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呼ぶ 見る 立つ
風の冷たさが寒さから痛みに変わるにつれ、空気は一層澄んで世界を透かす。12月26日から31日を想うときの遠さと、12月30日から1月4日を想うときの遠さはまるで別物だ。
今年一年、幸せだった。
坂道を駆け降りるとき、加速に足の回転が追いつかなくて顔から転びそうになって焦る瞬間がある。そんな感じで今、幸せになっている。
私の歩みだけじゃ、こんなに幸せになれるはずがない。こんなに幸せになれるだけの代償を差し出していない…という発想がそもそもおかしいのだろうか。巡り合う幸せに、幸せになる脚力が追いついていない気がする。すでに十分すぎるほど幸せだけど、それでも多くの幸せを取りこぼしている気がしている。こんな私のもとに幸せが巡ってきてくれているのに、一つでも取り零すなんて許されるはずもない。
それに加えて覚えているよりも忘れる方が得意な私は、本当に業が深いと思う。せめて、少しでも思い出すための記憶の返しをつけておきたくて、noteを開いた。
呼ぶ
5月26日の日産スタジアムコンサート
その日の座席は無かったけれど、サウンドチェックで掲げた言葉がある。
세븐틴이라고 불러주셔서 고마워요
케럿이라고 불러줘서 고마워요
SEVENTEENと呼ばせてくれてありがとう
CARATと呼んでくれてありがとう
名前を呼ばせてくれるということがとてもありがたいと言葉にしようと思ったのは、高熱に魘されながらみた紅白歌合戦の伊藤蘭さんのステージがきっかけだった。ステージにその人として立っていてくれること、拍手も歓声も受け止めるつもりでそこにいてくれること。こちらに歌いかけ、笑いかけてくれること。それは決して当たり前のことではない。
あの13人を、一人も欠けることなく「SEVENTEEN」と呼ぶことができる、その事実を維持し続けるための綱引きの先にどれだけの人の手が握られていて、どれだけの力を込め続けてきたのか。想像も及ばないほどの道のりにせめて思いを馳せることで、「だから君を当たり前だなんて思わない」と伝えたかった。
FOLLOW AGAINの仁川公演で久しぶりに13人の姿を見たとき、心から幸せだと思った。13人の名前を呼ぶ掛け声についてホシくんが「今までと同じです。メンバーが変わっていないので」と言っていたのを思い出した。私はこの人たちに愛してるって言いたくて、名前を呼んでいるのだ。
一方私は、自分の本名が嫌いだ。シンプルに音として好きじゃないというのもあるけれど、一言で言えば名に恥じている。人生の大半を苗字とニックネームで過ごしてきたし、あえて本名の逆の意味になるようなペンネームを使ってnoteを書いているくらいなので、もはや私の本名には私の魂が入っていない。
そんな私のいのちに、CARATと言うあまりにも美しくて愛おしいもう一つの名前を授かったことは何にも代え難い歓びだった。大好きで大切な人たちの声で何度も何度も何度もその名前を呼んでもらったから、いつしか自分の名前だと認識するようになった。不思議だなあと思う。
話だす前、文の書き出し、何か嬉しいことがあったとき、アルバムのThanks to…至る所でCARATと呼んでくれる。CARATという名前は何の資格や排除性も持たず、ただ彼らの愛のベクトルを定めるものだと思っている。
名前を呼んでもらえることがこれほどまでに幸福だとは知らなかった。
名前を呼ぶと言うのは、呼ばせてくれると言うのは
それ自体が「愛してる」なのだ。
見る
네 앞에서 눈 감지않아
君の前で目を閉じない
SEVENTEEN RIGHT HEREのコヤン公演からうちわに付けた、私のテーマだ。(ちなみにFOLLOWでは내 밤을 비처준 호시/私の夜を照らすホシだった)
これは大切なCARATさんが教えてくれたMaktubの오늘도 빛나는 너에게(To You My Light)という歌が元にある。
내게 온 너란 빛이 눈 부셔도
僕に射す君という光が眩くとも
네 앞에서 한 순간도 눈 감지 않아
君の前で一瞬たりとも目を閉じない
今年に入ってからホシくんに対して「僕は君のために何ができる」を自問自答してきた。あなたのために何かをするなんて烏滸がましくて、でも何かを差し出したくて、自分の差し出せるものを卑下したくなる習性を押し殺して、口だけにならない覚悟を持てるものを探した。だってあなたに何もできないと私が勝手に諦めるなんて、そんなの寂しいでしょう。
