのる。
おばけ屋敷で手を繋ぐ。
そのようなことが年齢制限付きの事象だと知る由もなく若い頃を過ごし、私は機会を逃したために呪われた。

だからその夢が実現したときはとても嬉しかった。

大人になると、時間に価値が生まれる。
子どもの頃に無尽蔵に蕩尽していた時間を、大人は金銭に変えることができる。
だから、"金銭と時間を等価交換できるようになった大人"が蕩尽する非合理的な時間は大変に贅沢なものであり、その選択を躊躇なく行う人は豊かである。
誰しも子ども時代が懐かしく価値があるように感じるのは、時間を意のままに蕩尽できたからだと思う。

大人のあなたは富を蕩尽させる非合理な時間を優先できるだろうか。

だから私に付き添ってくれる人は、金銭と時間を使用したとても贅沢な生命の使い道を示してくれるので、それだけで胸がいっぱいになる。

余剰の蕩尽

余剰がないものは余剰を産むための努力を優先的に行わなければならないのだが、余剰が過多になったとき、エネルギーを、利益を求めずに消費する必要性があることを理解しなければならない。
つまり貧しきものは富む努力を、富むものは消費をするということだが、"消費"に関して言えばその積極性が失われている。

地球上のエネルギーの動きが決定している状態で、生命体は生命の維持に必要なエネルギー以上のものを受け取っている。
その超過分は成長に使われるが、それ以上その体系の成長に使用されなくなると、利益を求めずに消費することが必要となる。
生産力を増すことが人間の活動の理想的な目標だとすると、それを突き詰めた先にあるものは、最終的に惜しみなく富を使用することである。
そうでなければ過剰に育てられたキャベツやコーヒー豆を破棄することからも見て取れるように、労力が無に帰す。
たびたびニュースになっているように過剰に生産されたキャベツは価格の維持のために消費されることもなく、生産についやした労力と生まれるはずの価値を土に返している。
それは私にも当てはまる。
私の価値を時間の経過とともに、無闇に破棄したくなかった。

地球上のエネルギーの動きが決まっている以上、人間の生産力という枠組みではエネルギーは無制限に増大しないから、つまりいずれエネルギーを地球に返すという運命にある。
エネルギーを蕩尽する方策は、祭りの開催や役に立たない荘厳なモニュメントの建設にもみられるが、そうやって人々の余剰エネルギーを消費し、蕩尽させなければならない。
だから祭りの開催は日本でも重要であり、人々のエネルギーを争いから遠ざけた。
その歴史からもわかるように、超過エネルギーが発散されないと戦争が起こるといえる。

余剰があるから人が増え、人が増えたからその余剰を使用して戦争が起こる。
それにより結果的に生産性があがり、さらに地球規模で人が増えることを繰り返した。
戦争を回避するには生活水準の向上に富を使用しなければならない。

奢侈

食、死、有性生殖は奢侈である。
食は地球上の誰かの生命を摘み取っていて、生命の死によってできたスペースに新しい生命がやどることを繰り返している。
地球上のスペースは限られており、それを奪い合って多様性が繁殖するのならば、ヒトは新たに地球のスペースを技術によって拡大させることに成功した。
技術によって無理矢理に増やしたスペースを植物や動物に提供し、その結果としてヒトが増える。
世界を変える人間の活動は、生命体の総量を増やすことに向けられてきたのである。

無限に与えられる太陽の恩恵で地球上は生で覆い尽くされている。
生物の死によって空いたスペースは繁殖スペースとなってほかの生命体が確保する。
成長などはなく、ただ、同じエネルギーの総量が贅沢な奢侈により循環していることを意識してみると死という事象の物事の見方が少し変わってみえる。

余剰エネルギーは、生まれた初期の段階では効率よく活用される。
しかしながら、余剰が多く発生して過剰な状態になると、生産力の向上を重要視する必要はなく、贅沢に消費することが必要となる段階になる。それは非生産的な第三次産業が発達した現在の日本の働き方と、その恩恵にもみてとれる。
だから現代社会において、富を蓄え余剰が生まれたら蕩尽に意味がある。
そもそもサービス業とは富の余剰の産物であるからだ。
全ては農業、米に帰結する。

日本の農業従事者の高齢化によって一斉に農家が引退する未来が見える。その時は国の根幹が揺らぐからとても不安である。AIでどこまで解決できるのであろうか。

戦争と死について

靖国神社の前を通ると戦争について考える。
平和となって、戦争が起こらなくなった現代社会を感じる。
先人たちが生命をかけて築き上げた平和な国で、豊かさと歪を感じる。
それは富が蕩尽されず停滞しているからだ。

二つの世界大戦が、歴史上記録されたことのない膨大な富を蕩尽させた。
それは、成人したヒトは食物連鎖の頂点となって、多くの生命を取り込んでいるからであり、「広大な面積の牧草を消費した家畜」を食したヒトは、地球上の富の塊である。

