바람개비
この曲を聴くと秋を思い出し、秋になるとこの曲を思い出す。私にとって誰でもない遠い「誰か」を待ち詫びる気持ちは秋の空気と似ているんだろう。
この曲を聴くと胸がキュっとなって、苦しい。
でも大好きな曲。この短い秋が終わる前に改めてその中に体を浸したいと思って書き始めた。
韓国語がオリジナルだけど、日本語verも大好きなので、その訳の素晴らしさも含めて話していきたい。
「風車」が韓国において一般的にどんな情景を掻き立てるものなのかはわからないけれど、「바럼개비」という表現をするときには日本で「ふうしゃ」と呼ぶものではなく、あくまで「かざぐるま」と呼ばれる玩具を指すらしい。
私の記憶に色濃く残る風車といえば、青森の恐山で見た姿で、それがまた一層もの悲しさを掻き立てているのかもしれない。
風車は風に吹かれてカラカラと回るのが醍醐味だけれど、この歌においてはその「回る」という性質ではなく「立つ姿」の方に焦点を当て、誰かを待ち侘びる自分の心情と重ねている。風を受ける部分が顔のようにどこかに「向く」という印象を与えるからだろうか。
ウジさんの思い浮かべる風車が、そこに伴う思い出が、一体どんなものだったのか…知りたい気もするし知らないままでいたい気もする。
日本語は一単語あたりに要する音節が多いので、韓国語の意味を汲みながら音を合わせるにあたっては単語数を減らさなければいけないという難しさがあると思う。
けれど、特に「ぽっつりと立っていた」という表現なんて、意味も音も損ねないまま情景を丁寧に汲み取っていて、感動のあまり悔しさすら覚える。
この、回りくどさが好きだ。
結論だけを話さないところが好きだ。
世界のせいで君と離れてしまったという思いが心の中に確かに浮かんだのに、自分を正当化する言い逃れのようで、自分の中だけで握りつぶしたこと。
外から見れば「何も起きていない」その過程を…「言わなかったこと」を…全世界に響く歌にしてくれるところが好きだ。
それを歌にできてしまうくらい、心の内側で「掻き消したものたち」を自覚していることは、きっと辛いことも多いかもしれないけれど、そんな歌にしか掬い取れないものが確かにあると信じている。
この最後の1行「ただ立ち尽くしていた」は、オリジナルの「風を受ける」という描写を抜いている。風を受けて立つ…すなわち風車そのものを想起させるこのフレーズ。
それが私にとっては惜しいと思う一方で、日本語詞担当のbarboraさんが決してその表現を取捨選択の「捨」に分別したのだはなく、惜しみながらも最大限汲み取った結果であろうことが伝わってきて、これ以上の日本語訳はないと思っている。
待ち侘びる誰かを想いながら、会えないことを誰かのせいにしたいという思いを噛み潰しながら、ただ風にさらされるばかりで、立っていた…
それはもう「ただ立ち尽くしていた」だと思うし、無声音であるタ行が並ぶことによる音のもの寂しさも相まって、歌われた時に改めて真価を発揮する訳だなと感じる。
SEVENTEENのJP verは、そういう製作陣の方の誠実さが垣間見えて幸せな気持ちになる。
大切な人たちの大切な言葉が大切にされていると感じられるのは、本当に嬉しい。
君を待ち続けるよと言いながら、その理由はそうする方が自分が心穏やかでいられるからだと言う。
その上でどれだけ先になっても、僕の元を訪れてくれればと重ねる。
きっと、「僕」はそのどの言葉も面と向かって「君」に言うことはないのだろうと思う。
歌だからこそ、国を超え時を超え共有されるものだからこそ、「待っている」という、成立してしまったら負担にもなりかねない約束を差し出すことができたんじゃないかと思う。
源泉にある濃く強く切実な想いを受け手のために薄めるのはきっと優しさでしょう、と…SEVENTEENが歌うからこそ、そんなふうに受け取れる。
もっと背負わせてほしい、もっとぶつけてほしいと思ってしまうこととあるけれど、そういう形を選び取らないあなたたちに守られている。
この前のフレーズで訳に含めなかった「風に吹かれる」という表現を、逆にオリジナルでは登場しないサビの部分で持ってくるという選択に涙が出る。
その表現を絶対に落としたくないという強い思いを感じるし、「その方が心が楽で」と言う部分にこの「風に吹かれながら」が重なると相乗効果で一層深みを増す。本当に…全てが有難い。
風に吹かれる「僕」に対して過ぎゆく人たちが上辺だけは心配そうに冷たくないのかと聞いてくる。
ただ一途に「君」を待ち続ける先ほどまでの「僕」だけど、優しさの裏にある無関心を見透かしてしまうくらいには傷ついた記憶を忘れられずにいるのかもしれないと…感じるのはただの投影だろうか。
そんな、人々が不思議に思うような風の吹く場所に「僕」が立ち続ける理由は、その風が「君」の方から吹いてくるように感じるから。
この風はきっと、遠く離れてしまった君の元から吹いている…妄想だとしてもその感じ方がとても柔らかくて、ひとつの智慧を授かったような気持ちになった。
「風は冷たくないかい」そう尋ねてきた人はもしかしたら、本当に心配してくれていたのかもしれない。それでもその優しさは「僕」をあたためない。
「僕」に吹く風は、避けるべきものでも遮るべきものでもなく、ただ君を待つ縁だから。
メインボーカル2人の見せ場であるパート。
その声量も表現も最大値に向かっていく様が、押さえていた感情が膨らんでいくようで胸がギュッとなる。
無情に流れていく時間が「君」を隠して追いやってしまうかのようだと…
いつだって、遠い未来になろうと君を待ち続けると言ったのに、君に会える日は訪れないんじゃないかという不安がよぎる。
時間が経つにつれ、忘却の波に抗えず、大切な「君」の姿がだんだんと薄れていく…
ここでオリジナルにはなかった「怖い」という言葉が入る。いや、言葉にはなっていなかったけれど確かに「怖い」と聞こえた気がした。
待っていると約束したのに、それが「僕」の心の拠り所でもあったのに、記憶がこぼれ落ちていくことは…怖い。
今はまだ「忘れていく」ことを感じられるけれど、きっといつか、忘れたことすら忘れてしまう。
SEVENTEENの楽曲の「忘れる」ことへの恐れに救われているということを以前noteに書いた。
忘れるというのは、当たり前のことだ。
当たり前のことなのにこんなにも恐ろしい。
大切なものが増えれば増えるほどに。
それでも泣くな
…きっと「僕」が自分自身にかけた言葉だ。
忘れていくなかでもまだ「僕」のもとには微かに「君」の香りが残っている。
きっと、この風の中には「君」がいる。
その「君」のために風に向かってまた歌うのだろう。
決意を新たに、再び歌い直す。
どれだけ先になろうとも「君」に逢えるようにと。
たとえそれが遥か先になっても。
たとえそれが
君を忘れたずっと後の、或る日だったとしても。