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舞い落ちる花びら

この歌のことを話せるようになるまで、
随分と時間がかかってしまった。

舞い落ちる花びら

タイトルだけでも幾度となく噛み締め、反芻した。
畏れを抱くほど美しい曲だった。

一度返歌を書いた。
順番としては、逆だったかもしれない。
けれど描かずにはいられなかった。

舞い落ちる花びらには
誰も手を伸ばさない

こんな諦めのような言葉から滑りだすこの歌に
「ちゃんと届いてるよ、私の掌に落ちてきたよ」
思わずそう言いたくなった。

煩いくらいに胸を鳴らす。
沈まない月。地平線に並ぶ月。
疎らにしか草の生えない砂地の中心で天に伸びる一輪の花。
そんな趣向が散りばめられたMVも。

13人で花を作り、1人ずつで花を作り、
手のひら一つで芽生えから開花、散りゆく花びらまで表現する、全方位隈なく計算し尽くされた振付も。

間違いなく、傑作。
Seventeenさんの作品の中でも、「舞い落ちる花びら」はある一つの方向性における究極形だと思う。
この世界で、この路線に於いて、これ以上のものは想像できない。

「侘び寂び」の感性が根付く日本人にとって親和性の高い曲であることはまず間違いないけれど、これだけの傑作を「日本アルバム」として出してくれた事実を想うと私は毎度涙が溢れてくる。

いや、Seventeenさんの曲はどれも傑作だけれども、その中でもなんというか…
唯一無二の空気感、Seventeenさんにしか出せない儚さ、13人じゃなければできないパフォーマンス、男性アイドルが「私は花」と歌う新しさ、なのに奇を衒っているように見えない自然さ…どれをとっても一つの時代を作りかねない、先駆けとなるような作品だ。

何度聞いても鮮烈に私の胸を貫いていくこの凄まじい歌を、手に負えないなりに、味わってみようと思う。

刹那

舞い落ちる花びらには誰も手を伸ばさない
悲しみが混ざったような冷たい笑顔のまま

悲しみは常に希望と共に在る。
大切なものの喪失、実現しなかった夢、裏切られた望み…荒れ果てた無の土地に悲しみは芽生えない。
だとしたら舞い落ちる花びらを前に悲しみを含んだ笑顔を浮かべるその人は、一体何を望んでいたのだろうか。

悲しみが混ざったような、の「ような」というワンクッションが好き。確かに「悲しみ」の匂いを感じているのに、その笑顔の裏にある感情を敢えて外から断定しないところに誠実さを感じるから。

そんな誠実さを持ちながらも「誰も手を伸ばさない」という部分は断定してしまう。そこに現れた破れかぶれな雰囲気がまたひどく胸に刺さる。
「誰も手を伸ばさない」ことはない。舞い落ちる花びらを手のひらに乗せて眺める情景は至る所で描かれていると思う。ただ、それを分かった上でも「誰も手を伸ばさない」と否定したくなる投げやり感。
何があなたをそうさせたのでしょうか。

ゆらり舞い 風のままに
ゆらり舞い 落ちた心の辿り着く先は
今よりはまだ 暖かいかな

花の盛りを終え、枝の先から離れて、自らの意思というよりはただ風に揺られながら…
しかしまだ着地することもできず、漂っている。
だから着地点がどんな場所かは分からないけれど、ただ「今」のこの瞬間の冷たさよりは、暖かいことを願っている。「暖かい」という単語を使いながら、むしろ今この瞬間の「冷たさ」を鮮明に描いていて、また胸が痛む。

夏にも耐えて 小雨に濡れて
誰かのために散りたいなんて

夏の厳しい日照りに耐えて
小雨にしとしと濡れて…
…痛いほど冷たい冬にも吹き荒れる暴風雨にも耐えてきただろうに、敢えてそこは語らないひと達。

でも全ては「誰かのために」と耐え忍んできた。
「誰かのために散りたい」と…一見かっこいいけれど、「散り際」だけを見据えた自暴自棄とも言える思考。

모든 걸 버텨낸 건 너만을 위함인걸
全てを耐えたのは 君だけのためだから

この「誰か」は韓国語verで「君」だったのだと明かされる。たまらない。日本語では語られなかった部分が韓国語verで明かされるこの対比が…

そして私の中で培われた日本的な感覚で言えば、日本語verでは「誰か」と余白を残すことがやはり重要なのだと思うし、ただあたかも不特定多数のように語っていた対象が「君だけ」であるということが分かるとそのコントラストに眩暈がしてしまう。

