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環・この夜を照らすのは
信じられないことに、私がSeventeenさんに出逢ってから今日でちょうど1年です。
私の世界に、目を疑うほど強く美しい光が差し込んだあの日から1年。一巡り。
当たり前なんだろうけど、
1年って本当に経つんだなあ…
というのが率直な感想です。
綺麗で、可愛くて、カッコよくて、優しくて、面白くて、楽しくて、好きで、好きで…
あまりにも大好きでビックリし続けた365日でした。
1年経って改めて、Seventeenさんの好きなところを書き出してみたいなと思ったので、またnoteを開きました。
芸人アイドル
なんといっても私が彼らにハマったきっかけは、彼らの「面白さ」でした。
13人13様の面白さが絶妙なハーモニーを織り成し
13人だからこそのやかましさが最高に楽しい。
字幕がなければ言ってることは何一つわからないのに、それでもめちゃくちゃ面白いんです。
間の取り方、表情の使い方が本当に巧い。
笑いに関してこういう表現をするのは野暮な気もするけれど、爆笑しながら「ああ、この人たちは本当に頭がいいんだろうなあ」と感動することが沢山あります。
あと、メンバーの言動に対して本人たちが誰よりもツボに入って楽しそうに笑っているのが素敵です。
メンバー達が1番お腹を抱えて笑ってる。
そんな彼らの笑顔を見てまた笑って、癒されて…
そんな幸せな時間をたくさんもらってきました。
楽しいことをやりたい、面白いことをやりたいというSeventeenさん達の意思と
目の前の人を笑わせたいという想いとが
私は大好きで、そして心から、救われてきました。
痺れる群舞
ハマったきっかけが彼らの面白さなら、落ちたきっかけがパフォーマンスです。
カッコいい。とにかくカッコいい。
最初に見たのはDon't wanna cryの2倍速ダンス。
誰が見ても「おおお!」と声を漏らすような驚異的なシンクロ率に、私もまた衝撃を受けました。
でもただ揃っているだけじゃない。
「揃える」というと没個性的なイメージになるけれど、彼らは違いました。
全員が全員、主人公だったのです。
入れ替わり立ち替わり主役が出てきてはその場をその人の色に染め、また次の瞬間には群舞に溶け込んでいく。
個性を際立たせるために揃える…
でも揃っているところもよく見ると個性が出ている。そして「揃える」ために敢えて一人ひとり違う動きをしているんですよね…
体格もバラバラな13人なので、全く同じ動きをしたらきっもバラバラに見えるんだろうけれど、それぞれ微調整をしている。
だからこそ俯瞰すると恐ろしいくらい纏まって一つの生き物のようで…
自由だな…
と思いました。
奔放という意味ではなく、これができるだけのスキルを持っているということが、自由だなあと。
引き出しがとにかく多く、出すも引くも自由自在。
表現の幅が格段に広がる。
「個」でも「群」でもどれだけ最新の注意を払って練習を積めばこの境地に達するのか、私には想像もつきません。
引きで見て、寄りで見て、それを踏まえてまた引きで見て…そんなことを繰り返しながらひとつのステージて何度でも味わえてしまうSeventeenさんの群舞に私は惚れ続けています。
「自主制作」
Seventeenさんの代名詞である「自主制作」という言葉。
とはいえ100%メンバーのみで作っているわけではないので、私はこの言葉を使う時少し慎重になってしまいます。
彼らの自主制作はメンバー以外のスタッフの方々の愛と尊重によって支えられているということを、彼ら自身がたくさん発信してくれているからです。
ただSeventeenのメンバーが楽曲制作や振付、プロデュースの中心を担うことによって、Seventeenが非常に個性的なグループになっているのは事実です。
一貫性と、覚悟。
「自主制作」であることによって、彼らが見せたい姿と彼らの表現する内容、そして彼らの心とが一貫しているように感じます。
これは自論ですが、アイドルという存在が直面し続ける危うさの一つとして「市場の要求に答える必要性」があると思います。
「偶像」を作ること。夢を売ること。非現実、非日常、いわゆるハレの世界を提供すること。
そこに価値を見出される存在がアイドルだ…という切り取り方もできると思うのです。
ただ、Seventeenは「自主制作」であることによって「求められること」と「表現したいこと」を限りなく近づけることができる。
「求められること」を表現するのではなくて、「伝えたいこと」を求められる形で表現する、という選択ができる…
(もちろんそれをできるだけの技術や引き出しをもっているからなのですが)
私はそこに、安心感があるのだと思います。
