見出し画像

現役全落ち無キャの大逆転浪人記

本記事はリアルタイムではなく、学部生になったとこ森が当時を思い出しながら書いております。
成績だけでなく、人間としても「底辺」状態からの合格の軌跡を伝えることで、浪人生のモチベアップになるといいな。って感じです。
10記事くらい書く予定です。
今回は「不合格~4月」まで。
以下本編


私はとある私立中高一貫校出身だ。東大ギリギリ二桁くらいの進学実績があり、その地方ではかなり有名な学校である。

202X年、3月X日。第一志望の一橋大学不合格
滑り止めの慶應、早稲田、万が一用の中央を含めた受験校4つすべての不合格が確定し、「全落ち」となった。
(※滑りどまってないので滑り止めではない。)

「やっぱないか…」 思わず口から出た。予想していた、必然の不合格だ。
自然と意識は過去に向く。
ーーー思えばつまらない人生だった。
親に強制的に参加させられた小学校受験、中学校受験は失敗。滑り止め中高一貫校で底辺をはいつくばってきた。
別に勉強なんてしたくなかったから授業中はずっと居眠りしていた。
中高でできた友達なんて2人くらい、地元もない、部活もやってない、彼女もいない(そらそう)。平日を耐えて土日に惰眠をむさぼり、カップ麺をすする6年間だった。
何をするでもなく漫然と生きてきてしまった、という「後悔」、白いままの寄せ書きページ。
私は「無キャ」だった。

そんな自分でも有名大学に行きたい、という思いがあった。
数少ない友人から、一般人には知られていないけど実力のある「ヒトツバシ」ってのがあるらしいと聞き、高校二年生の私は過去問を見てみた。
ページをスクロールしながら最新年度の数学の「整数問題」を見た私は、なぜか「簡単そうだ」と思った。
馬鹿すぎて難しいことに気づけなかったのである。
(とはいえ、今になって理由を考えてみると「整数問題」は公式や解法というより、発想や知恵の部分が大きいので解けると勘違いしてしまったのだろう。)
「余裕じゃん」
私はおこがましくも、「簡単そうだったので」一橋志望になった。
当然基礎ができていないので模試の結果は壊滅。E判定の嵐。河合模試でD判定が出たときはうれしかったが、河合模試はD判定までしかなかった。なんか解けねーなー。簡単なはずなのにな?と思ってた。
その果ての不合格。当たり前だ。基礎もできていないし、まったく学習時間が足りていなかった。ーーー

意識が現在に戻ってくる。
このままでは終われない、と思った。
「簡単そう」で目指し始めた一橋は、勉強に費やした一年間でいつの間にか「本当に行きたい大学」になっていた。
「有名ではない」×「実力がある」そんな一橋にどうしても受かりたい。
私は泣いていた。久しぶりに泣いた。

その日のうちに親に「浪人したい」と頼んだ。
親は私の顔を見ずに、短く「予備校選んどけ」とだけ言った。

4月

迷った末、私は駿台予備学校に通うことに決めた。
4月1日にはプレイスメントテスト(今もあるかな?)というものがあり、大まかにクラス分けがされるらしい。
英語数学国語の三科目で一科目50分ほどである。

ーーーわっかんね!!!!
難しかった。
難しいわけがないのだが、特に数学が驚くほど解けなかった。
思えばここがターニングポイントだったのかもしれない。
漫然と生きていた私は定期テストの点数が取れなくても「まあいっか。難しいテストだし」くらいに思っていた。

それでも、「仮にも中高一貫校出身の自分」が「行く大学のない有象無象(自分含め)向けに作られたテスト」で満足に回答できないという状況に怒りを覚えた。
基礎ができていない、とやっと気づいたのだ。

テストが終わると即座に自習室チケット?的なものを使って自習室に向かった。取り出したのは青チャート2B。
例題を解いてみる。解けない。解説を読む。読めば意外に理解できた。
解説を読む⇒理解する⇒解く、を繰り返した。
午後一時くらいから始め、午後七時までひたすら青チャートの例題を解いた。
こんなに勉強したのは初めてだった。

第一志望の一橋までどのくらいの距離があるのかはまだわからない(開示がまだだったため)が、4月15日の駿台開校日までの2週間でチャートを仕上げたい、そんなことを考えながら私の浪人生活一日目は幕を閉じた。

疲労が、心地よかった。




いいなと思ったら応援しよう!