いきどまりの自由の感想
(天檻とワールプールフールガールズの内容もあります。)
「いきどまりの自由」のノクチルを見るためには先に今までのノクチルのことを考えてみる方がいいと思います。なので「天檻」と「ワールプールフールガールズ」の話を先に話していきます。
「天檻」と「ワールプールフールガールズ」
ひっくり返す
今までのノクチルのシナリオではひっくり返すことによる価値観の拡張が表れていると思います。そしてこれは「ワールプールフールガールズ」で強調されています。まるで将棋の駒をひっくり返すように。
永遠にいることができない状況をひっくり返して今を永遠みたいにしたいと思う。
このようなひっくり返すことの解釈は「天檻」で見えなかったものを見えるようにしてくれました。
捕食と被食の立場がある世界
今までの透のシナリオに捕食と被食の関係性はよく表れていました。
透のシナリオではアイドルを評価する側が捕食者の立場で。業界人やファンの方も含まれるでしょう。そして評価される側、つまりアイドルは消費される被食者の立場でした。けれど透は被食者の立場でステージの周り全てを自分のものにして、周りの人たちの視線を奪うことで捕食の才能を見せました。
このような透のあくびにクジラの鳴き声を一緒に聞かせてくれることでシナリオ中での捕食と被食の立場にクジラという存在を考えさせました。
クジラはたくさんの魚やエビ、プランクトンなどを食べて生きていく捕食者ですが死んだ後の体はたくさんの生き物たちに栄養を提供してくれる被食者でもあります。被食と捕食の行動を一緒に見せた透のようにです。
透がオーナーにステージを貰った視点では期待された姿を見せないといけない被食者の立場ですがこれをひっくり返してステージを貰うことで捕食者の立場になります。
オーナーは透にワインを開いた時のような予想できない驚きを求めました。ワインは開ける時期を間違えるとダメになりますが、いつ開けたらいいかわからないので驚くとオーナーは言います。 つまり、蓄積されている過去が開かれる時に現れる未来がどうなるか予想できないので驚くのです。 オーナーは透に未来を求めていたと見ることができます。
未来を求めたオーナーに透はこれをひっくり返して過去の姿をみせようと”樋口”ではなく”まどか”を呼んで過去の懐かしい歌をお願いします。
透は過去を呼び起こすために昔の呼び方で"まどか”を呼んで若い頃に一緒に聞いた懐かしい歌をお願いします。
透の未来をひっくり返して過去を見せる姿はオーナーが求めた未来にも繋がってオーナーを驚かされたことができました。ワインを開いた時に現れる予測できない未来はその中に蓄積されていた過去でもあるからです。未来を通じて過去を見るとも言えるでしょう。
円香のここ全てもらっていくことに”いいかもね”と話すことは勝手に自分たちを定義している人たちへの対抗心、そして歌いたいという衝動もあるかもしれないと思います。
(円香の衝動に耐えしては【ピトス・エルピス】やLanding Pointを参考してください。話すと長くなるので後で機会があれば書いてみます。)
円香は学校の実験でDNAを見た目だけでどうやってこれをDNAと定義できるのかというように言います。
円香は物の内面を大事にするためこのように見ることだけで何かを勝手に定義することを否定的に思います。
このような円香の外面ではなく内面を大事にする価値観では同じく自分たちを外面の行動だけ見て勝手に定義する人たちへの反発心を感じさせます。
(円香の内面を大事にする価値観に耐えしては前に書いた感想で一度話したことがあるので参考にしてください)
未来をひっくり返し過去を見せることでステージを全て貰っていったノクチルは捕食者になります。けど透や円香だけではなくノクチル4人揃って捕食者になれるため雛菜がこれに気づいて小糸を連れて一緒に本番にいきます。
捕食者としてステージを終わらせたノクチルはそのままステージを抜け出して外へ行きます。そして流れる透の言葉。
クジラのおなかの中で息してることは透一人ではなく4人揃ったノクチルがクジラという捕食者になったからそうだと思います。透はクジラを構成する一員であるためクジラのおなかの中だと表現したと思います。そしてこの解釈と5.5thライブでのノクチルのグッズを思い出せば小さな泡が集まってクジラというイメージを形成していることが分かります。 まるで彼女たちがクジラの中で息しているように。
外へ逃げ出したノクチルをまた迎えに来るのはプロデューサー。彼女たちが望む海は彼女たちの胸の中にあるため、あまりにも広くてプロデューサーが海を用意することは出来ない。用意できる水槽はあまりにも狭くてクジラに水槽を用意することが無駄なようにダメだ。だからプロデューサーはこれをひっくり返して彼女たちが行く海ではなくまた帰って来れる”陸でいたい”と願います。いつになっても、たとえ50年後でもまた再現性して過去の幼なじみの関係に、ノクチルにいつでも帰ってこれるように。 プロデューサーはそう願っています。
そしてこの願いは「ワールプールフールガールズ」で毎回解散して再結成することに繋がります。
今を永遠みたいに
ノクチルの今を大切にする姿は歌詞やシナリオを通じてよく表現されています。
特に「ワールプールフールガールズ」の最後にも強調されます。
物には始まりがあればいつか必ず終わりが来る。ノクチルというユニットもいつかは終わりが来るから永遠にいることは出来ない。だからこそ今を永遠みたいにしたい。
だから毎回解散し、それをひっくり返して毎回再現性する。
解散と再結成を繰り返すことで、多くな道の海へ出てまた陸に帰ってくることで、彼女たちは過去と未来を循環して「今」を永遠みたいに生きている。
このような解散を思いながら「いきどまりの自由」を見てくれるともっと心に響くと思います。
いきどまりの自由
自由律俳句
シナリオではノクチルが書いた自由律俳句を通じて色んな事が見つけられます。