真っ直ぐ咲いた花から花びらが揺れ落ちる振付。
「舞い落ちる」というには些か激しすぎるくらいに揺さぶられながら落ちてゆく。

刹那に生きてたけど
君と会い
そう 全てには意味があることを知ったんだ

「刹那」とは一瞬を表す仏教用語。
そして時間的なものだけでなく、根底には一瞬で移り変わっていく世界への無常観が流れている。
そして「今この瞬間」だけが良ければいいというような、やはり自暴自棄な意味合いを含む言葉。
ここの3音節に「刹那」を選んだハルロビンソンさんの妙といったら…

そんな彼が君と会ってその「刹那」ひとつひとつにも意味があって、点と点は繋がっていくのだということを知ったと言う。

「君が教えてくれた」ではなくて「君と会って知った」と表現する距離感が好き。君の教えを受け入れたんじゃなくて、君との出会いを通して自分なりに気づきを得たんだという感じがするから。


手のひら一枚。花びら一枚。
翻りながら舞い落ちて…
それを「掌」で受け止め、握りしめる。
その手を下に返し、指を開く。
舞い落ちた先でまた花開くということなのか、根を張るということなのか、はたまた違う意味なのか…
分からないけれどこの一瞬、掌ひとつでそこに一つの世界が生まれることに何度でも感動してしまう。

私は花

君へと舞い落ちてくよ 今すぐ会いたい
いつかきっと君が僕の心に

舞い落ちて辿り着く先を見つけた。「君」へ。
落ちていく先にいる「君」に今すぐ会いたいと、つまりはもう舞い落ちて着地することを待ち望んでいる。
とても大きな心の変化を感じる。

언젠간 만날 거야
いつかは逢うんだろう

마음속에 피어오르는
心の中で花開く

「いつかきっと君の心に」に対応する韓国語verの歌詞。この二つを合わせて読むと「いつか出逢うであろう僕の心の中で花開く君」となるのかな。どちらも片方ずつでは余りにも余白が多いけれど、だからこそ対になっているようで素敵。
僕が舞い落ちた先で出逢う君、
君と出逢うその時には僕の心の中で君が花開くんだと…

“私は花 私は花”
綺麗な花を咲かせると信じているから

「私は花」
韓国語の一人称「나」に性の区別はないので「私」とも「僕」とも「俺」とも訳せる。実際直前では一人称が「僕」と訳されていた。けれどこの部分は絶対に「私」じゃなきゃいけないと思う。
「私」という一人称の畏まった佇まい、やや女性性を孕みながらも中立を保つ立ち位置…そういった「私」の性質がこの歌における「花」と見事に調和している。

そして「私」が先ほどまでの「僕」なのか「君」なのか…そのあわいも曖昧になる。

私はあくまで自分が味わうためにしか歌詞を訳さないけれど、それでも訳す時に日本語の一人称の複雑さは厄介だなあと感じることがある。
けれどこの歌を聴いていると、厄介だからこそ面白い面もあるんだなと思える。

나는 너만의 꽃 
私は あなただけの花  

日本語と韓国語を並べると、基本的に一単語あたりの音節数は日本語の方が多い。
だから韓国語では日本語では語らなかったことが浮き彫りになるので、とても興味深い。

「私は花」という言葉に、どうしたら「あなただけの」を読み取ることができようか。
私の感性では
「私は美しくもすぐ散っていく花」
というような侘しさを感じとっていた。
そしてそれがとても好きだった。

けれど「私はあなただけの花」は強烈な希望だ。
あなただけのために花を咲かせ、散っていくのだと。
そう思える「あなた」に出逢えたのなら、散っていってもいいなと思ってしまう。

「綺麗な花を咲かせ /  ると信じているから」
という区切り方がたまらなく好き。
大きく深呼吸をするような振り付け、そして単語の途中で歌い手を変える大胆さ。

「綺麗な花を咲かせられるだろうか」
「綺麗な花を咲かせたい」
語幹で切ることでその後ろにどんな展開が続くのか、
一旦その想像の余地が聞き手に開け渡される。
まだ何にでもなれる、何にでも繋がれる
そんな柔らかい状態から「ると信じているから」
と急に強い表現へ切り替わる。
深呼吸をして、覚悟を決めたような言葉。

してやられたと思った。

Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ 
君に今 Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ 
私は花 私は花
君に今 Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ 

