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月と月

その人は埋もれた道の上を往く。
雪を踏む。雪が鳴る。
見上げても見下ろしても曖昧に均された白煙色の景色はどこまでも球体で、深く安心している。

頬が痛い。
白桃の薄皮のように毛細血管の筋が散った頬は愛らしく、よく見れば痛々しい。
鼻を通る外気も鋭さを失わず、内側から胸を刺す。

雪の夜は明るい。
僅かな光を縦横無尽に散らし、含み、また散らす。
足もとで柔く留まる月光の囁きは、冷たい澄んだ空気のなかで耳を凝らしてもここに届かない。

けれどその日は囁きが、聞こえた。
聞こえたような気がした。つられて顔を上げるとそこには家があって春の陽射しのような灯りが漏れ、雪道に影を伸ばしていた。

横目で様子を伺うと、そこには家族が住んでいた。

「あ。」

あたたかい。
寒さに浸かっていた身体にはその木漏れ日のような温もりすら火傷をしそうなほどに熱く、ひりつく全身の皮膚をもって初めて我が身の冷えていたことを知った。

その家の住人たちはすぐにこちらに気がついた。
あの明るい部屋の中から、どうしたら暗がりに浮かぶその人を見つけられるのだろうか。
曇りガラスの向こうで微笑みながら何かを話かけてくる。そこから話しかけられたとて、声が届くはずがなかった。
しかしどうして、その日は何を言われているかわかってしまった。わかっていたどころか、ずっと前から知っていたような気さえした。

その家族たちは宴を開いているようだ。

「外は寒いでしょう。」
 ええ、寒くて痛くて居心地がいいの。
「うん、そこも綺麗だ。ところで君もどう。」
 …。
「大丈夫、そこに居て。」

戸惑った。
あなたたちはそこに居て、私はここに居て、一体どうやって…初めて肩に積もる雪の重さに押しつぶされそうになった。

しかしよく見れば、住人たちもうっすらと雪の帽子をかぶっていた。
その家には天井がなかった。
あたたかそうに見えたその家のぬくもりは、家族で身を寄せ合うことで保たれていた。
終わらない宴。終わらない夜。
けれどもし、朝が来たらこの宴は終わるのだろう。
そんな予感だけがこの雪よりも明確にその人のなかに積もっていく。

ふと、自分の歩いてきた道に目をやる。
もう足跡は消えている。
随分と長く一つの場所に止まってしまった。

途端に雪に埋もれたくなった。
何にでも成れる、不気味なふっくらとした雪に、その人は倒れ込んだ。ある種の支配欲でもあるのだろうか、そこに自分の形をした自分だけの穴を拵えたかった。
雪に埋もれながら見上げた空は相変わらず吸い込まれそうなほど昏く、けれどその日はどうしてか星がよく見えた。
あの家の住人たちも見ているのだろうか。
そんなことを考えながら、暗さと冷たさに身を包まれて束の間の休息を得る。雪に倒れている間は、何を考えても、何を考えなくてもよかった。
歩くのも、あの家の灯りを受け止めるのも、全部全部投げ出してこのまま眠りにつきたい。

今はもうかき消された足跡に想いを馳せる。
自分でも気づかぬ間に、まるで日の出から逃れるように、西へ西へと歩いてきていたようだ。
このまま留まればいつか朝に追いつかれる。
それは心底恐ろしい。

ああ、歩き出したくない。
あたたかいもの、美しいものを全てを投げ出してでも、一刻も早く眠りについて自分自身と決別したかった。
歩きづらかったのは夜だからではない、雪道だからでもない、自分という袋の中に捨てられなかった塵をパンパンに詰めて引き摺りながら歩いてきたからだ。
“この先…”
考えるだけで心の水面に墨が落とされたように苦しさが広がり、ほかのものがぼやけてしまう。

なのに、どうして、
気づけばまた、その家の灯りの前に立っていた。
頬が冷たい。
自分自身でも気づかないうちに泣いていたようだ。
いつのまにまた、立ち上がってしまったのだろうか。

その家の硝子窓に手を伸ばす。
硝子に手が触れる。
あたたかかった。

人肌ではない。
なのにどうしようもなく柔くあたたかく、
嬉しかった。
求めていたものに出逢えた気がした。

振り返れば、此処にむかって真っ直ぐ歩いてきたような気がする。もう足跡は消えているけれど。

顔を上げる。
その手が触れている硝子の向こう側に、手があった。
どうして気づかなかったのだろうか。
冬に撫でられた硝子が暖かいはずがない。私の触れた硝子がぬくもりを持っていたのは、彼がずっとそこに手を当ててくれていたからだ。

ー大丈夫、そこにいて。

ああ、こういうことだったのか。
私がその家の眩しさから目を背けて雪に埋もれている間にも、彼らはずっとそうしていたのだろう。
いや、私が此処まで歩いてくるまでの間もずっとそうしていたのだろう。
だって、触れた瞬間からこんなにもあたたかい。

また、頬が冷たい。
この目から流れるものは、一体どんな感情の波紋だろうか。

彼らは月に照らされた舞台で舞い踊る。汗が散る。
途端にそれは空へ飛び、星のひとつとなる。
彼らは今日も出鱈目な引力で星を打ち上げる。
月が隠れても光を見つけられるように、できる限り遠く高く打ち上げる。

瞳の薄氷が少しずつ剥がれて落ちていくのを感じた。
刹那、自分を包む世界が開いたように見えた。

綺麗だ。
濃紺の帷を斬り裂く閃光のような激しさを孕んで、
たったひとつの月がポッカリと浮かんでいる。

ああ、君も、
この硝子の向こう側でそんなに耳や鼻を赤くして、呼吸は白く目に見えて…この夜も冬も全て君のためにあるような気がしてしまう。

硝子越しに伝わる体温は、悴んだこの指先を柔く解す。私の体温も少しは君を暖めるだろうか。
その皮膚に触れることはできなくとも
私たちは私たちなりのやり方で冬の夜を共にする。

彼らは春を唄う。
夏を、秋を、そして冬を唄う。
私は遥か通り過ぎてきたそれらの季節を想う。

彼らの唄う世界は美しかった。
冬の夜から想う春の陽射しは、あまりにも柔かった。
夜の底から見上げる星空は、あまりにも煌めいていた。
頬を掠める風も旋律を抱いていた。

それらの美しさは鳩尾の奥深くまで至り、私の心の核を握りしめて心肺蘇生のように激しく揺さぶった。
澄んだ空気に護られた静けさの中、爆ぜる慟哭が雪の中に染みていく。
この慟哭は、生を感じさせる痛いくらいの歓びは、
小さくうずくまってそっと合わせた掌は、
彼らに届かない。
どうかこのまま、届かないでほしい。

再び硝子に手を伸ばす。
相変わらず泣きたくなるほどあたたかい。
いつか朝日に追いつかれようとも、空っぽな掌に握らされたこのぬくもりを手放せるはずもなく、私は今日もここから立ち去ることができずにいる。
けれどもやはり臆病な私には朝を迎え入れられるような懐はなく、寒さよりも夜明けが恐ろしくて震えている。

あと少しだけどうか
この夜を、ともに。

束の間凪いだ心の水面にもうひとつ月が灯る。
たとえばもし
夜が明けて目には見えなくなったとしても
この道を照らすのは。

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