俳句とはwikipediaによると五・七・五(十七音)を主とした定型を基本とする日本の定型詩らしいです。けどノクチルが書いたのは自由律俳句、定型を持たず心の中から思ったことをそのまま表現することです。定型が決められていることが一般的な状況でその定型という決められている規律に気にせず自分を見せることがノクチルと似ていると思います。
雛菜の俳句は天塵を思い出します。
円香の俳句は”そういうのが一番嫌い”。ここで”そういうの”が何を意味するのかは色んな解釈があると思いますがここでは円香の俳句を二つの解釈に話します。
1.自分の内面を見せることに耐えした不快感
2.勝手に自分たちを定義する人たちへの嫌い
円香は物の内面、本質をとても重視する価値観を持っています。 これは、円香のシナリオでプロデューサーとの関係を通じて特によく表れます。 プロデューサーは円香の内面を見ようとしながらも、自分の内面は見せないようにし、意図的に模範的な外面だけを見せてくれます。 このような態度に円香は嫌がりながら、プロデューサーの内面をさらけ出そうとする姿を見せます。
それに円香は自分に対する過小評価が存在するので、自分の内面を他人に見せることをとても嫌がることもあります。 こうした円香に思った通りの気持ちを言葉に表現してほしいという言葉は、自分の内面をあらわしてほしいという言葉にも聞こえ、不快感を言ったとも思われます。
”そういうのが”自分にとって傍観者ではないというような円香の言葉と、円香の「今、ここ」を撮りたいと言って、意味や伝えたいことがいくら隠しても伝わるものだという専門学生の言葉を考えてみると、内面を大切にする価値観により隠している内面が現れてしまうことに嫌だと言った可能性もあります。
このような価値観によって、上で言ったように表に現れる外面だけを見て、自分たちを”ノクチルはそういうの”だと勝手に定義する人たちに対しても否定的な考えを持っています。
自由律俳句について説明を聞いて、ノクチルとしての俳句は透に任せたという話も聞いたので、ここで勝手に定義していると思って嫌いだと言ったのかもしれないと思います。
透の撮影場面で透のことをなかなかいないとほめる人たちに対してそういうんじゃないと考える円香の姿もこれを裏付けてくれると思います。
小糸は自分の中を表現する俳句を悩む態度そのものを自分の俳句に決まったのがあまりにも小糸らしいと思いました。
透の俳句は円香と対比される"そういうんじゃない。でも、それでもない"。
透がこの俳句をインフルエンサーがノクチルはそういうのじゃないと謝るところで考えたことを思うと勝手に自分たちを定義する人たちへの言葉だと思います。
ノクチルはそういうのだと勝手に決める人たちへ自分たちの自由を表出する。自由な私たちを勝手に決めるなと。ノクチルは何かに定義されない自由な存在。けど敢えて言うならノクチルは「ノクチル」。
ノクチルのパートはそのままの姿を撮ったこと、ノクチルの俳句が「ノクチル」ということ、そしてそれを透が考えたということでこう考えるようになりました。
ノクチルから感じること
完成された映像は見る人たちにとって今、この時だけのきらめきという雰囲気を伝え、自分たちが知らない間に忘れてしまった日常を思い出せます。
プロデューサーが映像を繰り返し見たいということは、最後をひっくり返して最初に循環したくなるという言葉でも表現されます。
シナリオのタイトルの「いきどまりの自由」が何を意味するのかは色んな解釈があると思いますが、私はこう思います。
映像に関わった人たちの中でプロデューサーを除くと全員がいきどまりにいる人たちです。 先が真っ暗だと表現し卒業を控えていた専門学生も、映像を見て胸に響くと話していた学校生活の終わりを控えている学生も。 いずれもいつか終わりを迎えている状態です。 でもそんな彼らにとって、すでに終わりを始まりにひっくり返して循環を成すことで、今を永遠みたいに生きていく彼女たちの姿はあまりにも美しく見えて響いていたんだろうと思います。 すべては始まりがあれば終わりがある。 だからこそ今、この瞬間がとても輝いて重要です。
「ワールプールフールガールズ」で彼女たちはすでに何かを達成してハッピーエンドに到達したことが最終地点であり、限界点でもあることに気づいていました。 何かを達成したけどいきどまりに、終わりに迎えたので。
けれど彼女たちはこれをひっくり返して解決します。最終地点というのは、これをひっくり返して後ろを見るとスタート地点になることもあるということを。 解散して再結成すれば、またハッピーエンドに到達できるということを。
いきどまりというのは終わりを連想させますが、これをひっくり返せば始まりになれるという事実を、今を永遠みたいに生きていく彼女たちを見ながら感じたのではないでしょうか。
しかし、こういうことをを彼女たちが意識して伝えるわけではありません。 何かに定義されず定義されたくない彼女たちはただ自分自身を見せているだけ。 自分の中で思いついた言葉で作った自由律俳句が、見る人たちにいろんな意味を、世界を思い出させるように、ただ彼女たちの姿を見るだけでも見る人たちに色んな意味を思い出させるのだと思います。
彼女たちを最もよく表せるものは自然なそのままの姿。ノクチルは「ノクチル」。何かに定義されない自由な存在の彼女たちは見ている人たちの心に響く。その姿がどれほど輝いて見えたのか、ノクチル最高だって、思ってしまいました。
おわりに
あまりにも良いシナリオなので感想を書きながら私の語彙力の限界をあまりにも体感しました。 感情の言語化が世の中で本当に難しい作業だと思いました…
この後ノクチルがどのような海へ行くのか、どのような海を見つけるのかを見るのが期待されます。
下手な感想文ですが最後まで読んでくださってありがとうございます。 皆さんの解釈に少しでもお役に立てれば幸いです。
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