マゼンダ色の傘の向こう〈ショートストーリー〉
「ゆめちゃんが透明のビニール傘使ってるのってなんか意外。」
強い雨から逃げるように入ったカフェで、
アイスコーヒーを飲みながらソウスケは言った。
たしかに傘立てに入れる私の傘を見て
なんだか一瞬止まっていたな。
突然弱点をつかれて心臓がぎゅうっとなった私は、
仕方なくヘラヘラ笑いながら、
向かいに座るソウスケの頭頂部を見ながら答える。
「なくすのが嫌なんだよね。」
私は23歳のある日、
自分のお気に入りの傘を買うことをやめた。
立て続けに2回どこかに忘れてしまったのだ。
子供のころから傘が好きだった。
5歳のころ大好きな叔母さんに、
魔法少女系のキャラクターがついている
小さなピンクの傘を買ってもらって以来、
常にその時の自分に合わせて傘を買い替えてきた。
キャラクターものを卒業してからは、
お母さんとデパートにいくと必ず
1階の傘売り場に行き、マダムたちに混ざって
ブランドものの傘をチェックした。
中学生のころから気になり始めた
私のクセッ毛が爆発しがちな雨の日。
お気に入りの傘がさせることで
なんとか気分はセーフだった。
そんな私の生命線の1つである傘を、
2回もどこかに忘れてしまった。
新卒で営業職に就いた私は、
初めての「お仕事」、
初めての「環境」、
初めての「社会のルール」という
初めての色々に、かなりダメージを受けていた。
たぶんただそれだけなのだ。
ただ疲れていただけなのだけど、
私は自分の生命線の1つを簡単になくしてしまった。
人生で一番必要だった時期に!
私は自分を「なんて奴だ!」となじった。
そしてそんな自分に言った。
「もう買ってあげないから!」と。
言われたほうの私も、
「こんなになくしちゃう私には
素敵な傘を持つ資格はないよね。」
「なくして傷つくのはもう嫌だから、
なくしてもいいやつを買おう。」
と答えていた。
それ以来、私はビニールの透明傘しか買っていない。
ビニール傘生活を始めたらとても楽だった。
帰りに傘立てから取ろうとする瞬間の
「なくなってたらどうしよう!」がない。
雨の日に歩き回らなければいけない時の、
「私ちゃんと持ってるよね!」という
頻繁な確認をしなくていい。
朝は降っていて昼からがーっと晴れた爽快な午後に、「傘忘れずに持って帰らなきゃね」
という自分への念押しをしなくていい。
だってなくしてもいいのだから。
だってお気に入りの傘を持っているわけでは
ないのだから。
そして私のビニール傘生活は丸7年を迎えた。
社会人生活にもすっかり慣れて、
憧れていたブランドで服が少し買えるようになったり、
雑誌で見かけて一目ぼれしたバッグを
奮発して買ってみたり、
お誕生日に彼から華奢なネックレスを
プレゼントしてもらったり、
そんな風に私の「外側」は少しずつ
私が思う「大人の女性」になりつつあったけど、
それでもかたくなにビニール傘を使い続けていた。
でも。
快適と思われたビニール傘生活が
この1年揺らいでいる。
それはソウスケと付き合うことになったせいだ。
ソウスケはモノになかなかこだわる人で、
「キーケースを買い替えたい」と言い出し、
理想のキーケースを探す旅に付き合ったら、
買うまでに5か月かかっていた。
雑誌やネットで情報を探しまくり、
理想のキーケースをなんとなく思い浮かべ、
街中のめぼしい店を訪ねまわり、
5か月後とうとう手に入れた。
その5か月間、ずっと楽しそうだったし、
手に入れた瞬間も、手に入れてからも、
ただただ楽しそうだった。
そして、毎日鍵を閉める時、開ける時、
目に入るキーケースを見てにんまりするそうだ。
それはキーケースに限ったことではない。
彼の生活のすべてはそんな風に吟味した
「風味絶佳」なものでぎゅうぎゅうに満ちている。
そんなソウスケを横目で見ながら、
この1年ちくりちくりと私の心の中で
隠れていた「傘問題」があぶりだされてきていた。
私が失ったものは、「傘」ではなかったのかも。
雨の朝、どんよりした低い空を見ながら
「あの傘がさせる!」ときらっと目が光る瞬間とか。
どんなに空が重い色でも、
ふと目をあげると大好きな色で
私が覆われている安心感とか。
黒や透明の傘ばかりのオフィス街で、
色鮮やかな傘をさす私だけが
浮き上がっているように感じる恍惚感とか。
干していた傘を丁寧にしまう時の幸福感とか。
お気に入りの傘を持たないことで、
失ったものは私の充足感のカケラたちのほうだった。
そして、私にとって雨の日がただ憂鬱な日になり、
傘はただ雨をよけるものとなっていた。
好きなものでぱんぱんに満ちた
ソウスケと接しているうちに、
「私が失ったもの」がくっきりとしてきていた。
くっきりとしてきたのにも関わらず、
私はなぜか傘を買うことについて考えると、
シャーっと脳の中にカーテンが引かれるように
思考が止まってしまって動けなかった。
何かから逃げているときのぬるっとした痛みが走るのだ。
だから今ソウスケが
ビニール傘のことを聞いてきたとき、
本当に心臓がぎゅうっとなった。
「ゆめちゃん自分のことものをなくす人っていうけど、
今まで1回も何かを忘れたり落としたりしてるとこ
見たことないよ?
なんなら俺のほうが財布落としたりケータイ忘れたり
鍵なくしたりしてるよ。」
笑いながら、でも私の目の奥を見ているような顔でソウスケは言った。
脳の中のカーテンが一瞬引かれそうになったけど、
私はバシっとそのカーテンの動きを止めた。
そうか。
私はなくす人ではない。
ただあの心身ともにやられていた時期に
たまたま傘を忘れてしまっただけ。
ダメな人なんかじゃない。
お気に入りのものをもつ資格がない人なんかじゃない。
もう許そうか。
私は私を許せなかっただけなんだ。
傷つくのが嫌だからもう恋しないと言っている人と
同じだったんだ。
ソウスケの目を見ながら答える。
「そうかもしれない。
お気に入りの傘探してみようかな。」
ソウスケは嬉しそうな顔で、
さっき運ばれてきたドーナツを食べ始めた。
ニコニコしながらドーナツを食べる
ソウスケを見ながら心の中で言う。
ソウスケ、ありがとう。
私一人では私を許せないでいたよ。
失う恐怖に負けたりしないで、
私もソウスケみたいに大好きなものを
しっかり抱える勇気を持つよ。
ビニール傘がたくさんささっている私んちの傘立てを、
まるごとお気に入りの傘で満たされた傘たてに変えてみせる。
ソウスケはいつも通りの天真爛漫さで、
ゆめちゃんはねー。マゼンダ色の傘が似合うと思うよ!と言いながらドーナツを頬張っている。
おわり