ただ興味を引くだけの言葉じゃなく、彼らを応援していく中でこの安心感がどれだけ大切だったかわかりません。
彼らの言葉を、歌を、振り付けを、それら全体から伝えられるメッセージを、一本芯の通ったものとして受け取れるという安心感、信頼感。
本当に、本当に有難いです。
そしてそれと表裏一体のものとして彼らに突きつけられる「責任」。
ある日突然全ての曲を僕が作ることになったんです。
僕はそれがとても…すごく感謝しなければいけないことですが…僕はとてもそれが…自分を含めた13人の行く道が決まる気がして、本当に辛かったんです。
でもそれをメンバーには言えなかった。親しすぎるから言えなかったんです。全て僕の過ちのようで…
何度も引用したウジさんの言葉。
でもやっぱりこの言葉が一番自主制作の重みを表していると思うのです。
自主制作をするということは、自分たちの作品の責任を自分たちで負わなければいけないということ。
失敗を肩代わりしてくれる人がいないということ。
もしダメだったとしても人を代えれば良い、とはならないということ。
恐ろしいなと思います。
この道を選ぶには、凄まじい覚悟が必要なのだと思います。
ただ愛が伝わればいいというものでもない。
多くの人に届いて、そしてその人たちを動かさなければいけない。
数字が全てではないけれど、数字が上がらなければ活動を続けることもできない。
その狭間を、人前に立つ本人が、ファンの視線と期待を受ける本人達が切り拓かなければいけないのだから、本当に恐ろしいことだなと思います。
なのにそれを続けてくれているのだから有難いです。
本当に有難い。
滅多にあることじゃないからこそ、私はこの奇跡の様な愛にどう報いたらいいのか、ずっとずっと分からないままです。
愛はここに在った
Seventeenさんにハマり、Seventeenさんという沼に落ち、そしてその有難さを痛感し…
私は彼らの愛を見ました。
愛という言葉はよく聞くけれど、彼らに出逢う前の私は、愛というものはもっと不確かで、様々な感情に埋もれてしまうもので、形而上のものだとばかり思っていました。「愛」を否定するわけではないけれど、「愛」を望むほどその存在を信じることはできていなかったのです。
でも私は彼らに出逢って愛を見ました。
驚きました。困惑しました。
諦めていたものがそこにあったのですから。
空想上のものと思っていたユニコーンが急に目の前に現れた様な…そんなファンタジーめいた感覚すらありました。
彼らの言葉の端々や、言葉の紡ぎ方や、
メンバーやCARATへの眼差しや、
13人の関係性、並んだ時の距離感ひとつ取っても…
純度の高い、愛でした。
彼らの「愛」を一番近い言葉で置き換えるとすれば…「信頼」と「心配」かなと思っています。
この世界に対してはどこか諦めた様な切なさがあるのに、歌詞に出てくる「君」、そして恐らくその先にいる家族やメンバーやCARATに対する揺るがぬ信頼で満ちているんです。
「君」を善人と信じてやまない。一抹も疑わない。
でも「君」の人間性を、選択を尊重する。
たくさんの人の利害が交差し世間の目と数字とに晒され続ける芸能界という環境で、疑心暗鬼になってもおかしくないのに、むしろ自分を守るためにはそうするしかないような気がするのに、彼らはそちらに流れないのです。
きっと彼らは「陰」から目を背けているわけじゃなく、光と陰どちらも見たうえで強い意思をもって「光」の方を見続けているのだと思います。
その上でいつも「君」の「心配」ばかりするのです。
自分のことより相手のことばかり。
自分も傷だらけなのに「君は痛くない?辛くない?」と聞いてくれるような…
私はこれを自己犠牲とは呼びたくないのです。
だって彼らの視点は最初から自分より相手に向いているから…自分を犠牲にしてるだなんて考えていないように見えるから、こちら側から「自己犠牲」だなんてラベリングしたくないのです。
自分を犠牲にして何かしてあげてるなんてきっと思っていなくて、むしろ「僕はもらってばっかりだ」と繰り返す彼らの「愛」を「犠牲」と引き換えに得たものだと思いたくないのです。
そんなSeventeenさん達に対して、CARATちゃんもいつも「心配」しているように思います。
自分の痛みに向き合えてる?大丈夫?と。
彼らがこちらの心配ばかりしてくれるから、こちらも彼らの心配ばかりしてしまう。
「信頼」しているけれど互いの「心配」ばかりしてしまうこの関係が、私は一年前からずっと愛おしくて仕方がないです。
この先も13人で
13人。
ひとつのグループとして常に活動する人数としては恐らく最大人数のSeventeenさん。
本当に、奇跡だと思います。