それにしては随分と消極的かもしれないけれど、あなたがどれだけ眩い光を放とうと、逆に翳ることがあろうと、何があっても君の前では目を閉じないというのが、今の私の等身大の決意だった。
全肯定ヲタクという言葉がある。自分のスタンスを示すときに使われることもあれば、揶揄として使われることもある。私は多分、今までの経緯を振り返ると全肯定に近いのだろう。ホシくんの言動、姿勢、装いなどに不満を抱いたことはないし、大体「最高!」と叫びながらひっくり返っているか、息も絶え絶えになっている。ただそれは結果論であって、全肯定をスタンスにしたいとは思っていない。いつだって私の感覚・思考を手放さないままあなたを見て、好きでいたい。賛同できないことにはNOと言える関係でいたい。けれどもし仮に賛同できないことがあっても、絶対にあなたの前で目を閉じない。目を逸らさない。
あなたを信頼していないのではなく、あなたが相手ならこの約束を守れると信じて胸に掲げた。
あなたの目に入っても愛の言葉にならないかもしれないけれど、私の胸に掲げることに意味があった。自分自身の光と闇にも目を閉じないという意図もあった。
そんな中でリリースされたSPILL THE FEELS。Thanks toの中にこう書かれていた。
大切な人たちに対して素直な人間であることはとても難しいことだと思います。良い姿だけをお見せしたいという思いで感情を隠してしまうことが多いです。
ですが僕らに対して感情を思いっきり表現するCARATたちの姿を見るたびに、自分の感情を表現することがどれほど大切か、いつも気付かされます。
今回のアルバムはより多くの人たちにその大切さを伝えたいという思いで準備しました。素直な感情が、誰かにとってはその存在だけで力になるという事実を教えてくれたCARATの話です。
I FELT HELPLESSという一文からプロモーションが始まったこのアルバム。タイトル曲はLOVE,MONEY,FAME。
10月21日にウジさんがweversに投稿した文章で、私の「あなたの前で目を閉じない」には新たに一つの決意が追加された。
誰もが知っているけれど、誰もが実践できない「比較」という頸木から脱することは、おそらく僕たちの生涯の課題でしょう。
僕たちは最大の無力感を比較から感じ、そこから脱する方法は素直さだと考えました。そのような思いから生まれたワーディングが「愛、金、名誉」でした。あの3つの要素が最も大きな比較を呼び起こす地点だと思ったんです。それでその思いを素直に紐解いてみようと思いました。誰かにとっては満腹の声です。僕もわかっています。今の僕らが歌うには嘲笑されるのにうってつけのテーマです。基準は人によって違うと思うけれど、多くの人の目から今のSEVENTEENは13人とも豊かに見える奴らですから。
実はそのためにこのテーマを考えながら、僕も無力感をたくさん感じました。これが今の僕の本心なのに、僕がCARATと大衆の間で板挟みになっていないかという奇妙な不安と苛立ちが押し寄せました。僕が勘違いしているのか、もう本当にやめるべきか、僕の力はもう必要ないんじゃないかというとても愚かな考えです。
可笑しくないですか。CARATの無力感を少しでも減らしてあげたいという気持ちでアルバムを作る人間が無力感に苛まれたりするというのは。
とにかくあれこれ複雑でした。でも確かなことは、飾り立てたいという気持ちはなかったから、改めて真心に集中することを心に決めました。
今は全部持っている奴らが、何がお金だ名誉だと皮肉る視線があるだろうという予想は当然したし、やはり一定予想通りでもあったけれど、現実の視線がそうであれ、もしくは実際に現実がそうであれ、私たちもまた、誰よりも熾烈に壮絶にあくせくしながら生きています。元来人生がそうであるように。だからむしろ逆に考えてみると、他人から見て全てを持っている奴らが何のためにあんなに孤軍奮闘しながら生きているのか、少しでも気にしてみてくれれば、僕らを動かすものが愛であるということを少しはわかってくれるんじゃないかという希望を持ってみました。
お金と名誉のために生きる人を批判するために作られた音楽ではありません。それもまた正解だし、僕らもそうだったし、人生の主原料がその部分だとしても何ら間違いではありません。
だから成功した人のコスプレのように飾りとして愛が答えだ。愛を守ってください。と言うような呑気な法螺吹きではありませんでした。
