ワインズバーグ・オハイオ 紙玉
昔書いたブックレポートのコピーです
考察「『神の玉』のひね林檎と媚びる人々」
「紙の玉」では、形のいい林檎よりもごつごつした形の悪い林檎のほうが良い味をしていて、それを知っている人間は数少ないことが強調されていた。なぜ形の悪い林檎はすばらしい味をしているのだろうか。それは、ひね林檎は媚びていない人の例えであるからだと考える。現代では、いい人の定義や、そうなるための方法論があたかも重要であるかのようにインターネット上に氾濫している。したがって、いい人になることを目標とし、自分の本心を隠し周囲に媚びる人も少なくないと考えられる。この方法論を実践するということはすなわち思考放棄することであり、その人の印象はほかの人と大差がないように思われるに違いない。これが、「形のいい林檎」で、「樽につめられ、都会に出荷されて」しまう、つまり、社会に受け入れられるものである。ブルネット娘の求婚者のうちの一人の宝石商の息子は処女性をしきりに重視した話をずっとしているが、これはキリスト教の典型的な倫理であり、彼は伝統的な規範に媚びているといえるだろう。彼は「形のいい林檎」である。ブルネット娘は彼を恐ろしく思ったから離れたが、魅力を大して感じていなかったからそのような些細な事で結婚しないことを決めたのだろう。「ブルネット娘は、リーフィー医師と知り合うようになって、二度と彼のそばを離れたくない気持ちになった」のは、リーフィー医師が真実を書いた紙の玉をポケットに詰め込んでは捨ててしまう癖があったからだと考える。真実を書いた紙の玉は、何が素晴らしいのか、何が正しいのかをリーフィー医師が常に考え続けている現れであり、それは大勢の求婚者とは違う性質である。そして彼は、その紙の玉をいつも捨ててしまうことから、その真実をいつも絶対とは思っていないことが読み取れる。したがって、彼は独善的になっていない。これは彼のもっとも大きな魅力であろう。「どうしてあんな医者と結婚したのか、ワインズバーグの連中はみな不思議がった」のは、ワインズバーグの連中は醜いリーフィー医師の外見にしか注目できなかった結果であり、大体の人はひね林檎のおいしさを知らないことの証明になっていると考える。
すなわち、「紙の玉」には、世間で絶対とされている言説を鵜吞みにせず、自分で考える規範に従う人こそが魅力的であるし、そうあるべきだというメッセージが込められていると考える。
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