編集後記ーこれは光のはなしー
noteの編集後記なんて初めて書く。オマケみたいなものなので肩肘張らず話します。
そして編集後記なんて言ってるけど多分これは私が普段どういうスタンスでnoteを書いているかという話になる気がします。
この時点でそう思うならタイトル変えなさいよってね。まあそれはご愛嬌。
私とnoteと
まずなんで「これは光のはなし」の編集後記を書こうと思ったか。それは私のnoteの中で1番多くの人の目に触れて、嬉しい感想を沢山もらえたnoteだからです。
この文章、最後まで読む人なかなかいないと思うので序盤で一度お礼を言わせてください!
私のnoteを読んでくださった方!本当にありがとうございます!私は素直で気持ち悪い人間なので、いいねしてくれたnoteユーザーのページには飛んでいくし、ファボリツしてくれたTwitterユーザーのページにも飛んでいくし、送っていただいた感想(送られてないものも)はスクショしてたまに眺めてにまにましています!そしてたまにまたその人のページを覗きに行きます!ごめんなさい!
さて話を戻します。
私のnoteのプロフィールには「いつか書かなくても大丈夫になる日まで」と書いてあります。私のnoteのスタンスはこの言葉の通りで、もともと私はたくさんの人に読んでほしいとか日々の記録のためとかそういう目的があって書いているわけじゃないんです。
たくさんの人に読んでもらえることも、共感してもらえることも、感想をいただけることも、本当に飛び跳ねるほど嬉しい。
でも、もとはといえば、書かないとどうにもならないから書いているんです。
私がnoteを始めた時期、就活の真っ最中で、真っ暗闇の中にいました。やることなすことに「意味」を貼りつけて、「それなんの役に立つの?」という言葉に怯え、心が動くというだけの理由で取り組んできた(本当はそれだけでよかった)もの達に無理やり価値を組み込んで…
ずっとずっと死ぬほど気持ち悪かった。
だからnoteを書き始めました。「人に読まれるため」じゃない文章を書きたかった。自分のためだけの文章を書きたかった。別にこれじゃなくてもよかったけど、私には言葉しかなかった。
「意味」や「価値」や「生産性」に必死に抵抗しようとするあまり、私のnoteはタイトルから内容が分かりにくいものが多いです。つまりタイトルから読もうと思わないであろうものが多いです。
一見わかりやすい「なぜ勉強をするのか」ですら、人に読まれるつもりならどういう視点で書いていて他と何が違うのかをタイトルに盛り込むべきでした。
「これは光のはなし」もまた然り。いくらTwitterのCARATアカウントで投稿したとはいえ、何をどんなふうに書いているのか、誰について書いているのかさえ分からないタイトルで、しかも本文は長い。
全然バズったとかじゃないけど、それでもよくこれだけの人が読んでくださったなと思う。私だったら多分読まない(おい)。
本当に、自分のためだけに書いた文章だった。
私はSEVENTEENと出会って、ホシくんと出会って、オタクでいうところの「バカデカ感情」というやつが胸を塞いで窒息しそうになっていた。
マジで笑い事じゃなく、好きで好きで苦しくてどうしようもなかった。
バカデカ感情を外に出さないと抱えきれないから、どうにもならなくて書き出した。正直ホシくんの魅力を広めたいとか、共感してほしいとか、色んな人と分かち合いたいとか、そういうのは二の次でした。
そんなスタートだったから、人に読まれるための文章としてはダメダメで、主観100%の独りよがりな文になってしまった。一言で言えることを何千字も(場合によっては万を超えて)書いて、 読みやすさなんて全然考えなかったし、自分が満足するために一切まとめようとしなかった。
それなのに、「これは光のはなし」を読んで下さった方から嬉しい感想をたくさんもらった。数で捉えたら大したことはないのかもしれないけど、一つ一つがこの身に余るほどの光栄な言葉ばかりだった。
でもこれは私の文章そのものの魅力ではなくて、ホシくんやSEVENTEENの魅力が媒体となったことによって多くのCARATちゃんたちに「なんかわからないけど伝わっちゃってた」という方が正しい。オタクはいつも以心伝心だから。
そして私はそれがとても嬉しかった。
あんなにも素敵なSEVENTEENやホシくんに向けられた大きな「愛」や「大好き」や「特別」、そして「幸せ」の気持ちの依代になることができていたのなら、こんなに嬉しいことはないと思う。「うまい文章を書くね」と褒められるよりよっぽど嬉しい。
編集後記ってなんだっけ…
ちょっとくらいそれっぽいことを言いたいなあ…
そういえば(おい)、私が「これは光のはなし」をはじめとしたSEVENTEENに関するnoteを書くときにめちゃくちゃ気をつけてることが一つだけありました。
大切にしていること
推しの素晴らしさを表現するために別の誰かを下げないこと。
何回目だよって話ですが、私は「より多くの人に読んでもらうため」よりも「自分のため」にnoteを書いています。
でも不特定多数の目に触れる場所でSEVENTEENについて語る以上、人を傷つける文章であってはいけないと思った。
共感してもらえなくていい、つまらないと思われたっていい。(泣くけど)
でも読んだ人が傷つく文章だけは書きたくなかった。
誰かを1番にするのに手っ取り早いのは2番以下を作ること。何かを正義にするのに手っ取り早いのは悪を作ること。何かの特別さを演出するのに手っ取り早いのは普通をこき下ろすこと…
でも彼には、彼らには、その手段を使っちゃいけない。誰かや誰かの大切なものを踏みにじって彼らを持ち上げることは、彼ら自身の在り方を踏みにじることになる。
彼らはそんな風に思わせる人間だし、そんな風に大切にしたい人たちです。
そしてそんな手段を使わなくたって揺るがないくらい、絶対的に魅力的な人たちなんです。
だからそこにはめちゃくちゃ気をつけました。気をつけたけど、完璧じゃないと思います。何かを主張するということは、それ自体で何かを踏みつける可能性を孕んだものだと思います。
楽に書いたら何か言っているようで何も言っていない文章になりました。太宰治も「言えば言うほど僕は何も言っていない」的なことをどこかに書いてたと思いますが、そんな感じです。
何が言いたかったんだ?って感じだけど「何が言いたいか決まってないと書いちゃいけないの?」って思いながらnoteを書いているので、ちゃんと私らしさは出ているかと…笑(一人で何言い合ってるんだ)
きっと私はこの先もこんな文章を書き続けてしまうと思います。
いつか書かなくても大丈夫になる日まで。