重要さを何の基準で羅列しようがそれは本人の自由であるように、ただ今の僕たちは文字通りCARATなしでは何も要らないということを知って、それが僕らを無力感から解放してくれるものだと考える僕たちのやり方を歌っただけです。
この投稿を読み終えて、私は彼らの話を最後まで聞いていなかったのだと己を恥じた。もちろん「金も名誉も持っているくせに」とか「全部手にしたから愛を歌い始めた」だなんて思ったことはない。彼らがそういう人たちではないことを知っているし、ただ君が、ただ愛が大切なのだと歌いたいんだと受け止めていた。
けれどその受け止め方は「MONEY」と「FAME」の存在に目を瞑ることでもあった。普段あれだけ丁寧に丁寧に比較や排除を避けてきた彼らが、他でもないタイトル曲で、どうしてあえて比較を挿入したのか…その意味を突き詰めて考えていなかった。アルバムの中、1曲の中に入れられるメッセージはごくごく限られている。そこにただ「LOVE」の重要さを強調するためだけの、言うなれば他の何でもいいような比較を入れるような人たちではないのに、私はそういう読み方しかしていなかった。
そうは言っても、結果ありきで逆算して作られた公式ではなく、彼らが一歩一歩時間と話し合いを重ねながら積み上げていったその思索の道のりをアルバムの情報だけで読み解くのはなかなか思い切りが必要で、その点の危うさについてはまさしく「素直さ」と突き詰めた結果なのだろうと感じるし、教えてくれないとわからないこともある。
だからこそ、最後まで遮らずに話を聞くことが必要だと思った。
早合点して結論付けるのではなく、自分の中での一定の解釈の輪郭ができたとしても、それはそれとしてあなたの話をあなたの言葉で聞かせてほしいという気持ちであなたの目を見ていたい。
そういう意味でも「あなたの前で目を閉じない」
アルバムの一曲目はEyes on you。「Eyes on you, eyes on me」という歌詞は「目」に触れているけれど、あなたの話を聞かせてほしいということ示していて、それは言葉だけではなく、言動や表情でもいいし、どう過ごしてきたかという時間の話でもあるんじゃないかと思っている。
遮らずに話を最後まで聞くというのは、要約して相槌を打つことで話を聞いている姿勢を見せようとする私にはとてもとても難しいのだけれど、だからこそ胸に掲げていたい。
このうちわがホシくんに見える可能性が最も高かった福岡公演。
初のアリーナ席だった。今までは弱すぎる自名義を見切れ席や機材席開放で補ってきていたのでモニターを双眼鏡で見ることの方が多かった。それでも心から幸せだったし、空であるほど、見切れであるほど光と声を届けるぞ!と燃える自分もいた。近くある必要はないと思っていて、ただホシくんの立つステージを見上げていたいという思いだけがあった。
けれどアリーナは今までのどの席よりも、彼の一挙手一投足が見えて、その全てが真心だった。双眼鏡を覗けば視線まで見えた。ホシくんはフォーメーションチェンジや脇にはけているときに自分の移動方向ではない場所を見ていることがある。その先にいるのは、メンバーであり、他のダンサーさんであり、ときにCARATだった。
正直、今まで自分を納得させるために「ホシくんに光と声を届けられるならこちらからはよく見えなくてもいい」と考えていた。その席でしか見えない景色、できないことがあるのは間違いないし、翌日に入った見切れ席はやっぱり最高だったけれど、フォーメーションの最後列でも指の関節ひとつまで繊細に制御する姿も、細やかながら美しい衣装捌きも…「よく見えなくてもいい」なんて言うには、そのひとつひとつがあまりにも真心だった。ファンサが欲しいなんて言わない、ただ私はこの人の真心をなるべく見逃したくないと思った。
近くでないと見えないものと、遠くないと見えないものがあるのは表裏一体で、見切れ席からは光の海へ両手を広げて駆けていく姿、メンバーと戯れる姿、最終日は他のメンバーの輪から離れてバックステージは光の海のほとりにしゃがんでCARATとメンバーを交互に見る姿が見えた。
「あなたの前で目を閉じない」
そのままの意味でできる、つまりあなたを見ることができることがこの先しばらくないかもしれない。そう思いながら噛み締めた。
立つ
SEVENTEEN IS RIGHT HERE
ベストアルバムのタイトルであり、ワールドツアーのタイトルでもある。
SEVENTEEN、ここにあり。
曲の歌い出しなどで挿入されるこのフレーズは、「SAY THE NAME」と並び彼らの矜持を示す言葉、いわば切り拓く言葉として受け取ってきた。