「Fallin’ 」の繰り返し。
「fall」という単語から想起する落ち方は
「舞い落ちる」とはまたちがう気がする。

人なら、背面や頭から落ちていく感じ。
なんとなく受け身が取れなさそうと言うか、抗えないというか、着地よりは落下という「過程」にフォーカスしているような感覚を持つ。
でも「君に今」という言葉が入った瞬間、
その「過程」に「終着点」がもたらされる。
たとえ落ちていくとしても行先が決まる安堵感。

“私は花 私は花”

風が吹き抜けるようなサウンド。
春の風は、こんな音だった気がする。
暖かく、柔らかく、しかし押すように吹き抜けてゆく。

ここの振付は何度見ても苦しい。
天に手を伸ばしては振り落とされ、
頭を抱えてうずくまる。

おそらく私の中で培われた「私は花」の侘しさはこの振り付けによって芽生えたものだろう。

まだ散りたくなくて手を伸ばすのに
抗えない落下に頭を抱える。項垂れる。
そんな中で遠くから聞こえるような「私は花」
散り際が美しいだなんてありきたりすぎて言いたくもないけれど、それでも散り際は眩い閃光を放つからついつい惹かれてしまう。

最初で最後

呼ばれたままにFallin’ 暖かな胸に
ぼやけてた未来も君と出会って鮮明になる

「Fallin’」の抗えなさ。しかし今度は重力ではなくて、君の呼ぶ声の引力に抗えずに落ちていったんでしょう。
君の暖かな胸へと。

私だけかもしれないし、理由は説明できないのだけれど、誰かの胸に飛び込むというのはものすごく勇気のいることだなと思う。
散ることだけを考えていたのなら、尚更。

今、この刹那だけを考えていたから未来のことはよく見えなかったけれど、君と出会ってその未来すらも鮮明に見えはじめたと…
いや、見えなかったわけじゃないんだろうから、「見えるようになった」というよりは「見ようと思えた」んだろうなあ。

ゆらり舞い 風のままに
ゆらり舞い 落ちた心の辿り着く先は
世界で一番幸せだった

1番では「今よりはまだ暖かいかな」だった部分が
2番では「世界で一番幸せだった」と変化した。
世界で一番幸せな場所だった。過去形。

もう、落ちて、辿り着いたんですね。

そしてその先で「世界で一番幸せ」になれたんですね…

「今までで一番」じゃなく「世界で一番」。
「世界で一番」という表現を選ぶ時、私はどんな気持ちだろうか。
「今までで一番」なら自分の主観なのでそれが事実。
ただ「世界で一番」という時、そこに根拠はない。
けれど、間違いなく「世界で一番」だと思っている自分がいる。
というよりむしろもう、他の何とも比べてはいない。
比較とか、基準とか、事実とか、もうなんでもいい。
でも間違いなく「世界で一番」だと全身が叫んでる。

それくらい幸せだと思える場所を、見つけることができたんですね…

青空見つめ もう一度咲いて
誰かのすべてになりたいんだ

君の胸に舞い落ちてはじめて、空の青さを知る。
舞い落ちた先でまた、花を咲かせる。
そして今度は「誰かのために散りたい」ではなく「誰かのすべてになりたい」と言う。

強欲だけど、切実だなあ。
わがままだけど…やっとわがままを口に出せるようになったんですね。

너에게 모든 것이 되고 싶었어 나
君にとっての全てになりたかった僕

今度の「誰か」は、間違いなく「君」だった。
同じ「誰か」と言う言葉でもこれほど受け取り方が変わるものかと感動した。
1番の「誰か」はなんだか誰でもいいみたいだった。だから韓国語歌詞を見るまでその先に「君」がいることなど分からなかった。
けれど2番の「誰か」はそのまま「君」を感じさせた。

本当におもしろい。そして、敵わない。

刹那に生きてたけど
君と会い そう全てには
意味があることを知ったんだ

1番と全く同じ歌詞なのに、なんだか違って見える。
1番では知り始めて間もないころの驚きのようなものを感じる。
2番では、もう自分のものになっている。
漢字を当てるなら「識った」のほうが近いかもしれない。自分の経験として咀嚼して、納得している。

花咲き 散る間に
傷癒え 芽は出る
僕らは最初で最後の今を生きているんだよ

花が咲き、散り、また新たな芽を出す。
その自然のサイクルの中に、傷が癒えることまでも組み込まれている。
癒ないと思っていたほどの傷も、(たとえ抗ったとしても)いつかは癒えていく。
その閉じた傷痕からも新たな芽が吹く。

自然の摂理であり、円環だ。
でも、それを受け入れた上でも、
「今」「この」「僕ら」は最初で最後なんだ。

君と出会ったことで
刹那と刹那、点と点はすべて繋がっているのだということを識った僕が、それを全部踏まえた上で…
それでもこの刹那は「最初で最後」なのだと教えてくれる。