ヒトが"わざわざ"死ぬということは、奢侈であるといえる。
どれだけの地球上の富を蓄えて育ち、生活を成り立たせているかを感じる。
考えうる奢侈すべての中で、死こそは逃れられない運命という在り方で間違いなく最も高くつくものになる。

幼い頃から個人的な死を私はあまり恐れたことがない。
義父が突然死んでも涙が出なかった。
それは単に生命はいつか死ぬと知っており、死に涙をするのならば毎分毎秒誰かが死んでいることに涙しないと矛盾すると感じるからだ。
さらに今日は私は二匹の鰻とたくさんのお米、牛の肉片、大豆、それらの生命のエネルギーを取り込んだし、移動で使った車によって出た排気ガスで間接的に誰かの生命を脅かした。家に住むだけで他の生命を排除している。
ヒトに限らなければ死という事象は生活の中にふんだんにまみれているし、ヒトに限っても、交通事故は毎日起きているし、電車だって頻繁に止まっているから私は遅延証明書を取得して学校に登園できていた。
その生命体の死と義父の死は、あまり変わらない事象に感じていた。
生命体が有機物にかわる。
あまりよい思い出や愛がなかったからであろうか。
しかしながら母にとって義父の死は金銭面の有用性を欠いたし、私の弟は義父を愛していたので、その面での精神的な絶望感は味わっている。

だからといって愛する対象を失ったときに流れる涙の理解がないわけではない。
子どもを失ったら盛大に泣くだろうし、想像するだけで胸が張り裂けそうになる。
もしかしたら私の存在理由が無くなるかもしれない。
それは愛しているからだ。
愛とは面白い感情である。
面白いから好きだ。

死という事象に対する悲しみがわからないだけである。

死と愛は別であるが、戦争に関しては死と愛が一体の物語のために、私は死に対して涙が出たものと錯乱することがある。ヒトが死ぬという事象に対しては涙が出ないが、愛する個人が愛するもののために命を捧げる行為には涙が流れる。

死について、例えばアステカの人身供養は残虐性にばかり目を奪われるが、意義は、太陽へのエネルギーの帰属である。
戦争で失われる生命を太陽と大地へと返す祈りが含まれている。
エネルギーの循環という営みの中で死は悪いものではない。
だからといって私は親しい人とまた笑い合えないことは寂しいし、積極的に死を選ぶことはしないけれど、誰かが死んでも明日は続くし、他の生命のスペースとなる。
私にも死が訪れる。
明日かもしれないし、100年後かもしれない。
エネルギーを循環させるのに死は必要で、死によって新しい生命が活気付くようにプログラムされているからだ。
無限に与えられる太陽の恩恵で地球上は生で覆い尽くされ、生物の死によって繁殖スペースを確保する。
ただ、同じエネルギーの総量が贅沢な奢侈により循環していることを意識してみると死という事象の物事の見方が少し変わってみえる。

いずれ必ず訪れる死の前に、時間の流れにおける生命の使い方を考える。
今しか使用できない身体の使い方をしたい。
それには儚さがある。
私のことを儚いと表現した人がいたが、儚いとは何であろうか。

同時期にあるネイリストが言った言葉が印象に残っている。
数時間かけて自分が仕上げたネイルは、1ヶ月もたたないうちに剥がれ落ちるか、再来した客の手に残る"自らが施した作品"を自らで削り落とす作業をする。
その作業の儚さに惹かれてこの職業に就いたと言っていた彼女は、学生の頃から絵を描くことが好きだったらしい。

食における儚さならいつも感じる。
料理人が、生産者が、流通の人がたった数分の客の楽しみのために何時間も費やしている。
その前にその食材が月日をかけて育ち、生命を摘み取られている。
食には、生き物の過ごした時間と人の時間が贅沢に詰め込まれている。
時間とは生命である。
だから、日本における食は大変に奢侈である。
私にとってはそれはたとえ数百円で食べれる牛丼やスーパーに並ぶコロッケにも贅を感じることができる。
それらはたった百年前はお金持ちしか食べることが出来なかった。
ちょうど大正時代は餓死者が2万人ほど毎年出ているのである。
もっと時間を遡れば、米つぶ一個にも奢侈を感じることができるので、贅沢を感じたい人にはおすすめである。

多くの人々の時間を、時間の流れの中でつぎ込んだ結果に現代がある。
現代が現代であるのは、過去のヒトがつぎ込んだ生命をも消費できるからだ。

儚さに惹かれる理由は未だによくわからないが、これも贅沢な蕩尽の一種の形態なのであろう。

ポトラッチ

呪われた部分というこの本は、マルセルモースの贈与論の影響を受けている。なので、贈与論を一読してから読むべき本である。

宗教は、物の貧しさの次元から、人を神的な次元へ引き上げる。
供犠からもみてとれるように、利益を考えずに蕩尽する。

ポトラッチとは誇示的な贈与であり、先住民の主権者が浪費で蕩尽する。
自分の生命の代わりに富を供与する。
贈与をうけた側は、それに利息をつけて返さなければならない。
これは仕返しという意味合いを含むので、贈与物の破壊という行為により富を貰うことを目的としているわけではないことを誇示して蕩尽する方法もある。