Followツアーもまたそうであったように、この言葉もこの1年を通して意味の層を重ねてきたように思う。
「Every SEVENTEEN is right here.」
今、僕らはSEVENTEENという名前でここに立っています。この場所は今まで耕してきた幸せの結実であり、僕らの世界です。この世界を共に育て、夢見た未来を指揮する力が必要です。
いつもそうしてきたように、共に指揮棒を握るCARATが側にいてくれたらと願っています。
全てのSEVENTEENがここにある。
SEVENTEENとしてつくってきた世界に、SEVENTEENとして立っている。
ある種の集大成として、しかしまだまだ飢えているから気味の悪いSEVENTEENをお見せしたいと思ったというMAESTROをタイトル曲として掲げる…今までとこれからの過程として、SEVENTEENがここに在ると送り出してくれた作品。
強く道を切り拓くだけじゃなく、等身大の僕らとしての「RIGHT HERE」を感じた。
日本公演直前にリリースされた「消費期限」の歌詞で繰り返される「ここにいるよ」。
ツアーグッズのストラップでは表に「SEVENTEEN RIGHT HERE」のツアーロゴが、裏というか内側にはメンバー手書きの「ここにいるよ」が施されていた。
思えばコヤン公演のセトリに入っていたIF YOU LEAVE MEも「ここにいるよ」と対になるような歌だった。
ここにいるよ
ぼくは変わらない心で
ここにいるよ
ぼくはここに
내가 네 곁을 지킬게 영원한 시간으로
僕が君の横を守るよ 永遠の時間で
ホシくんは日本ツアーの初日も最終日も「もうしばらくできないツアーなんです」と言っていた。
そんな今だからこそRIGHT HERE/ここにいるよ、なのだろう。
悩みに悩んで、お見送り会でホシくんに「ここにいるよ」と伝えた。しばらく会えなくなる前に私が直接ホシくんに言葉を届けられるのはおそらく本当に最後だから、本当に吐きそうになるほど悩んだ。
たった2年、されど1日1日の数百回の繰り返し、何が起こるかわからないこの世界で、何か未来に向けた言葉を渡したかった。
「ここ」というときに右手を胸に当てながら言った。「私はここにいる、あなたを好きな人間としてここに立っている、また次会えるときもここにいる」でもあり「あなたはいつでもここ、私の胸のなかにいるよ、会える日も会えない日も」でもあった。
ホシくんは私の仕草を真似して「はーい☺️」と返事してくれた。情報が届いたなら、私にできることはやりきったなと思う。
いつだってあなたの味方として、あなたを好きな人間として、CARATとしてここに立っていようと思い続けてきた。コロナ禍で会えなかった2年半もそれは変わらなかった。CARAT IS RIGHT HEREは私の数少ない矜持のひとつでもある。
けれどずっと、あなたの前に立つのが怖かった。
あなたと対峙するのが怖かった。
あなたの目に映る自分と向き合うのが怖かったのかもしれない…誰と会うときもそうか。
それを克服したとは言えないけれど、あなたに会いたくて、伝えたくて、事実としてあなたの前にたった。
それが叶ったのは、そこに、あなたがいてくれたからです。
会う約束ができることも当たり前じゃないけれど、会う約束をしていても会えるとは限らない。
それは怪我だったり病気だったり身近な人の状況だったり、国内・世界の情勢だったり…私たちが様々なものの影響を受けて現実の世界を生きているから。
正直、今回日本ツアーのスケジュールが完遂されたのは奇跡だと思っている。だからこそ、自分の発熱で行けなかった大阪公演が悔しくて悔しくて受け入れられていないけど。
そこにいてくれてありがとう。
「いる」でもいいけれど「立つ」の方が意志が作用している気がして、少なくとも私はそうだから、「立つ」という言葉を使いたい。
SEVENTEEN、ホシくん、
そこに立っていてくれてありがとう。
ステージに立ってくれてありがとう。
この世界のなか、SEVENTEENとして立ち続けてくれてありがとう。
だから私はCARATとして、私という人間の日々の中にCARATとしての矜持を持って、この世界の中で立ち続けます。
でもたまに寄りかからせてね
あなたも、たまに寄りかかってね
SEVENTEENに対して守りたいことは全部
CARATに対しても守りたいことだな
そうやって共に、歩んでいこう。
明日からも。