1秒先ですら同じものはない。
君も、僕も。

そんな歌詞に呼応するように
形も大きさもメンバーも変わりながら咲いたり萎んだりを繰り返す花。

どれも美しいけれど、どれも最初で最後。
最後の今を生きている。

こんな僕を愛してくれたから

だから君を当たり前なんて思わない
こんな僕を愛してくれたから

人は慣れる生き物だから、どれだけ忘れたくなくても奇跡を忘れながら生きていくものだから、
だから歌にして何度でも思い出す。
君は、君と出会えたことは当たり前なんかじゃない。
この歌を口ずさむ時、私は思い出す。
Seventeenさん達と出会えたことも、今も好きでいさせてもらえていることも、当たり前じゃないんだ。

「こんな僕を愛してくれたから」
…愛されるはずのないこんな僕、という自己肯定感の低さが滲んでいる。人の自信のなさに付けいるのは良くないけれど、率直な感想を言えば「自分は愛されて当然」という健全な自己肯定感を持っている人よりも、私は前者の方が安心する。私自身がそうだから。
自分の中の暗い部分が、この一文の仄暗さに惹き寄せられた。

けれどそんな私だから思う。
愛されるはずがないと思っている人間が「愛してくれた」と口にだせるほど愛されるのは簡単なことではないと。「僕」は「君」によほど大切にしてもらえたんだなと…

君へと舞い落ちてくよ

生まれた。
花が綻んだようでもあり、
殻を破って孵化したようでもある。

「君へと舞い落ちてくよ」

地面に縛られていたウォヌさんと
舞い落ちたジュンくんが出逢う。

「君」がウォヌさんなのだとしたら、「僕」を愛してくれた「君」はずっと何かに縛られて動けずにいたのだ。
「僕」は舞い落ちたから地に縛られた「君」に出逢えたし、救いとなっていた「君」もそちら側から「僕」に会いにいくことはできなかった。

そんな2人が出会ったときの表情といったら…
やっと会えた。
私にはそう聞こえるけれど、もうここに言葉なんて要らないですね。

今 Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ 
君に今 Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ 
私は花 私は花
君に今 Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ Fallin’ 

「呼ばれたままにFallin’」と呟くこの歌の終わり
CARATが旋律に乗せて彼ら一人ひとりの名前を呼ぶ。
CARATの呼ぶ声に合わせて彼らはまた「君に今Fallin’」と繰り返す。

Seventeenの全ての歌はCARATのためのものと言う。
舞い落ちる花びらもまた、CARATの声と合わさって物語を完成させるような歌だ。
歌詞の世界がそこにむけて収束していくような歌だ。
…なのにまだこの歌にCARATの声が乗ったことがない

いつかその時が来たら、一つになった「舞い落ちる花びら」は、それはそれは美しいんだろうなと思う。
そしてきっと彼らは「CARATは本当に才能がありますね」「CARATの歌声は本当に綺麗です」と微笑みながら、なんだか自分のこと以上に誇らしげな顔をして言ってくれるんだろう。

最後の舞い落ちる振付は、強く手を握りしめたところで終わる。そのあとの指を開く振りはない。

舞い落ちる花びら

ここまで書いてきても、まだ書き足りない。
歌詞も、音楽も、MVも、振付も…
私の中に十分な受け皿がなくて、たくさん取りこぼしてしまった。けれどそれはいつか受け取れるようになればいいなと、楽しみでもある。

Seventeenさんの曲が日本語になる時
日本語オリジナルで出された曲が韓国語になる時
そのどちらも、ただ「別言語版を出すこと」が目的になっているんじゃないということが本当に素敵だと思う。

音に無理やり言葉を詰め込むでもなく
こだわりなく言葉を肉付けするでもなく
敢えて二つの言語で歌を出すことの醍醐味が思う存分活かされている。どちらもそれぞれに美しい。

初めと聞いた時、本当に衝撃を受けた。
「韓国アイドルなのに」とかそんな冠つけさせない。
“日本語の歌として”最高に美しく、切なく、愛おしい歌だった。

これは楽曲制作に関わる全ての方々による
「Seventeen」への愛と、仕事に対する誠実さの
賜物だなと思う。

毎回毎回期待を遥かに超える作品に出会えて
本当に贅沢で、幸せだ。

最初で最後の、舞い落ちる花びらが
私の掌に届いてくれた奇跡を抱きしめる。
こんな僕を愛してくれたから。

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