「この夜を照らすのは」のnoteでも触れましたが、友人であり、家族であり、ある意味ビジネスパートナーでもある関係性で13人のバランスを保ち続けるのは本当に難しい。
寄りすぎず、離れすぎず、
自分を立てすぎず、損なわず、
相手を尊重しながら、理解を放棄せず
ぶつかって、対話して…
彼らがどこまで意識的にやってきたのかは分かりようがないけれど、きっと感覚だけで乗り切れる人数と年数ではないと思うのです。
意思を持って、工夫して、努力して、雨の日も風の日も1日1日を積み重ねてきたんだと思います。
私はそんな彼らの存在が本当に眩しく、この暗い世界を照らす光のようだと思っています。
そしてそんな13人が、1人もかけることなく
再契約を結びました。
彼ら一人一人が、彼らの意思で、この先も13人でSeventeenでいる未来を選んだのです。
結ばれたんじゃなく
結んだんだ
【Aimer 蝶々結び】
再契約の記事を見て、この歌詞がふと頭に浮かびました。
Seventeenさんは、きっと前向きな選択として別の未来を選ぶこともできたと思います。
そしてその選択をするメンバーがいたら、それを尊重することができる信頼関係もできていると思います。
誰に強制されるでもなく、他の選択もできた。
その上で、また結び直したのです。
SEVENTEENを誇らしく思う理由は、「自主制作」というタイトルじゃないんだ。
僕たちの仲がいいことが最も誇らしく思う。
リーダーの言葉。また同じ言葉の引用です。
1年経っても彼らを語るときに取り上げたいことは変わらないみたいです笑
この言葉の通り、彼らの最も稀有なところは「自主制作」であること以上に「13人の仲が良いこと」だと思います。
一言ではこの奇跡を表せない。
表せないけれど全世界に自慢したい。
Seventeenは、13人という関係をこれほどまでに成功させたグループなのだと。
素晴らしい13人が集まり、素晴らしい「13人」を作り上げた世界にただひとつのグループなのだと。
いつかCARATじゃなくなっても
私がCARATじゃなくなるとき。
それは私がペン卒をするとき。
もしくはSeventeenが活動に終止符を打つとき。
私は最初に書いた「この夜を照らすのは」というnoteの中で、「いつか好きじゃなくなっても」という章を立てました。
今までの私は辛い時に頼っていた大好きなものと、辛い時の記憶とが強烈に結びついて、その状況から解放された途端にその好きなものすらも見れなくなってしまっていた、という話です。
そんな私が、彼らを大好きでたまらないまま一年を迎えました。
一年なんて彼らとCARATの歴史に比べれば、本当に一瞬です。
それでも、私にとっては奇跡のようでした。
1年間ずっと、好きでいられた。
好きでいさせてくれた。
新しいままで居続けてくれた。
カッコいい姿を届け続けてくれた。
スングァンちゃんもいつかのメントで言ってくれていたけれど、何か一つのものを好きでい続けることも応援し続けることも、簡単なことじゃないと思います。
そしてそれはどちらか一方の意思だけでなんとかなるものではないとも思います。
少し傲慢に聴こえるかもしれませんが、CARATもまた、「結ばれたんじゃなく結んだ」のだと思います。
Seventeenさんが好きでいさせてくれている。
それは間違いのない事実ですが、私もまた、彼らを好きだという気持ちを大切にし続けてきました。
好きでいなければいけないからじゃなく、義理でもなく、約束でもなく。
だからこそ、そこに終わりが来るのもまた必然だと思っています。ずっと続いてほしいけれど、続けることだけに囚われずに選択し続けていきたいのです。
私はSeventeenさんに光を見せてもらいました。
愛を見せてもらいました。
CARATという名前をもらいました。
思い切り泣いたり笑ったりできる日々をもらいました。
CARATにならなければ出逢わなかった人たちにも信じられないくらいの優しさをもらいました。
CARATにならなければやろうとすら思わなかった経験もたくさんできました。(韓国語を勉強したり、CDをウン10枚買ったり、本を作ってみたり…)
CARATではない周りの人たちの暖かさにも目を向けられるようになりました。
いつかCARATじゃなくなっても
CARATでいた日々を虚しく思わないと確信を持てるくらいに、私はたくさんの大切なものをもらってきました。
それでも、私は今日もCARATでいます。
Seventeenが大好きです。
私の夜はまだ明けませんがそんな中でも歩いて来れたのは、生と死を天秤にかける日も「生」を選び続けてこれたのは、Seventeenさんが光の筋を届けてくれたからです。
この夜を照らすのは、あなた達です。
それは、いつかCARATじゃなくなっても
きっとこの先ずっと変わることのない
私の奇跡です。
밤