AIと人間との違い
人工知能(AI)と人間との違いについて、西田哲学の言葉を借りて言えば、人工知能は「無を持たない(※)」と言えますが、それでは何を言っているのかわかりません。
ここでは、人工知能の持たない対立無について、西田哲学に立ち入らずに述べてみたいと思います。
※AIは対立的な無もなければ、絶対無もありません。
まずは結論から
私たち人間は、世界で1つ・1回きりのことについて、その「意味」や「価値」を見出すことができますが、人工知能にはそれができません。
人工知能が捉える「意味」は、ある言葉が示す内容であり、一般化してものを捉えます。また、AIの算出する「価値」についても、ある固定された評価軸に則ったものであり、他との比較が必要です。
人工知能は見えたものしか見ることができないため、その現れたものに隠された歴史的な「意味」や「価値」を考えることができないのです。
もう少し掘り下げましょう。
人工知能が捉えられない「意味」や「価値」
西田哲学の「無(弁証法的一般)」は、「M」で表記されますが、これはラテン語の「媒介する、あいだにある」ということを意味する「Medium(メディア)」に由来しています。
この「Medium(メディア)」がまさに「意味」の語源なのです。「意味」は英語で「mean」ですが、これは元来「これこれのことを言いたい」という意味です。
そして、その「mean」の源泉はいま・ここの「あいだ」にあります。例えば、知識は豊富なのに、会話となると話題に乏しくなることがありますが、それは相手との「あいだ」の話題が知識の量で決まるわけではないからです。
見えるのは、相手であり、言葉であり、話題ですが、この「あいだ」はそのやりとりの流れなので、固定的に捉えられる「もの」ではありません。その成立に自ら関与することで捉える「こと」ができます。
つまり、話題というのは、相手との「あいだ」を育むことで思い浮かびます。それは自分軸だけで話すのではなく、他人軸に則って話させられているのでもなく、能動だけでも受動だけでもない(中動の)やりとりの中で、言いたいことが「mean」するのです。
「意味」や「価値」を見出すとは
人間がいま・ここの「mean」するところを捉えることができるのは、宮本武蔵の「観(かん)の目」があるからです。一方、人工知能には「見(けん)の目」しかありません。
この「観」は西田哲学の「行為的直観」の「観」であり、行為と切り離すことができません。その「あいだ」の形成に関与するから観えるのであって、頭だけで考えていても何も「mean」してこないのです。
ただ観えるというだけではありません。現在の行為の在り方次第でその「意味」や「価値」は変わってくるのです。
どんな過去のどんな失敗にも「意味」がある。それは、それを活かす今があるから、それが活きるのであって、過去の失敗や栄光にすがり続ける今に、それに「価値」を与えるだけの力はありません。
かつての失敗が今をよりよく生きるための知恵となるのは、その失敗をかけがえのない経験とする今によって、その経験は成功への足掛かりとなります。
このような現在の行為と密接な関係から物事の歴史的な「意味」が見出されるのであって、差し当たってそのような「意味」があるわけではないのです。
日本のものづくりのために
人工知能は極めて「見の目」に優れているからこそ、これからのものづくりは、私たち人間にしかない「観の目」を発揮することが大切です。
前例のない事故を防ぐためには、「見観両目を養う(宮本武蔵)」必要があるため、安心安全デザイン研究室では、力学と哲学を用いた安心安全の実現を目指しています。
哲学はそれ自体、高尚なのではありません。生きることが高尚なのです。 哲学が高尚に見えるとすれば、生きることについての学問だからかもしれません。
哲学が言いたいのは、私たちが生きるこの日常がいかに素晴らしいか、ということなのです。