夫婦間の贈与関係は子を産む負担を女性が引き受けることで成立する。

余剰の消費は、贈与か失うか、破壊である。
富を軽蔑し捨てることで結果的に富むことは、最後には自分の貪欲さを露呈するが、それを求めることが気前のよさの結果であり、その富は物ではなく地位となって帰ってくる。

懺悔

私は"余剰である人間だ"と感じることがある。
見えない価値を生み出すことはできているのだろうが、それが目に見える物に交換されることはない。
私自身の存在は夫が与えた余剰であり、夫が私の首長であることを意味する。
しかし私の中で首長と敵対したときに、夫にポトラッチをしようと思った。

信頼せず心に疑いをもつ夫に対し、同じものを返礼しなければならないと感じたうえで、私はそれだけに飽き足らず、夫から得た負の贈与に利息をつけて返したいと行動し、呪いの解除に他人を巻き込んだ。
私の家庭の問題を外に持ち出した。
夫に対する復讐であると同時に、この事実は目的としては醜悪であるために、私を蕩尽させる相手には伏せなければならなかった。

だから曖昧に理由を濁したために私はうまく説明ができずに迷子となった。
当初は離婚をするための金銭を貯めたいという話をした。
わざわざそんなことをしなくても行動をすれば離婚など容易いことを知っていたし、そのための知識も10年間で得ていた。

だから私は、夫に対する復讐という名のポトラッチ
つまり誇示的な負の贈与交換をしたかった。
そうすることで夫婦の関係性が維持できると考えた。 

ポトラッチをするにはそこら辺にいる男性ではダメだったのである。
私に価値をつけてくれなければならなくて、私という価値の破壊も同時にしなければならなかった。
単純に"買われたくなかった"だけなのかもしれない。
街中を歩くと道端で男性に5万と言われたのは今年の3月ごろであり、そういうことは今までも頻繁に起こったし嫌悪を覚えていた。
だから誘いに乗ったことはない。

高級なハンドバックや、闇雲にたくさんする整形に別段興味があるわけではなかったし、所謂"身体で稼いだお金"に対する使い道がよくわからなかったのも断った理由である。
だから"私に与える金銭的贈与を他の困っている女性に回してほしい"などといい、自分でも迷走していると感じる言い訳を並べた。
このような倶楽部に登録したのに贈与を断らなければならない理由は、私の価値の破壊にあるのが実の所である。

日本の平均的な女性の賃金も知っているので、心の半分以上はそちらに回れば良いと本気で思っていたし、それがそうならないことも感覚的に知っている。
しかし他の困っている女性に贈与を回してほしいと思っているのならば、私がここの倶楽部にそもそも存在してはならないのも理解していた。
与えられる贈与を断るための嘘の理由付けが下手で浅はかだった。

男性が女性に金銭を送ることが、家庭を守る防波堤ということも理解している。
"女を買う"ことで結果的に男性が家族を守るということも知っている。

関係性の維持に贈与のやり取りは必要であるが、そこに金額的な多さは必要がない。

本質を有耶無耶にしたが、明確な断言をするならば私の本当の目的は呪いの解除とポトラッチである。
本当に欲しかったものは、夫よりも富を持っている上で私を少しでも愛してくれる人との出会いであり、与えられた私の価値の破壊と私という余剰の蕩尽、それが復讐という名の醜悪さを帯びて夫へと向かい、負の贈与交換により夫との関係性の持続を望んだことが原点である。

夫との関係性の持続を望んでいるのは、他者からはあまり理解ができないかもしれない。
それは私なりの誠意でもあるし、夫を赦すための行動でもある。
赦し方を求めて彷徨っていた私の妥協点でもある。


自尊心の回復と、やり残しという呪いの解消。

しかしそれは負で終わるわけではなかった。
私という消費方法を、余ったエネルギーの蕩尽の仕方を、有益ではなく有用に求めてくれる人の元でとても贅沢な方法のなかにみることができた。
だから贈与論を読んだし、書いた。

私は今、首長と対等以上に過ごしているはずである。
出会いによってエネルギーの余剰の蕩尽ができているし、呪いを解いてもらった。

今とても幸せを感じることができているのは、人は他者との関係性の中に価値を見出すからであり、その価値を感じさせてくれるお相手がいてくれたからである。
精神的に安定し、楽しいと感じる。
面白いこと全てが記憶と経験として残る。
このまま何度でも面白さに出会いたいと思ってしまう。
それは単純に好きという感情が生まれたからだと思うし、相手が面白い人だからである。
そんな感情になると考えていなかったので、この行動の動機を懺悔したい。


復讐のポトラッチの副題として蕩尽することを挙げておく。

または私の行動によって私の夫婦の破滅となっても、それは受け入れるに値する価値のあるものだったと思っている。

おわりに

今日は懺悔会をして自分すごくえらいと思ってる。

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